ホーム

キリストの主権の福音
The Gospel of the Sovereignty of Christ

T. オースチン-スパークス

そしてこの主権の福音は、諸国民に対する証しのために、
人の住む全地に宣べ伝えられます。それから終わりが来ます。
(マタイによる福音書二四章一四節)

恐れるな、小さな群れよ。あなたたちに王国を賜ることは、
あなたたちの父の大いなる喜びだからです。
(ルカによる福音書一二章三二節)


<注記>

このメッセージは、一九二五年一一月にロンドンの勝利者集会で与えられ、その後一九二六年四月号の「勝利者」誌("The Overcomer" published by the Overcomer office)に掲載されました。

「福音」=喜ばしいおとずれ
「王国」=a.王の統治・支配の事実 b.王が統治・支配する領域 c.王の統治・支配の直接的・究極的結果
王国という言葉は以上のような意味を持つ。
「宣べ伝える」=宣言する、布告する。「宣べ伝える(preach)」と英訳されている五つのギリシャ語がある。ここで使われている言葉は、誰かが権力を握ったこと、あるいは王座に昇ったことを宣言することを意味する。
「地」=人の住んでいる地、あるいは居住可能な地
「証言」=証し。「マルツリオン」(Marturion、ギリシャ語)は証しと証拠の両方を意味する。「証拠を提示すること」(ウェイマス)


昨日見たように、カルバリは宇宙的(Kosmic)勝利であり、したがって、カルバリの証しが暗闇の世(Kosmos)の支配者たちに対して確立されなければなりません。それは、サタンの霊の軍勢の攻勢を不可能にするためです。すでに見たように、カルバリによってこの暗闇の世の支配者たちは権威を失いました。そして、その領土の中にもたらされるその証しを通して、その支配の終焉が公になります。また、十字架の戦いと勝利は主として霊的な事柄であり、この主権の福音は証しのために人の住む全地に宣べ伝えられなければなりません。

さて、ダニエル書を見ましょう。「ついに年を経た方が来て、いと高き方の聖徒たちに裁きが与えられた。そしてその時が来て、聖徒たちは王国を受けた」(七章二二節)、「国と主権は、いと高き方の聖徒たる民に与えられる。彼らの王国は永遠の王国であり、すべての主権は彼に仕え、服従する」(二七節)。

すべての国々でカルバリの御業と証しを適用する第二の方法は、人の住む全地のすべての国で、証言や証しによって、次のことを明らかにすることです。すなわち、アダムにあって罪を通して支配と主権を失った種族のために、カルバリはその支配と主権を回復する、ということです。主権は今や、キリストにあって新しく創造された種族のものです。私たちは御子にあって「子たち」です――御子を離れて子たる身分はありません。御子はご自分の子たる身分の中に私たちをもたらし、私たちに子としての特権を与えて下さいました。「すべて彼を受け入れた者に、彼は神の子供となる『特権』を与えて下さったからです」。ですから、私たちは大祭司である彼にあって祭司でもあります。一方にはアロンとその子たちがおり、他方にはキリストとその子たちがいます。ですから、私たちはキリストにあって神の祭司とされています。また、私たちは王なる方にあって王とされています。彼は王であり、私たちは彼にあって王たちです。キリストにあって、私たちは王、祭司とされました。「あなたたちに王国(王権)を賜ることは、あなたたちの父の大いなる喜びだからです」「私の父が私に王国を与えて下さったように、私はあなたたちに王国を与えます」(その群れの中には、少なくとも一人、ギリシャ人がいました)。

アダムの種族は、この世界で神の主権を示すための神の僕となるはずでした。しかし、その主権は失われました。悪魔に渡されてしまったからです。神の主権は、エデンの園で反対を受ける前に、天で反対を受けていました。天での反対は、反対した者にとって、悲惨な災いという結果に終わりました。同じことがこの地上にも起きなければなりません。さもないと、キリストによる神の普遍的主権が損なわれることになります。カルバリは、世界が創造される前の永遠の出来事の、時間の中の光景です。ですから、主がカルバリの勝利から立ち上がって、弟子たちを集めた時、教会への最初の言葉は、「天においても、地においても、いっさいの権威が私に与えられている」でした。なぜにおいてなのでしょう?主の主権が最初に反対を受けたのは天においてだったからであり、今、十字架により、天における主の主権が承認され、そこでの主の主権が確立されたからです。二つの世界における悪魔の働きは、カルバリで力強く打ち破られました。

さて、神の御旨は天の主権を地上で執行することであり、神がアダムにあって創造した種族により、天の主権を地に行き渡らせることでした。聖書によると、神がアダムを創造されたのは彼に支配権を持たせるためでした。しかし、この世界ではそれは失敗しました。なぜなら、全地の支配権はアダムによって簒奪者に渡り、敵の手に落ちてしまったからです。ですから、サタンがキリストに世のすべての王国を見せて、「これをすべてあなたに差し上げましょう」と言った時、彼は間違っていなかったのです。サタンは征服者としての権利を持っていたので、世の王国はサタンのものでした。しかし、カルバリの勝利が到来することになっていました。カルバリの勝利は、支配する正当な根拠をサタンから剥奪します。そして、新しく生まれて復活した神のキリストにある新しい種族に主権を回復します。

「なぜなら、神は来たるべき世界を、御使いたちに従わせることはなさらなかったからです。(中略)しかし、ある人がある箇所で証しして言っています、『人は何者なので、あなたはみこころにとめられるのですか?人の子は何者なので、あなたは顧みられるのですか?あなたは万物を彼の足の下に服従させ、彼に支配権をお与えになりました』」。ここの「人の子」はイエス・キリストのことではありません。「ところが、私たちはまだ、万物が彼――人、人の子――の下に服しているのを見ていません」「ただ、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を与えられたイエスを見ています」。キリストは、最終的に成就される事柄を保証する、天の保証です。キリストは間違いなく、ご自分の霊的なからだ、霊的な教会によって、神の御旨を成就されます。キリストはご自分のからだによって、来たるべき世を支配されます。天におられる昇天した神の御子は、その天の保証です。そして、彼のからだは人の住むこの地でその保証でなければなりません。

しばらくの間、人は御使いたちより低くされる、とアダムの種族について述べられています(詩篇八篇)。なぜでしょう?人が試練をくぐり抜けて勝利することにより、御使いたちより高く上るためでした。その試練のとき、最高の天使的存在がエデンの園で代表者たる人に会いました。その試練の目的は、アダムの種族が戦って征服することにより、神の御子にあって代々あらゆる王国より高い地位に上ることでした。「御使いたちはこれらの事を見たいと願っているのです」と聖書は告げています。これは、御使いたちから隠されている秘密、真理、啓示があることを示しています。私たちは依然として試練にあっています。今の時の私たちの試練は、ルシファーに対して戦い、カルバリの勝利を彼の地上の王国で執行することです。それは私たちがイエス・キリストにあって、あらゆる主権、力、支配、権威をはるかに超えた、あの約束された地位に上るためです。私たちは自分の試練をどう用いているでしょうか?「あなたたちの召しと選びを確かなものにしなさい」。私たちの「召し」は、神のいと高き御子の主権により、あらゆる天使よりも高く上り、堕落した天使たちの軍勢に対する私たちの超越的優位性をキリストにあって確立することです。

これが十字架と御座から見た世界の展望です。しかし、こうした広大な真理を知ることは私たちをたいそう鼓舞しますが、私たちはその実際的意味に降りて行かなければなりません。ビジョンの結果として、私たちは実行する必要があります。そしてどうにかして、地に足をつけて、そこに主権を確立する必要があります。ですから私たちは今、私たちがキリストに対して持つべき関係の他の面に向かわなければなりません。私たちは各々、キリストと共に十字架につけられ、葬られ、復活、昇天し、支配しています。また、私たちは霊の領域におけるカルバリの意義の証し人です。ですから、私たちがどこにいたとしても、私たちの証しにより、サタンの主権と支配権は脅かされ、打ち破られるのです。しかし私たちはまた、この地上で、結局のところこの地は私たちのものであって悪魔のものではないという事実の証し人でなければなりません。この世界はいと高き方の聖徒たちに与えられるという事実の証し人でなければなりません。王国はキリストにあって聖徒たちのものです。なぜなら御父は、キリストに王国を賜ったように、聖徒たちにも王国を賜ったからです。この時代に神の王国たることを、私たちはどう理解すればいいのでしょう?世界がますます良くなることによって実現される一時的な王国ではありません。私のビジョンはこうです。私が地上のこの場所に置かれているのは、「地は主のものである」という事実、そして悪魔は揺るぎない支配権を保持する権利を持たないという事実に対する生ける証しとなるためなのです。というのは、私は経験的にカルバリの勝利の中に入ったからです。

* * * * * * *

さて、あなたに質問させて下さい。あなたは自分の住んでいる土地で主権を確立されたでしょうか?あなたがどれだけカルバリの勝利を知っているか、どれだけカルバリの勝利を説明して理論化できるか、どれだけ来たるべき時代に遠く思いを馳せることができるかは、問題ではありません。問題は、どれだけ多くその来たるべきいのちをもたらして、地上の生活で生きているかなのです。あなたのいる土地で、あなたはキリストの主権の生ける証しでなければなりませんし、そこに主権が確立されなければなりません。そのために私たちは召されているのです。「イエスの御名によって言う、ここではサタンには何の権利もありません!」。カルバリでサタンの権利は彼から剥奪されました。その勝利の力によって、私はここに立ち、それを彼に知らせます。あなたは自分の住む土地で支配権を確立したでしょうか?そこで主権は示されたでしょうか?あなたたちは集会から地上の多くの場所に戻って行きます。あなたの取り組む仕事は、人の住む地の主権をいと高き方の聖徒たちのために回復した場所であるカルバリを、その場所で示すものでなければなりません。神の子供、王なる祭司として、私たちはどこにいたとしても、カルバリの勝利の意味を、その勝利の力と栄光の中で輝き出さなければなりません。

キリストのからだのすべての肢体は、戦う兵士として、人の住むすべての場所で、その勝利を知らなければなりませんし、その勝利の中に入るよう助けてもらわなければなりません。今この世界には、その勝利を少ししか知らず、自分の地元、地方、家庭、教会、個人生活で敵が支配権を握っている、非常に多くのキリストのからだの肢体たちがいます。これはカルバリによる勝利の証しが、御体のこれらすべての肢体たちに向けて、いのちの流れの中で送り出されなければならないことを意味します。

キリストのからだが祈りと証しによる団体行動の可能性を真に悟っていたなら、人の住む地はそれを完全に知るようになっていたでしょう。また、サタンの力の中にある人の住む地の支配者たちも、それを完全に知るようになっていたでしょう。合衆国の様々な地域にいる信者の群れ、フランスに散らされている孤独な牧者たち、私たち自身の国やその他の場所にいる多くの人々は、敵の支配をいやというほどよく知っていますが、キリストにある勝利の権利、一人の人、キリスト・イエスによる支配の生活をあまりにも少ししか知りません。私は彼らに思いを馳せます。ああ、彼らにこの勝利のいのちを供給することができますように。ああ、何とかして神が私たちの真中に降りて来て下さいますように。そして、解放された人々――証しと経験の力によって世界に出て行くことができ、キリストのからだの打ちひしがれた肢体たちに至る所で仕えることのできる人々――の出現という実際的な形で、神が私たちにこの世界の展望を見せて下さいますように。いと高き方の聖徒たちは、苦しめられ、圧迫され、追いやられ、打ち砕かれています。彼らの多くは降参することを余儀なくされており、神が支配権を確立するために置かれた領域から撤退することを余儀なくされています。彼らは自分たちの土地を守っていません。ああ、どうか神があなたに、人の住む各地にいる世界中の肢体たちから成るキリストのからだのビジョンと、カルバリの勝利の証しの必要性のビジョンを与えて下さいますように。それから終わりが来て、ついに王国はキリストに渡され、私たちはキリストと共に永遠に支配します。