人のための小羊――家のための小羊――
国民のための小羊――世のための小羊
言葉は神の愛の無限の広さを描写できない。贖いの物語は、天使たちを驚かさずにはおかない物語である。罪からの人の解放、その罪の結果からの人の解放は、あまりにも途方もない事実なので、永遠の神の御心しかそれを思い付けないし、無限の愛以外の何物もそれを成就できない。
地に群がる数百万の人々の上に、神はその恵みの天蓋を張られた。その天蓋は神の愛から生まれた多くの約束で飾られている――これらの約束は、空の天蓋を飾る星々のように、夜の暗闇の中で輝いている。罪の贖いの物語は、死すべき人の耳に入った物語の中で、最も素晴らしい物語である。
この命の計画が進展して行くとき、天の境界で天使たちを抑え切れないことが度々あることに、何の不思議があろう?彼らは愛の歌を歌わずにはいられないのである。その愛はあまりにも驚くべき、神聖なものなので、全人類にできるのはその広大さに没頭することだけである。
人類はそれを理解できないが、受け取ることはできる!人の言葉は神の御思いを収めきれないが、主は御自分の御思いを赦しと平安という形で、すべての明け渡された心と生活の中に具体化して下さる。
われわれの贖いの中心的事実は、神の御子の身代わりの御業である。キリストはあなたのために死なれた。彼は私のために死なれた。彼はわれわれの死を死なれた。彼はわれわれの罪を担われたからである。彼は永遠の義の法廷の前で、囚人としてわれわれの立場を取られた。われわれの罪を負われた。われわれの咎を負われた。彼は懲らしめられて、われわれに平安を与えて下さった。
座して、この永遠の手続きを見守ることしか、われわれにはできなかった。罪を知らない方がわれわれの罪を負われた。そして、刑の執行の時が来た。人々は彼をカルバリの十字架に釘付けた。そして、負債は永遠に支払われた。その血が流されることにより、全ての違反に対する贖いがなされた。
この永遠のいけにえを捧げることにより、栄光の真珠の門が恵みという蝶番の上で回転して広く開かれた。そして、聖徒たちは死の門を擦り抜けて、星々の彼方の永遠の命の中に入った。ああ、比類ないイエスの愛!ああ、その恵みの素晴らしさよ!
われわれが聖書と呼んでいるこの本の集まりの中には、神の御旨の素晴らしい劇的な発展がある。血による贖いの真紅の紐が、創世記から黙示録まで途切れなく貫いている。不完全なものは道を譲って、完全なものが発展した。根から花が成長した。根の中に隠されていたのはその芳香と色彩であり、それがわれわれの視界に入るようになるには、ただ雨粒のキスと太陽の微笑みだけが必要だった。
律法の中から恵みが生じた。旧契約の中から、さらに優った契約の美が花開いた。神聖な発展のこの路線は、霊感された御言葉を途切れることなく貫いている。われわれは今、四匹の小羊の興味深い麗しい物語について考えることにする。
1.人のための小羊
それは世界史の初期のことだった。人類史の始まりの時だった。明るく照らされたエデンの回廊を、人の違反と罪という黒い幕が遮った。違反を犯した御使いたちのために遥か昔に地獄が備えられていたが、暁の子であるルシファーに従って不従順に陥った堕落した星たちはそこに送られた。この刑罰の場所は堕落した人類にふさわしかったのではないだろうか?
違反を犯した人は永遠の刑罰の地獄の中に、直ちに否応なく落ちるしかない、と普通なら思っただろう。しかし、その園の中に創造者である神が来られた。人は御顔の前から逃げた。人は神を探していなかったが、神は人を探しておられた。
「あなたはどこにいるのか?」が、谷間に響き渡った叫びだった。「あなたはどこにいるのか?」と存在する万物の創造者は叫んだ。神を探索に駆り立てた愛はあまりにも大きかったので、人が罪の隠れ家から現れるまで神は探索をやめなかった。神の計画は人を取り戻すことだった。神の御旨は赦すことだった。世の基が据えられる前から、永遠なる神の御心と御思いの中にはこの計画があった。
神御自身が人の罪を負うつもりだった――神御自身がそのための罰を忍ぶつもりだった。この驚くべき計画が究極的進展を迎えるとき、史上最大の奇跡が起きることになっていた。受肉の奇跡である。
母なる自然の暖かい抱擁の中で花が咲くためには、まず小さな種が植えられなければならない。小さな種の中にどのように色彩や香り、栄光や美が隠されているのだろう、と人は思うだろう。しかし、種を土の中に植えると、神の法則に従って命が死の中から生じる。そして、神の御力が創造した花の上に夏の太陽が微笑む。
恵みの計画を進展させる神もそうだった。ある日、一つの供え物が主にささげられた。それは、アベルがいけにえの祭壇に持ってきた一匹の小羊だった。それは一人の人のための身代わりとして命を与えるためだった。神が栄光の胸壁越しに御覧になった時、神はその小羊のうちにベツレヘムの赤子を御覧になった。粗雑な祭壇の上に注がれた血の一滴一滴のうちに、神は天の贖いのいけにえが流した血がカルバリ山の地面を染めるのを御覧になった。その種は地に落ちた。律法はその茎を通して発展することになっており、遂には神の恵みの完全な働きにより、神の花が世に対する愛の賜物としてもたらされることになっていた。
カインの供え物は主にとって忌むべきものだった。それは彼自身の奉仕の結果だったからである。それは彼自身の労苦の成果だった。しかし、小羊の血は神の目から見て受け入れられるものだった。小羊はその血を与え、アベルは救われた。それは人のための小羊だった。
天の法廷は賛美で鳴り響いた。人の姿をした祝福の食卓を神が備えられた時、天使たちは驚いてそれを見つめた。この食卓に全世界が招かれて、座して祝うことになっていた。このいけにえは主に受け入れられるものだった。第一の供え物は人のための小羊だった!
2.家のための小羊
差し迫った悲劇が、棺を覆う幕のように、古代エジプトの上にのしかかっていた。光と闇が優位に立つべく争っていた。告げられた神の御旨に逆らって、邪悪な王が反逆の手を上げた。数々の災厄がエジプトの上に下った。イスラエルの子らを行かせることを、神は決意された。彼らをとどまらせようと、パロは決意した。辛坊強く忍耐強い神は何週間も待たれた。その後、神は反逆の民に最後の一撃を加えられた。
死の御使い――復讐の御使い――がエジプトの暗い通りを歩み、手に剣を持って、命の紐を断ち切ろうとしていた。死と滅びが、途方もない復讐の一撃の下で、国全体をよろめかせようとしていた。しかし、神が選ばれた民は、その晩、救われることになっていた。彼らは小羊を取るよう告げられた。小羊は屠られて、その血は彼らの家のかもいと入口の二つの柱に降り注がれなければならなかった。
地のいかなる交響曲よりも遥かに素晴らしいのは、神が御民に語られたメッセージだった。「その血を見る時、私はあなたたちを過ぎ越す」。代々の聖徒たちはこの歌を歌うことになっていた。諸世紀にわたって贖われてきた人々が立ち上がって、この解放の素晴らしい夜のゆえに神に栄光を帰すことになっていた!
行進する民が砂漠を横切ってエジプトから良き地に行くことになっていた。彼らは死と滅びを逃れて、命と解放を見出すことになっていた。それは流された血のゆえである。ハレルヤ!それと同じように今日の聖徒たちは、自分の罪というエジプトから出発して、真珠の門を通り、神御自身がすべての目から涙を拭って下さるエデンの谷に行くことになっていた。礼拝堂や大聖堂、店や家で、彼らは「その血を見る時、私はあなたたちを過ぎ越す」という解放の証しをすることになっていた。この計画が進展しつつあった。かつては人のための小羊だったが、今や家のための小羊だった。
夜影が田園に忍び寄った。月は天に低く懸かっていた。復讐と刑罰の時が来た。死の御使いが迅速かつ確実に打った。主の御前で不従順だったために打たれた人々から、大きな長い悲しみの悲鳴が上がった。
ゴセンの東の山々の砂っぽい荒地の上に、いつものように日が昇った。奴隷小屋の中からイスラエルの贖われた家族が出てきた。彼らは旅の準備をしていた。神の御言葉と約束の正しさが証明された。小羊――家のための小羊――が屠られた。小羊が屠られて、家族は生き延びた。「その血を見る時」と解放された群衆は唱えた。「その血は救う」と幼子たちは歌った。多くの口が「その血の覆いのゆえに私たちは滅びから守られた」と唱和した。
神に感謝せよ、その血が贖いをなしたのである。緊張が解ける前に、イスラエルは行進した。そして最も小さな者から最も大きな者に至るまで、家のための小羊の物語の栄光の中で、すべての人が心から喜んだ。
3.国民のための小羊
奇妙で独特な建物――ほとんどは衣でできていた――が幕屋として知られていた。それが建てられたのは神が御民の間に住むためであり、それがいと高き方の地上の住まいとなるためだった。それは神の恒久的・究極的計画ではなかった。それは恵みのオラトリオが展開する一つの面にすぎなかった。贖いの愛の交響曲の中の一つの神聖な楽章だったのである。
その種は芽生えて、律法という茎が育ちつつあった。その中には、後年に啓示される奥義が隠されていた。幕屋として知られているこの奇妙な建物の中には、一つの小さな部屋があった。その部屋のことを人々は小声で話した。その部屋は主の栄光が聖なる箱の上にとどまる場所として知られていた。
贖われたにもかかわらず、イスラエルの子らは人間であり、常に罪になびきやすかった。「七十の七倍赦しなさい」と弟子たちに命じられた神は、永遠の赦しを実践しておられた。絶えず、罪は贖われなければならなかった。絶えず、いけにえの供え物が主の御前に持ってこられなければならなかった。人のための小羊によって予表されたこの贖いの計画は、神の計画のその後の発展においても、予表通りだった。
出エジプトの最初の日々はどれほど素晴らしかったことか!彼らはどれほど喜んで主の庭の中に入ったことか。どれほど賛美しつつ、彼らは聖所に上って行ったことか!贖いの日は大いなる日だった。その日は祭司――大祭司――が血を取って、それを憐みの座の上に振りかける日だった。大祭司は自分自身のために贖いをした後、民全体のために贖いをしなければならなかった。
この光景を思い描いてみよ!聖所を祭司たちの目から遮る幕を通って、象徴的な祭服をすべて身にまとい、大祭司は血を携えつつ進んだ。彼は神の臨在そのものの中に入った。彼のどの歩みにも身代わりの教理が息づいていた。彼が呼吸する息は、どれも神聖な恵みを物語っていた。
外では、「大祭司は永遠の神の恐ろしい臨在の中で命を失うのではないか」と心配しつつ、人々が待っていた。大祭司の衣の裾には黄金の鈴とザクロがついていた。大祭司が自分の職務を果たしつつ行動する時、その小さな鈴が鳴り響いた。「大祭司は生きているぞ」と人々は言った。「大祭司は生きているぞ」と彼らは叫んだ。「大祭司は生きている」と、この小さな喜ばしい鐘は鳴らした。染みの無い白色を背景として真紅の種を持つ、予型としての実り豊かなザクロを叩くとき、そのような音を鳴らしたのである。
いけにえの義務から――然り――神の臨在そのものの中から、大祭司が出てきた。その血は受け入れられた。それは国民のための小羊だった。贖いがなされた。イスラエルの宿営の中には喜びがあった。天使たちは自分の竪琴を新たに鳴らして、ガラスの海の傍の聖歌隊席で神に賛美を歌ったにちがいない。
4.世のための小羊
舞台はエルサレム。この都は近隣や遠方からの訪問者で混雑している。あの大いなる恐るべき日、この山々の都には二百万人いた、とある歴史家は記録している。偽善者のパリサイ人たちは悲しげな面持ちで動き回り、差し迫った悲劇のために心を痛めている少数の人々の涙を嘲っていた。狭いうねり道の一つに、十字架を負った一人の人が来た。
「悲しみの人とは何という名!
人の子が来られたのは
堕落した罪人たちを再生するためだからです――
ハレルヤ!何という救い主!」
ナザレのイエスはカルバリへ向かう途上だった。群衆の叫びがますます大きくなって行った時、太陽は恥じてその顔の光を隠した。磔殺の恐るべき瞬間のために釘が用意された。バプテスマのヨハネが十字架の人を指差して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのは、僅か三年前のことだった。
ヨハネが彼を小羊と呼んだのは偶然ではない。それは思いがけない言葉ではなかった。彼は御霊の油塗りの下で語ったのである。神に感謝せよ、彼は小羊だった。アベルの時代、小羊が人のために屠られなければならなかったが、彼は神の目がアベルの時代に予見していた小羊だった。これは――あらかじめ運命づけられ、定められていた――神の小羊、救いの橋の要石であり、それを通って全人類は真珠の門に至る道を通らなければならなかった。
時が過ぎた。イエスは十字架に懸かった。その血が、彼御自身が創造した地面に染みをつけた。彼の聖なる口から漏れた言葉は、われわれの心に消えないよう刻まれている。その後、この犠牲が頂点に達した!彼の心がエデンの園に思いを馳せていた可能性はあるだろうか?そこで始まり、ここで完全に啓示された計画について、彼は考えておられただろうか?地上の乾燥した荒地を潤す川のように、神の御心から流れ出たあの素晴らしい恵みについて、彼は考えておられただろうか?彼が頭を垂れて死ぬ前に、「成就した」と言われたのをわれわれは知っている。世の基が据えられる前から屠られていた小羊は、御自身をいけにえとしてお与えになったのである。
三日過ぎた。時は復活の朝だった。その園の木々の影の下から、復活したキリストがマグダラのマリヤを呼んで、彼女の悲しみの涙を賛美の真珠に変えた。彼は後ろに下がった。彼女が彼の祝された足の周りに両手を投げ出し、それを抱きしめて、礼拝と感謝のキスを浴びせようとしたからである。しかし、イエスは後ろに下がって言われた、「私に触れてはなりません。私はまだ、私の父でありあなたの父である御方のところに昇っていないからです」。なぜ彼はそう言われたのか?答えは一つしかない。
彼は栄光の法廷で、代々の裁き主の御前に、いけにえの贖いの血を捧げなければならなかったのである。この血は受け入れてもらえるだろうか?神の要求は満たされるだろうか?「神聖な愛、すべてに優る愛」は、永遠なる神の要求を完全に満たすだろうか?全人類をして喜びで歌わしめよ!イエスは栄光の法廷から戻って来て、「もう私に触れても大丈夫です」と弟子たちに言われたのである。
救いの扉が開かれた――罪深い地上から聖なる天へと通じる大路に、無代価で近づけるようになった。遂に、血を降り注がれた道が恵みと栄光の懸崖に達して、最終的に星々のカーテンの後ろで見えなくなった。救いが地に臨んだ。神の小羊はその命をお与えになった。そしてエルサレムからユダヤまで――実に、地の果てまで――喜ぶ弟子たちは出て行って、「みな来たれ」という喜びの便りを告げ知らせたのである。
彼らが出て行ったのは、彼らの十字架に付けられた主は世のための小羊だったからである。四匹の小羊とは、人のための小羊、家のための小羊、国民のための小羊、世のための小羊である。
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