しいたげる者の憤り

イザヤ五一・十三

B. M. バーバー

勝利者誌 一九一一年 三巻 二月号 掲載。

「しいたげる者」とは誰のことでしょう?サタン自身にほかなりません。

この事実を知的に理解することが必要です。「敵」が明確にならなければ、私たちはせわしなく「宙を打ち叩」いて、自分の時間を費やすことになるでしょう。

次の事実に直面しようではありませんか。「霊」である生ける神の子供たちとして、私たちの戦いは霊的なものなのです。また、私たちの大敵は悪魔なのです。

悪魔の性格、力、知性、議論、戦略を過小評価することは禍です。

「事物」「人々」「方法」「場所」にかかりっきりで、悪魔自身――その霊がこれらすべての背後で動いています――を無視したり、無関心だったりすることが、指揮能力の最弱化を招いています。それは禍と敗北という結果にしかなりません。

敵の最も狡猾な策略の一つは、私たちが宗教生活に関する皮相的・表面的問題にかかりっきりになるようにすることです。私たちの戦いは霊的戦いであることを認識しないかぎり、私たちは悪魔の横道に逸れており、「主権者たちや権力者たち」とのこの大戦でさほど重要ではない問題を取り扱っているにすぎません。私たちの戦いは本質的に霊的戦いであり、この戦いにおいては「霊的」ではないものは「肉的」なものでしかありえず、したがって、人々や彼らの意見・方法・手段に対する「肉」の戦いにすぎません。

敵は喜んで私たちにそうさせます。「外面的一致」、「礼拝形式」、「衣装」、「教会装飾」、「財政問題」、「バザー」、「聖歌隊のストライキ」、「世的娯楽」に関する議論は、悪魔を煩わせません。いいえ!いいえ!そうしたものを彼は放っておいても大丈夫です。そうしたことを心配している間は、私たちのことも放っておきます。そのような問題に熱中させることに成功するとき、彼は幸いです。彼は私たちを幻惑して、そのような問題はきわめて重要な問題であると私たちに信じ込ませようとしますが、他方、この戦いで私たちが対処すべき主要な元凶はまさに彼自身であるという事実を私たちから隠します。

この敵は「事物」にはあまり大きな関心を抱いていません。彼が大いに警戒しているのは、次の事実を認識しているです。すなわち、目下の大きな戦いは霊的戦いであり、キリストと悪魔が敵対しあっている、という事実です。霊の命の成長を求める度合いに応じて、そして、どんな代価を払ってもキリストの勝利により彼の栄光のためにこの戦いを戦い抜く決意の大きさに応じて、その度合いに応じて、その人は敵の特別な絶え間ない攻撃を受けるようになります。その人は確実に「しいたげる者の憤り」を経験します。自分と、神のための自分の働きを損なおうとする、あらゆる種類の狡猾な手段を経験するのです。

「霊的な人」こそ、この戦いを最も切実に感じる人であり、「しいたげる者の憤り」を最もよく知っている人です。ますます前進して霊的実際の領域の中に入れば入るほど、この「憤り」はますます激しく、苛烈になります。

成功を収めるには、「しいたげる者」の性格を知ることが必要であるだけでなく、その力の大きさにも警戒した方がいいでしょう。これを過小評価してはいけません。他方、それを過大評価してもいけません。

往々にして、過去、神の子供たちはうぬぼれていました。そして、肉のエネルギーによって先に進んで敵の手中に陥り、敗北を喫しました。あるいは、恐れおののいて退却しました。復活したキリストの力により自分たちのものである勝利について無知だったか、あるいは、それを喜んで得ようとしなかったのです。「しいたげる者」の猛攻撃のたびに、その全力の力に警戒しましょう。しかし、カルバリの血の力を十分に知っていて、私たちの避け所であり私たちの力である全能の復活したキリストと一体化されているなら、恐れに圧倒される必要はありません。

もう一度、この「最後の時代」の戦いにあたって、神の子供たちが直面すべき、きわめて重要な事実を強調することにしましょう。この戦いは「霊的戦い」であって、キリストと悪魔が敵対しあっているのです。

私たち一人一人が決着をつけるべき問いは、「自分はどちらの側についているのか?」という問いです。私たちの内に生きておられるキリストがきわめて明確に表される時、「しいたげる者の憤り」もきわめて激しくなります。したがって、最も聖徒らしい人々こそ、暗さが増しつつある近年、敵のしいたげを最も切実に感じる人々なのです。 この人々の「死すべき体」の中におられるキリストを、敵は憎んでおり、可能ならば滅ぼそうとします。

「しいたげる者の憤り」はあらゆる種類の形を取ります。しいたげる者が私たちに臨むこれらの形のいくつかに立ち向かうならば、私たちはその憤りの猛攻撃に遥かによく耐えられるでしょう。

しいたげる者は私たちを痛めつけ、困惑させ、困らせ、怒らせます。そうです、可能なら、私たちを投獄します。私たちを拷問し、挑発し、悩ませて、限界点に至らせます。中傷し、抑圧し、混乱させ、悩ませます。縛り、傷つけ、中傷し、萎れさせます。心配させ、弱らせ、荒廃させ、消耗させます。できるならそうするのです!

おそらく、あらゆる苦難の中で最も厳しい苦難が私たちに臨むのは、彼が私たちの最愛の人々を捕らえて、私たちに反対させ、彼らを私たちをひどく苦しめる彼の手先とする時です。「愛する人よ、これを奇妙に思ってはなりません」――彼らは彼の悪魔的力によって私たちを誤解し、私たちの言葉を捻じ曲げ、私たちに関するデマを伝えます。私たちの動機を誤解し、私たちのきわめて誠実な行動を間違いであると罪に定めます。私たちを批判し、私たちについて不親切で、辛辣で、不真実なことを言います。キリストの働きを前進させようとする私たちの取り組みを挫折させ、神のみこころであることが私たちにとってきわめて自明であるあらゆることで私たちに反対します。私たちに関する、中傷的で残忍な噂をまき散らします。私たちの計画が失敗し、私たちの見通しが駄目になる時、そして、私たちが弱くなって、挫折し、倒れる時、彼らは拍手喝采します。可能なら、私たちを飢えさせ、打ち、殺そうとします。そうです、この人々は、その愛を私たちが最も願っている人々なのですが、その心は私たちをきわめて激しい苦しみで痛めつけて損なおうと願っているのです。彼らが神に明け渡さないで、しいたげる者によってひどく取り憑かれる時はそうなります。しいたげる者の手の中で、彼らは私たちの最も恐るべき敵、彼の最も激しい憤りの使者となります。

「しいたげる者の憤り」は、財政的損失、肉体的弱さ、精神的負担、神経衰弱、商売上の悩み、社会的中傷、妨害的疑い、はた迷惑な恐れ、虚偽の妄想、憂鬱な失望、自暴自棄的絶望という形で、私たちに臨むかもしれません。

さらに、まさにこの憤りにより、「霊的な人」と、肉的・世的な他の人々との間に、明確な亀裂が生じるでしょう。こうして、霊の人は完全に神の上に投げ出されて、彼の中に閉じ込められるため、この絶えず増し加わる分離の姿勢により、それまで経験したことのない自由、安息、力を経験するだけでなく、その経験が維持されるようになります。このゆえに神に感謝しなさい。

敵の極度の圧迫を恐れないようにしましょう。この圧迫により、私たちは神に頼らざるをえなくなり、肉的な一切のものから全く分離されます。徹底的に分離されるなら、私たちは安全です。こうして、私たちを麻痺させる敵対勢力から守られます。次に、中途半端な手段や折衷案はありません。そうした手段や折衷案は、私たちに妥協的な立場を取らせるだけであり、私たちを依然としてしいたげる者の力の中に保つものです。私たちを滅ぼすためのしいたげる者の使者たちと半分妥協するなら、それによってまさに、悪魔はなおも私たちを捕らえ続け、私たちにまといつくことになり、ついには私たちはますます彼の支配下に陥ることになります。決して屈服して、しいたげる者の使者たちと妥協しないようにしましょう。彼らが私たちをどれほど遠くまで押しやったとしても、それは私たちの立場の安全性をますます確実なものにするにすぎません。また、私たちの盾であり、避け所である、十全な神の強力な力を、私たちがますます確実に知るようにするものにすぎません。

神の助けに立ち返るよう私たちを促すこの憤りを避けないようにしましょう。神は全き平安の中に保ってくださるので、ついには敵は消耗して、まったく動けなくなります。私たちと親しい関係にあったにもかかわらず、しいたげる者の使者になってしまった人々との交わりや彼らの好意をしばしのあいだ絶たれたとしても、悲しまないようにしましょう。このような分離により、安全が確保されます。共謀するなら、弱さ、禍、悪魔の勝利という結果にしかなりません。

ここで注意しましょう。私たちに反対しているこの愛する人々に接するにあたって私たちが対処すべきは、彼らよりも、むしろ、彼らを利用している悪魔なのです。これを覚えようではありませんか。疑いなく、最も賢い道は、義しく裁かれる方に自分の言い分を全く委ねて、一言も話さないことです。話したり、報復したり、抗議したり、情報や説明を与えたりしても、彼らの間でこのような反対の精神が支配的である間は、しいたげる者の憤りの火に油を注いで、その怒りから発した敵意を増し加え、自分を敵の手中に、そして、敵の力の下に陥らせるだけです。

敵がどんな使者、手先、経路を通してひどく圧迫したとしても、「あなたは上から与えられるのでなければ、わたしに対してなんの権威もありません」(ヨハネ十九・十一)という御言葉を理解し、述べ、維持するといいでしょう。さいわいなことに、この御言葉はしいたげる者の力を私たちのためにどれほど粉砕してくれることでしょう。直ちに私たちは自分をしいたげる者たちを対処することを、すべてを征服する私たちのキリストの顧みに委ねます。キリストは、これらの形で悪魔がこうした猛攻撃をしかけるのを許されます。

きわめて厳しい苦難や、敵からのきわめて激しい攻撃の中でも、私たちの霊を満たすこの平安は、なんと驚くべきものであり、理解不能なものなのでしょう。「あなたに逆らう言葉は栄えません」。私たちが彼の保護を取り、彼が許可しておられる範囲内でしかその力は及ぼないことを確信して安息しているかぎり、そうなのです。

この憤りは私たちを強いて神のもとに行かせ、神に、ただ神ご自身にのみ頼るようにさせます。そして、素晴らしいことに、神ご自身こそ十分な方であることを、私たちに理解させてくれます。この憤りのゆえに神に感謝しましょう!この憤りがどんな形を取ったとしても、それによって影響されることを直ちに、常に拒否しましょう。それを直ちに私たちの全能の勝利者に任せましょう。この方は敵のすべての力にまさる力を持っておられます。彼は、私たちのために事を行い、私たちを守り、安全に切り抜けさせる能力を持っておられます。彼のこの能力に信頼しなさい。神の道以外に勝利の道はありません。ですから、信仰によって絶えず自分自身をキリストと同一視しようではありませんか。そして、自分は彼と共に天上に座しており、しいたげる者の力をすべて足の下にしていることを覚えつつ、彼の勝利を自分のものとして握ろうではありませんか。

次のことを行うとき、私たちは言い尽くせない悲しみや苦難から救われます。まず、御言葉が告げているとおりに、神を受け入れなければなりません。次に、彼が私たちを置いてくださった所に立たなければなりません。彼は私たちをキリストの中に包み込んで、彼の力によって力づけてくださいました。「主はまた、しいたげる者からの避け所、困難な時の避け所です」。私たちはこれらのことに対して十分ではありませんが、「神に感謝します。この方は私たちの主イエス・キリストにあって私たちに勝利を与えてくださいます」。

戦いとしいたげの時代を通っている間、「彼はしいたげられ、苦しめられた」(イザヤ五三・七)ことを知ることにより、また、彼がどのようにこの圧迫を身に負ってそれを通り抜けられたのかに注意することにより、言い尽くせない慰めを受けます。

「彼は苦しめられたが、口を開かなかった」。「彼はののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅かすことをしないで、義しく裁く方にご自身を委ねられました」(一ペテロ二・二三)。自分の権利を実証・支持する根拠がいくらでもあるとき、この沈黙の道を行くのは肉には困難です。しかし、これだけが唯一の道です。それは神の道です。それだけが唯一の勝利の道です。自分自身と自分の心配を「義しく裁かれる方」(一ペテロ二・二三)に静かに委ねる道を歩んで彼の歩みに従うとき、私たちは安全、満足、成功を得ます。

しいたげる者とその使者たちを彼が対処してくださるときはじめて、私たちの言い分を述べても大丈夫になります。敵を対処する最善の方法、敵を潰す最善の方法を、彼はご存じです。肉のエネルギーと興奮では、私たちはしいたげる者の憤りの火を煽って、悪魔の手の中に陥るだけです。神だけが勝利することができますし、勝利されるでしょう。

この憤りはいつやむのでしょう?いつしいたげる者はいなくなるのでしょう?私たちがこの死すべき体の中にあって、キリストに従い続けているかぎり、私たちはしいたげる者の憤りを感じるでしょう。実に、「私たちの主の再臨が近づくにつれて、この戦いはますます激しくなります」。しかし、私たちに対してそれがやむ幸いな時が来るでしょう。私たちはイエスにあって眠るか、あるいは、彼がご自身の民のために来臨されるとき取り去られるでしょう。自分の時が短いのを知って、悪魔は自分のエネルギーのかぎりを尽くして、神を喜ばせようと決意している人々に反対します。これらの事実を知るとき、私たちは鼓舞されて力づけられますし、ますますしっかりと立つようになって、この道のゆえに落胆することから解放されます。

この戦いがやみ、この憤りが尽きて、もはや私たちに臨むさらなる憤りがなくなる時はじめて、私たちは「安息」できるようになる、と思わないようにしましょう。私たちはキリストにあって、ここで、安息できます。この憤りのただ中にある今この時も、この憤りがきわめて激しく荒れ狂っている間も、「わたしはすでに勝利しています」に勝利があります。悪魔は私たちを激しく圧迫し、その憤りを私たちの上に注ぎ出すかもしれませんが、「キリストの中に」私たちが立つとき、私たちは堅固・不動になり、「信仰を通して神の力によって守られ」ます。勝利はです。解放将来です。イエスが来られる時、あるいは、私たちが「眠る」時です。

この「憤り」の目的は何でしょう?私たちを圧迫して神に拠り頼ませることであるのは確かです。それは彼の栄光のために「強力な力」を私たちに経験・理解させるためです。「彼はその強力な力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中から復活させ、彼を天上でご自身の右に座らせ、万物を遥かに超えて高くされました」(エペソ一・十九~二一)。神だけがしいたげる者からの私たちの避け所です。私たちが彼に拠り頼み、私たちを平穏・静寂・安全に保つことのできる力を知り、あらゆる憤りのただ中で快く満足するとき、私たちは自分の証しによって彼に栄光を帰すのにふさわしくなります。また、悪魔の束縛の中にある他の人々を助けるのに、彼らのために神の解放・流入する力を経験するのにふさわしくなります。

さらに次のことを述べなければなりません。これは初歩的であり本質的です。神の御前でとがめのない心を持たないかぎり、しいたげる者の憤りに対する勝利を経験するのは不可能です。自分の生活の中には神に対して正しくない点があると自覚しているならば、自分の上に加えられる敵の圧迫に勝利できると思うのは愚かなことです。身に覚えのある罪があるなら、あるいは、自分の生活の中になんらかの疑わしい道楽を保持しているなら、それはすべての「勝利する力」にとって致命的です。*

* 身に覚えのある罪や疑わしいものに関するかぎり、これは真実です。しかし、「しいたげる者の憤り」を経験している人が、「澄んだ良心」こそが行動の絶対的正しさを証明する十分な証拠である、と思ったりしないように、以下の点を指摘する必要があります――
1.良心は知識によって支配されます。つまり、たとえば噓をつくといった、悪いとわかっていることをするとき、私たちは良心によって責められ、罪に定められます。しかし、実は正しいことを間違っていると信じつつ行うときも、私たちは同じように責められ、罪に定められます。これから、善悪を正しく識別できる(ヘブル五・十四)、照らされた良心の必要性がわかります。
2.とがめのない良心は、その人が光に対して忠実であることを証明するにすぎません。しかしそれは、あらゆることで絶対的に正しいことを証明するものではありません。これは次の事実からわかります。すなわち、人が霊的生活において前進するとき、かつて澄んだ良心で行えた多くのことができなくなることに気づく、という事実です。
3.ですから、次のことが重要です。「とがめのない心」を持っている信者でも、自分の行動は絶対に正しいという立場を取ってはなりません。また、「しいたげる者の憤り」が自分の内に根拠を見いだすことはないと当然視してもなりません。なぜなら、後になって、自分をふるいにかける敵の攻撃には多くの理由があったことがわかるからです(ルカ二二・三一、三二)。素直な霊、開かれた心、神からの光の増し加わりを求める熱心な叫びこそ、近頃の「しいたげる者の憤り」の時代、唯一安全な道です。

とがめのない心。キリストの死と復活の中で自分はキリストと一体化されたことを理解し、また、自分はキリストにあって天上に座しており、万物を遥かに超えて高くされていることを理解する信仰。私たちが自由に使える全能の力と命を取得すること、また、彼にあって私たちのものとされた勝利。これらが揃っているなら、しいたげる者の憤りは、私たちに勝利を与えてくださる神に栄光を帰す以上の影響を及ぼせません。この戦いを避けたり、この憤りから逃げたりせず、それに向き合って進み通そうではありませんか。しいたげる者の極度の圧力によって、キリストのように、「父よ、この時からわたしを救ってください」と言う心境になったとしても、どうかその苦しみの経験が、私たちの祝された主である彼の協力者たる特権を黙想することによって、あらゆる力と敵に対する彼の勝利の中に飲み尽くされますように。彼のように、どうか私たちも、「しかし、このためにわたしはこの時に至ったのです。父よ、御名の栄光を表してください」と言えますように。神の子供よ――進み通しなさい!