「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタ十六・十六)というペテロの信仰告白に続いて、主イエス・キリストは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタ十六・十八)と宣言されました。そして、キリストは十字架・死・葬り・復活・昇天の後、ペンテコステの日に天から弟子たちの上に聖霊を注ぎ出すことにより、教会建造の働きを開始されました(使二)。それ以降、今日に至るまで、約二千年の間、父なる神からペテロに与えられた「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という啓示の「この岩」の上で、キリストは教会建造の働きを進めてこられました。キリストが単数形で述べられた「わたしの教会」(マタ十六・十六)は天的・霊的なものであり、時間と空間を超越していて、古今東西の再生された神の子ら全員から構成されています。この宇宙教会――天にあるエルサレム(ヘブ十二・二二)――は今は奥義的なものであって大部分の人の目から隠されていますが、最終的に「天から出て神から下り」(黙二一・十)永遠に至ります。この天的・霊的な宇宙教会の全貌を把握するにはおそらく永遠の時が必要でしょうが、地上における歴代の聖徒たちの歩みの中にその一端を垣間見ることができます。キリスト教会史はこの点で大いに有益です。そこで、歴代の聖徒たちのごく一部について以下に短く紹介することにします。
初代教会の使徒たち
マタイ 別名レビ。マルコ二・十四によるとアルパヨの子。以前は収税人だったが後に使徒となる。紀元三七~四〇年頃にマタイによる福音書を執筆。ユダヤ、エチオピア、パルティアで福音を宣べ伝え、紀元六〇年ごろにエチオピアで殉教。
ヤコブ 主イエス(マタ十三・五五)とユダ(ユダ一)の肉親の兄弟。エルサレムにある教会の長老となり、ペテロとヨハネと共に教会の柱と称された。紀元五〇年頃にヤコブの手紙を執筆したと思われる。
ルカ おそらくギリシャ人の異邦人であり、職業は医者。パウロの宣教旅行に同伴。紀元六〇年頃にルカによる福音書、紀元六七または六八年に使徒行伝を執筆。
ペテロ 第一と第二の手紙の冒頭で、自らを「イエス・キリストの使徒」「イエス・キリストの僕また使徒」と名乗る。この二つの手紙を各々紀元六四年、六九年頃に執筆。以前はガリラヤの漁師だったが、十二使徒の中で最初に主に召された。彼に関する聖書の数々の記録のゆえに有名。例えば、人々をすなどる漁師になるという主の約束、主を三度否んだこと、ペンテコステの日の彼の説教、コルネリオの家における異邦人への福音の宣べ伝え等。後に小アジアとローマで福音を宣べ伝え、おそらく紀元六九~七〇年頃に殉教。
ユダ 紀元六九年頃にユダの手紙を執筆。主イエスとヤコブ(ヤコブの手紙の著者)の肉親の兄弟。
マルコ 別名ヨハネ。エルサレムにある教会のマリヤの子であり(使十二・十二)、バルナバのいとこ(コロ四・十)。バルナバやパウロと共に奉仕し、ペテロとも親しかった。紀元六七~七〇年頃に執筆された彼の福音書はペテロの口述筆記であると、初代教会では考えられていた。
パウロ 前の名はサウロ。主の御名を呼び求める人々を迫害して捕縛した。ダマスコへの途上、主の顕現によって回心。主は彼のことを「わたしの名を異邦人、王たち、イスラエルの子たちの前で担うわたしの選びの器」(使九・十五)と証言された。東はエルサレムから西は遥かローマに至るまで、四回の宣教旅行を行った。ガラテヤ人への手紙(五四年頃)、テサロニケ人への第一と第二の手紙(五四年頃)、コリント人への第一と第二の手紙(五九年、六〇年頃)、ローマ人への手紙(六〇年頃)、エペソ人への手紙(六四年頃)、ピリピ人への手紙(六四年頃)、コロサイ人への手紙(六四年頃)、ピレモンへの手紙(六四年頃)、テモテへの第一の手紙(六五年頃)、テトスへの手紙(六五年頃)、へブル人への手紙(六七年頃)、テモテへの第二の手紙(六七年頃)を執筆。ネロ皇帝の迫害により投獄され、その後間もなく六七年頃に殉教。
ヨハネ ゼベダイの子。母はサロメ、兄弟はヤコブ。紀元九〇年頃、神の言葉とイエスの証しのゆえにパトモス島に流される。この時期に啓示を受けて黙示録を執筆。九〇年頃にエペソでヨハネによる福音書、九〇~九五年頃に手紙を執筆。
教会教父たちとローマ帝国迫害下の殉教者たち
ローマのクレメンス(三〇~九六頃) ローマの監督。三位一体、キリストの神性、恵みによる義認、教会の一体性の教理に対して明確に証しした。
イグナチウス(三五~一〇七頃) アンテオケの監督。七つの手紙を通して初期の教会に影響を与えた。ローマに護送されて殉教。迫害者たちに「私を獣どもに与えよ。私が神にあずかる者となるために」と告げた。
ポリュカルポス(六九~一五五頃) 使徒ヨハネの下で指導を受け、後にスミルナの監督となる。書き物の中で聖書の御言葉をたびたび引用した。グノーシス主義的なマルキオンの異端に対して戦い、マルキオンのことを「サタンの長子」と呼んだ。八六歳の老齢で殉教。
エイレナイオス(一三〇~二〇二頃) ポリュカルポスの弟子でリヨンの監督。異端反駁を執筆して、グノーシス主義や他の異端に対して信仰を擁護した。キリストは最後のアダムであり、この御方にあって最初のアダムが失ったものが回復されるだけでなく、人に対する神の御旨も成就される、と告白した。神の救いによる人の神化の教えを立証した。
ヒッポリュトス(一六〇~二三五頃) エイレナイオスの生徒で著名な護教論者。「全異端反駁論」でサベリウスの異端的見解に対して精力的に反駁した。彼のもう一つの著書「使徒的伝統」では純粋な信仰と使徒の教えを保とうと努めた。
テルトゥリアヌス(一六〇~二二五頃) アフリカ人の教会教父。有名な護教論者で、その教えはエイレナイオスに由来している。「プラクセアス反駁」を執筆。三位一体の神について、本質は一つだがパースンは三つ、という教えのために論じた。また、キリストの神性と人性を区別し、これが後にニケア信条の形成に影響を及ぼした。グノーシス主義(マルキオンの教理)と仮現説に対して反駁した。ローマ政府の前でキリスト教信仰を擁護した。「殉教者の血は教会の種」という言葉が有名。
パンタイノス(一二〇~一九〇頃) アレキサンドリア学派の創設者にして教導学院長。
オリゲネス(一八五~二五四頃) エジプトに生まれる。クレメンスの後を継いでアレキサンドリアの教導学院長になり、膨大な著作を著した。最も有名な著書は旧約聖書の六つのテキスト、すなわち、ヘブライ語、ヘブライ語(ギリシア語音訳)、ギリシア語(七十人訳、シュンマコス、アキュラ、テオドティオン)を対照した書である注解付きの「ヘキサプラ」。彼は教会の天的性質――教会は自分の生活の中で永遠の福音の力を経験したすべての人からなること――を見た。また「祈りについて」では、祈りは嘆願ではなく神の命にあずかることであると論じた。
アタナシオス(二九六~三七三頃) 三二五年のニケア信条の制定を助けた。後にアレキサンドリアの監督になる。アリウス派の異端に反駁してキリストの神性を立証した。著作「神の言(ロゴス)の受肉について」で、「神が人となったのは、人が神になるためであった」と明確に述べ、これが東方教会の根本教理の一つである神化の基礎となった。
カッパドキア三教父 三位一体について「本質(ウーシア)は一つ、パースン(ヒュポスタシス)は三つ」と説明した。
大バシレイオス(三二九~三七九頃) カイサリアの監督。隠遁生活の影響を受けて、質素な生活を擁護した。オリゲネスの教えに秀でており、アリウス主義に反対した。ニケア信条の支持者。 ニュッサのグレゴリオス(三三〇~三九〇頃) 大バシレイオスの弟であり、ニュッサの監督。三位一体のウーシア(本質)とヒュポスタシス(パースン)を最初に区別した人の一人。 ナジアンゾスのグレゴリオス(三三〇~三九四頃) コンスタンチノープルの監督で雄弁な演説家。アリウス派に対する彼の有名な五つの「神学演説」は大いに有意義である。
アンブロシウス(三三七~三九七頃) ミラノの監督でアウグスチヌスに洗礼を授けた。教会は国家から独立しているべきであると主張し、「皇帝は教会の中にあり、教会の上にはない」と宣言した。
ヒエロニムス(三四〇~四一九頃) イタリアに生まれ、後にパレスチナに移る。全生涯を隠遁生活に捧げ、禁欲生活を送るよう信者たちに勧めた。二十年を費やして聖書をラテン語訳――ウルガタ訳――に翻訳。旧新約聖書に関する注解書と教会史に関する書を執筆した。
クリソストム(三四六~四〇七頃) コンスタンチノープルの監督。クリスチャンの歩みについて強調した。その説教はほとんどが聖書の解釈についてであり、実行面を力説した。その書の中で隠遁生活と純潔を守ることを称賛した。黒海沿岸に移送される途中、炎天下や雨の日も歩かせ続けられるという過酷な処遇により殉教。
アウグスチヌス(三五四~四三〇) 北アフリカのヒッポの監督。教会の合一に熱心で、ペラギウス派の異端に反駁した。「告白」「神の都」「三位一体について」等を執筆。特に「三位一体について」では三位一体の真理について詳述し、西方のキリスト教神学に多大な影響を与えた。
中世カトリック:修道院の進展と神学・霊性の追求
ヌルシアのベネディクト(四八〇~五五〇頃) 若い頃ローマに学んだが、この都の堕落した生活を嫌悪するようになり、最終的に洞窟に退いて隠修士として暮らした。十二の小さな隠修士共同体を設立し、修道会則を定めた。西方教会における修道制度の創設者として有名。
クレルボーのベルナルドゥス(一〇九〇~一一五三) シトー会の修道僧で、クレルボー修道院の他に約五百の修道院を設立。カトリックの正当性を擁護し、禁欲生活を実行した他、第二次十字軍を説いた。キリストを万物の中心として、また御言葉を信者の伴侶として強調。雅歌に関する八十六の説教を執筆。
アシジのフランシスコ(一一八二~一二二六) 元々は裕福な人の息子だったが、自分の持ち物をすべて売り払って貧しい人々に与えた。自発的清貧の生活を実行した。福音の働きのためにフランシスコ会を設立。
ボナヴェントゥラ(一二二一頃~一二七四) カトリックの神学者。トマス・アキナスの親しい友人だったが、当時の流行だったアリストテレス思想には批判的だった。著書「命の木」の中でキリストを命の木として描き、キリストの美徳は信者のための模範であると記した。彼の著書はキリストを中心としており、聖書や初期の教会教父から多数の引用がなされている。無原罪の宿りの教理を排斥した。
トマス・アキナス(一二二五~一二七四) 博学な学者で多数の書を著した。中世最大の学者。彼の「神学大全」は中世神学体系の最高峰と評されている。
マイスター・エックハルト(一二六〇頃~一三二八頃) ドミニコ会士で十四世紀ドイツ神秘主義の最高峰をなす学者。神との合一、善い業をなすことによって義人になるのではなく義人になってはじめて良い業を為しうること、キリストは人類の中心であり贖い主であることを強調。死後の一三二九年、教皇によって異端と断罪された。
ヨハネス・タウラー(一三〇〇頃~一三六一) ドイツ中世の神秘思想家。ドミニコ会士でマイスター・エックハルトの弟子。説教者としても活躍し、「神の友」の運動を導いた。
トマス・ア・ケンピス(一三八〇~一四七一頃) 神秘思想の古典である「キリストに倣いて」の著者と考えられている。祈りの生活を霊の命の成長のための唯一の道と見なした。神との交わりを実際生活の中に統合した。真に十字架の道を知っているかどうか調べるよう信者たちを助けた。
暗黒時代の改革者たち
パウロ派 小アジアとアルメニアの信者たちの一団で、自らを使徒的教会の霊的後継者と見なし、ローマ教会とは区別した。使徒たちの教えと聖書的教理を守ることによって主に従った。新約聖書のエッセンスを熱心に保存して伝播した。主だった人々の中にシルバヌス(六三〇~六八四頃)とセルギウス(七六五~八三五頃)がいる。
ボゴミール派 八世紀中頃、多数の信者がコンスタンチノープルに移り、十世紀にはそこの信者たちが西のブルガリアに移った。これらの移民たちは人々を回心させて諸教会を設立した。指導的人物の一人にバシル(一〇七〇~一一一九頃)がいる。彼は倦むことなく伝道と教えに努め、自分の手で働いて異邦人からは何も受け取らないことを主張し、この主張を自ら実践して医者として生計を立てた。コンスタンチノープルで火刑に処せられて殉教。
アルビ派 南フランスに住んでいた信者たちの会衆。ローマ教会に賛同しないで自分たちの集会を形成した。簡素で敬虔な生活を主張。最も有名な人物としてブリュイのペトルスがいる。彼は約二十年に及ぶ旅と説教により大衆を引き付け、迷信から聖書の教えに立ち返らせた。また、信仰とバプテスマに関する真理を回復した。一一二六年頃に殉教。
ワルドー派 使徒パウロの時代にイタリアからアルプス渓谷に移住したとされる信者たちの会衆で、使徒的教会の教えを守った。聖書は信者と教会に対する唯一の規範であると考えた。有名な人物としてピーター・ワルドー(一一四〇~一二一七頃)がいる。彼は信者を二人ずつ遣わして福音を宣べ伝えさせた。また、聖書をローマの方言に翻訳した。長年ボヘミアで労した結果、リバイバルが起きて追従者が群れをなした。その多くはフランス、イタリア、ドイツ、オーストリア、スイス、ボヘミア中を旅して福音を宣べ伝えた。
ジョン・ウィクリフ(一三二九~一三八四頃) 「宗教改革の明けの明星」と呼ばれており、英国のロラード派の改革者たちの中でも特に有名な人物。「神の王国」という論文の中で「イエス・キリストの福音は真の宗教の唯一の源である」こと、そして、「ただ聖書だけが真理である」ことを示した。聖書と一致しているものだけに力があると主張。信者は神と直接交わることができると主張し、それにより聖職者階級制度の排他的権力を否定した。聖書を英語に翻訳。旅の宣教団を組織して、聖書の教えを英国中に広めた。ウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また百年後の宗教改革にも大きな影響を与えた。彼が亡くなってから約三十年後、一四一四年のコンスタンツ公会議で異端と宣告された。さらに、その十二年後、ローマ教皇マルティヌス五世の命により、ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて川に投じられた。
プラハのヒエロニムス(一三七一~一四一五頃) 英国のオックスフォード大学でウィクリフの影響を受ける。プラハに戻ってから、救いを求める者は福音書の教えに戻らなければならないこと、また、ローマ教会はキリストの教えを捨てていることを教えた。火刑に処せられて殉教。
ヤン・フス(一三七三~一四一五頃) ボヘミアの宗教改革者。プラハのヒエロニムスの影響を受けて、救いは恵みにより信仰を通してであり、律法の行いとは無関係であること、また、人は敬虔な生活を送らなければ神に受け入れられないことを強調した。焚刑に処せられて殉教。処刑される前に、「私は『人々があなたたちを憎む時、あなたたちは幸いです』というキリストの御言葉に大きな慰めを覚えている。(中略)良い、否、最高のたむけである(中略)キリストの兵士たちは命の冠を受けるのだから」と宣言した。
共同生活兄弟団 オランダのヘールト・フローテ(一三四〇~一三八四頃)とヤン・ファン・リュイスブルック(一二九三~一三八一頃)によって創設された。リュイスブルックは裕福な家庭に生まれたが、修道院生活と神秘主義に傾倒し、後にすべてを捨てて共同生活修道会を創設して、福音伝道の働きに従事した。貧しい若者が霊的教育を受けられるよう学校網を確立し、これにより当時の社会のために聖書に基づく健全な教育を供した。「キリストに倣いて」のトマス・ア・ケンピスやエラスムスはこの学校群出身。聖書を印刷し、賛美歌を出版した。宗教改革に大きな貢献を果たした。
ペトル・ヘルチツキー(一三九〇~一四六〇) ボヘミア兄弟団の先駆者たちの指導者。プラハでジョン・ウィクリフの影響を受ける。神への奉仕としての修道院生活に反対した。彼の仲間たちはヘルチツキー兄弟団として知られている。
エラスムス(一四六六~一五三六) 注解と解釈付きの「校訂版 新約聖書」(新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳)を出版。これにより、信者たちは神の啓示と、キリスト及び使徒たちの教えに近づけるようになり、ローマ教会内に宗教改革の潮流を生じさせるきっかけとなった。
団結兄弟団 初期キリスト教の真の教会に戻るために教会に関する原則を再考し、聖書が示すキリストと使徒たちの教えにしたがって生活における聖潔を強調した。「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も不足しなかった」ことを主張。多くの書物や賛美歌がある。真理教育、特に信仰による救いの真理の教育を重んじた。主要人物はプラハのルカ(?~一五二八)。
宗教改革
マルティン・ルター(一四八三~一五四六) 宗教改革の中心人物。信仰による義認の真理を回復し、暗黒時代に閉ざされていた聖書を解放した。彼の初期の書き物は共同生活兄弟団の精神にしたがって書かれた。「聖書のみ」「信仰義認」「万人祭司」を強調。聖書をドイツ語に翻訳した。しかし、カトリック由来の幾つかの非聖書的な教えや実行からは抜けきれなかった。特に教会に関する真理についてははっきりしておらず、国教会を設立。
フルドリッヒ・ツヴィングリ(一四八四~一五三一) スイスの宗教改革の指導者で聖書を唯一の規範と見なし、新約聖書の書物を一冊ずつ翻訳した。信仰による救いについて六十七の小論を記した。カトリックの諸々の迷信を否定したが、バプテスマに関しては幼児洗礼を認める妥協的立場を取り、アナバプテストを迫害した。また、主の食卓に関して象徴説を唱え、共在説を唱えたルターと対立した。一五三一年カッペルの戦いで戦死。ハインリヒ・ブリンガーが彼の後を継いだ。
カスパー・フォン・シュヴェンクフェルト(一四八九~一五六一) シレジアの宗教改革の中心人物。全聖書は神の霊感によって書かれたと信じた。救いは有機的な過程であること、また、十字架につけられて復活し栄光を受けた神・人である御方は命を与える霊になったこと、この命を与える霊なるキリストは信者の霊の糧であることを強調。「大いなる告白」(一五四〇)を執筆。彼の追従者は「キリストの栄光の告白者」と呼ばれた。内面的・主観的経験を強調し、幼児洗礼や教会の外面的形式を退け、典礼を霊的に守ったため、ルター、ツヴィングリ、ブツァーらから排斥された。選びは人の意志によるものではなく、御霊の御旨・啓示・顕現によるものであると見なした。すべての信者が祭司であることを支持。宗派や分派を否定し、追従者らを組織化して団体へと形成しなかった。
ジャック・ルフェーヴル(一四五五~一五三六) 十六世紀初頭におけるフランスとスイスの宗教改革運動の主要人物の一人。新約聖書と詩編をフランス語に翻訳して、人々を聖書に導いた。「ただ神だけが恵みにより、信仰を通して、義として永遠の命にもたらしてくださる」と明確に教えた。
ギヨーム・ファレル(一四八九~一五六五) スイスにおける宗教改革運動の指導的人物の一人。神の御子を信じる信仰による救いと、贖いの御業の十全性を経験し、救いは行いによるのではなく神の恵みによることを悟る。スイスのフランス語圏(特にジュネーブ)で精力的に働き、一五三六年にジャン・カルヴァンを迎えた。その後、カルヴァンと共にジュネーブを追われてヌーシャテルに行き、そこで説教や執筆活動を行って宗教改革を支援した。
ジャン・カルヴァン(一五〇九~一五六四) 「キリスト教綱要」を執筆して、キリスト教信仰とキリスト教生活について極めて健全かつ明確に体系化した。信仰による義とバプテスマの真理について展開・解説した。神の栄光、信者の選び、救いの確かさ、神の召しの目標である神の御旨を追い求める必要性等の真理を強調した。聖書に関する注解を著した。宗教改革者の中で最も多作な著者の一人。長老が教会を管理するという真理を擁護した。後にスコットランドの改革者たちがこれを受け継いで、長老派教会の源となった。
アナバプテスト(再洗礼派) 教会は国民全員ではなく、新生してキリストの弟子の道を歩む決意をした者から構成されることを見た。幼児洗礼の有効性を否定し、悔い改めた者にのみバプテスマを施した。また、教会の聖さと実を結ぶ信仰を重んじた。国教会等による迫害によって多数の信者が殉教。多くの賛美歌が獄中で書かれたが、それらの賛美歌は主のための苦難と主に対する愛を大いに表している。
メノ・シモンズ(一四九六~一五六一) アナバプテストの主な教師の一人。勤勉に聖書を学び、オランダを旅して迫害を受けている信者たちを訪問し、諸集会を設立した。彼に従う者たちがメノナイトとなった。彼らは聖職者階級制度の誤謬を悟り、互いを兄弟と呼んだ。メノナイトの一部はロシアに行って福音を宣べ伝えた。
ウィリアム・ティンダル(一四九四~一五三六) 聖書を英語に翻訳。この英訳聖書は広く普及した。一六一一年に出版された欽定訳(新約)の84%はティンダル訳からそのまま取られたものだとされている。ローマ・カトリックの弾圧によりヨーロッパを逃亡しながら聖書翻訳を続けたが、一五三六年逮捕され、現在のベルギーで焚刑に処された
コンラート・グレーベル(一四九八~一五二六) アナバプテスト(再洗礼派、スイス兄弟団)の創設者。幼児洗礼の誤りを見て、師のツヴィングリと袂を分かち、独自の群れを形成するに至った。
ヤコブ・ベーメ(一五七五~一六二四) ドイツの神秘思想家で、ウィリアム・ローや敬虔主義に影響を与えた。真のクリスチャン生活はキリストの苦難と勝利に倣うことであると主張。プロテスタント主義をその聖書崇拝のゆえに批判。「キリストへの道」等を執筆。
清教徒 カルヴァンの影響の結果興された。聖書を根本的権威として高く掲げ、簡素な霊的礼拝、神に対する責任、聖なる共同体の建設などを目指した。迫害を受けて、オランダに難を逃れる。一六一六年に会衆派教会を創設。一六二〇年にメイフラワー号でアメリカに渡り、そこに今なお残る基礎を据えた。
ジョージ・フォックス(一六二四~一六九一) クエーカー(キリスト友会)の創設者。伝統的宗教に物足りなさを感じて、自分自身の霊の中で神と直接親密に交わることを求めた。外面的・形式的規則は不要であり偽善的であること、信者は主から直接照らし(内なる光)を受けられることを見た。このような光を携えて約四十年間巡回説教者及び著者として働き、イギリス、スコットランド、オランダ、アメリカを旅した。また、奴隷制度、誓約、軍務に反対した。彼の信奉者たちは迫害・投獄されたが、急速に数が増えてロンドン、ブリストル、ノーウィッチに広がった。聖霊の直接的霊感を信じ、聖霊の自由な働きを尊重して集会を行った。ウィリアム・ペンはクエーカーの信仰を宣べ伝えて擁護した。
ジョン・バニヤン(一六二八~一六八八) 清教徒の説教者・著者。既成教会の許可なく説教を始めたため捕らえられて、約十二年間ベッドフォードの牢獄に拘留されたが、一六七二年の信教自由令によって釈放された。投獄中に聖書の次に読まれているとされる「天路歴程」を執筆。この書の約八十パーセントは聖書からの直接的引用や言い換えから成る。
敬虔な生活の追求
ヨハン・アルント(一五五五~一六二一) ドイツ敬虔主義の先駆者。クレルボーのベルナルドゥス、ヨハネス・タウラー、トマス・ア・ケンピス等の影響を受ける。「真のキリスト教」を執筆(フランスでは禁書にされたが、ツィンツェンドルフによって出版された)。正統教理を信奉しているだけでは真のクリスチャンとは言えず、悔い改め・聖化等の経験、心の中に働くキリストの主観的御業、神との親密な交わりと合一が必要であると強調した。
ジャン・ド・ラバディ(一六一〇~一六七四) 新約聖書を勤勉に学び、教会の回復には初代教会の模範に戻る必要があること、また、集会はコリント人への第一の手紙の十四章にしたがってなされなければならないと信じた。福音は信仰と敬虔の唯一の規範であること、外的改革と敬虔な生活は神と交わる内的生活によることを強調。祈りと黙想に関する説明を記す。真に再生されている一団だけが真の教会であると考えられること、そして、全員が聖霊によって一つからだとして結合され、会衆のすべての構成員がキリストの霊によって導かれる時、一つが現わされることを示した。
フィリップ・ヤーコブ・シュペーナー(一六三五~一七〇五) 改革派教会内の敬虔主義の主要人物の一人。当時、ルター派は人の意見だらけの一種の形式的宗教に堕したことを見て、生き生きとした信仰と日々の生活における聖化の必要性を強調した。信者一人一人が実践的な聖書研究と祈りを通して神に近づき、日々の生活の中で道徳的完全さを目指すための家庭集会を開始。「敬虔な望み」(一六七五)を執筆して多くの追従者を得た。
アウグスト・ヘルマン・フランケ(一六六三~一七二七) シュペーナーの実質的な後継者。「真の愛の一滴は知識の大海よりも尊い」という主張のもとに活動し、ハレ大学を拠点として貧民の児童向けの学校や孤児院等を設立。また、多くの伝道者を海外に送り出し、プロテスタント教会の宣教活動の先駆者となった。
ゴットフリート・アーノルド(一六六六~一七一四) シュペーナーの友人。教会は真理から逸れており、新約聖書が啓示している適切な立場に戻らなければならないと考えて、教会の諸問題に関する書物を執筆。この世から離れてすべての聖徒と交わりを持つ希望を呼び覚ました。
ゲルハルト・テルシュテーゲン(一六九七~一七六九) 葛藤の末にキリストの贖いの十全性を悟り、信仰による平安を得る。一七二四年に血判状で神と契約を交わす。賛美歌集「深き魂の霊の花園」が有名。彼の書き物はキリストで満たされた実際的なクリスチャン生活を反映している。ガイオン夫人らの書物を多数翻訳した。
ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(一八〇五~一八八〇) 一八四二年、約二年間に及ぶ霊的戦いのすえに若い女性から悪霊を追い出す。この時、悪霊は「イエスは勝利者である」という叫びと共に少女から出て行った。これがきっかけとなって、神癒等の奇跡を伴うリバイバルが起きた。神の王国は「今、ここに」現存することを証しした。彼の伝記としてはフリードリヒ・ズンデルの「覚醒 ~ 一人の男の暗闇との戦い」が有名。
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト(一八四二~一九一九) ヨハン・クリストフ・ブルームハルトの息子。神の王国は「今、ここに」現存するという父親の証しを受け継いで、「神の王国は目に見える形でこの地に訪れる。死んで葬られるまで待つ必要はない。今ここで、イエスが何者か、命を与える霊が何者か、我々は自分の耳で聞き、自分の目で見ることができるのである」と述べた。エッセイ集「イエスは勝利者」、「隠れたキリスト ~ 福音をこの世界にもたらす」等を執筆。
奥義派
ブラザー・ローレンス(一六一四~一六九一) カルメル会の修道僧で、亡くなるまで修道院の台所で働いた。「神の僕たちの僕」で「仕事と祈りを結び付けた」。料理や靴製造などの日々の仕事の中で神の臨在を体験し、奥義派の古典である「神の臨在の実践」を記した。生活と働きの中で神の臨在を経験することを強調。フェネロン神父に影響を及ぼした。
ミゲル・デ・モリノス(一六二八頃~一六九六) 「霊の導き」を執筆。自己を否んでキリストと共に死ぬ方法を人々に教えた。この本はローマ・カトリック教会から断罪されたが、当時の多くの人々に影響を与えた。
ガイオン夫人(一六四八~一七一七) 内住する神との親密な交わりを求め、全生涯にわたって十字架を経験し、神の切り込みと剪定によって純化された。夫の死後(一六七六)、霊的奉仕に専念して聖書の注解書を書いたが、静寂主義者モリノスの追従者と非難されて数か月投獄され、彼女の擁護者フェネロン神父ともどもボシュエによって断罪された。一六九五年から一七〇三年までバスチーユに投獄された後、解放されて余生をブロワで過ごした。彼女が執筆した「短くて簡単な祈りの方法」と「甘い香りの没薬」は聖徒の霊の命の成長に大いに助けになる。神のみこころとの合一や自己を否む問題に関して深い知識を有していた。
フェネロン神父(一六五一~一七一五) フランスの作家、聖職者。「内的生活に関する諸聖人の箴言の解説」を書いてガイオン夫人を擁護し、ボシュエ司教と論争した。教皇インノケンチウス十二世はボシュエとルイ十四世の圧力でこの書の二十三の命題を断罪したが、オランダで再版された。
モラビア兄弟団
ヨハネス・アモス・コメニウス(一五九二~一六七〇) モラビア兄弟団あるいは共同生活の兄弟団の代表の一人。福音宣教及び学校教育の指導に努めた。「すべての人間に、すべての事柄を教え、すべての人間をイエスキリストにあって完全なものとする」という目的を掲げて、現代の学校教育のしくみを考案した。
クリスチャン・デイビッド(一六九一~一七五一) 迫害されていたモラビアのクリスチャンたちをサクソニーに導いた。彼らの群れはツィンツェンドルフ伯爵によってあたたかく迎えられ、ベルツェルドルフ近くの彼の領地に住むことを許された。この新しい共同体はヘルンフート(主の守りの意)と名付けられた。他の迫害されているモラビアとボヘミアの数百名の兄弟たちをヘルンフートに導き、ヘルンフートの最初の十二長老の一人に選ばれた。
ニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ(一七〇〇~一七六〇) 貴族の生まれ。幼い頃、敬虔な祖母(たびたびシュペーナーやフランケを家に招いた)の顧みを受ける。十歳から十六歳までハレの学校に通い、フランケの影響を受けた。自分の領地を主のために開放し、迫害されているすべての信者を受け入れた。また、霊的指導に身を捧げた。彼を通して起こされたモラビア兄弟団は、全世界に出て行って福音を宣べ伝えた。最終的に彼らの八十五パーセントが海外宣教士になった。
ピーター・ベーラー(一七一二~一七七五) モラビア兄弟団の宣教士・奉仕者。ツィンツェンドルフによってアメリカのジョージア植民地に遣わされる。その途中、ロンドンでフェッター・レーン協会を設立(一七三八)。そこの集会で一七三八年五月二四日にジョン・ウェスレーが回心した。ベーラーの喜びに満ちた信仰はウェスレーに大きな影響を与えた。
聖潔の探求
ウィリアム・ロー(一六八六~一七六一) 奥義派の教えを改良して実践しやすくした。「敬虔で聖なる生活への厳粛な招き」はジョン・ウェスレーやジョージ・ホイットフィールドの生涯に大きな影響を与えた。
ジョン・ウェスレー(一七〇三~一七九一) 魂の救いと神に栄光を帰す生活を追い求めるために、一七二九年にオックスフォード大学で小さな学生グループ「ホーリークラブ」を始める。後のメソジストという名称は、このときの日課割りに由来している。アメリカ・インディアンへの宣教を志して植民地アメリカに渡る。その航海の途中、激しい嵐の中でも平安に満ちているモラビアの信者たちの姿を見て大きな感銘を受ける。二年後、ほとんど満足な活動さえ行えないまま失意のうちに帰国。帰国後、モラビア兄弟団の宣教士ピーター・ベーラーに「自分はどうしたら救いの確信を持つことができるのか」と質問。それに対して、ベーラーが「救いの確信が得られるまで説教せよ」と語ったことは有名。一七三八年五月二四日、アルダスゲイト街のモラビア兄弟団の集会で信仰による義認の真理を見て回心した。ヘルンフートを訪問してツィンツェンドルフと会う。弟のチャールズ・ウェスレーやジョージ・ホイットフィールドと共にイギリスの福音化に乗り出したが、英国国教会の扉が閉ざされたため、馬に乗って英国中を巡り、野外で福音を宣べ伝えた。旅した距離は二十五万マイル以上、また四万回以上説教した。奥義派のガイオン夫人やウィリアム・ローから大きな影響を受けた。人は信仰によって義とされるだけでなく、信仰によって聖化されることを悟って、聖化に関する真理を回復した。主要著書は「キリスト者の完全」。彼の死後、一七九五年、彼の作ったメソジスト会は英国国教会から分離して米国でメソジスト派となった。
チャールズ・ウェスレー(一七〇七~一七八八) 兄のジョン・ウェスレーと共に働いて、五千曲を超える賛美歌を執筆した。彼の賛美歌は聖書が教える主要教理に関する解説になっているだけでなく、自分自身の実体験に基いて神に賛美と感謝と礼拝を捧げる内容となっており、霊的に高い価値がある。
ジョージ・ホイットフィールド(一七一四~一七七〇) ウェスレー兄弟と共に野外集会を開いて、人々を主にもたらした。イギリスだけでなくアメリカでも働いた。ジョナサン・エドワーズと共に第一次大覚醒の主要な担い手として知られている。恵みの福音を強調。信仰によってキリストの平安を受けること、喜びに満ちた献身生活は救いの結果であることを主張。「他のすべての名を下ろして、ただキリストの御名だけを高く上げよ」と述べた。
ブラザレン
英国ブラザレン 教会の天的召命と教会の一体性という二つの事柄を回復。宗派組織の誤りを見た。ただ一つのキリストのからだがあるだけであり、教会は人の意見によって形成されてはならず聖霊によって直接導かれなければならないことを悟る。多くの卓越した聖書教師を輩出し、おびただしい出版物を発行した。聖書の中の時代区分、教会・ユダヤ人・異邦人の区別、旧約聖書の数々の予型の霊的意義等を明らかにした。今日に至るまでブラザレンの神学はキリスト教神学の最高峰。
アンソニー・ノリス・グローブス(一七九五~一八五三) 按手された牧師がいなくても、聖書を学び、パンを裂き、祈ることで 初代教会の在り方に回帰することができると考え、 ベレットやダービーなど、初期のプリマス・ブラザレンのメンバーたちとともに集まり、 この考えを実践した。また、聖霊の導きと聖書にある主の御言葉に従いさえすれば、 聖職の地位につく必要もないと判断し、トリニティ・カレッジを中途退学した。その後、バグダッドとインドで福音を宣べ伝えた。「キリスト者の献身」を執筆。「フェイス・ミッションの父」とも称されている。
ジョン・ネルソン・ダービー(一八〇〇~一八八二) 「キリストの教会の性質と一体性」を出版。この書はブラザレンが出版した多数の書物の中の最初のものである。ギリシャ語とヘブル語に秀で、聖書を英語に、新約聖書をドイツ語とフランス語に翻訳した。聖書における諸々の時代区分(経綸)を明らかにした。彼の「聖書梗概」は有名。主のために広く福音を宣べ伝え、一生独身のままだった。「キリストは私の唯一の目標である。なぜなら、私にとって生きることはキリストだから」「私は時折三つの事を考える。第一に、神は私の父であり、私はその愛する御子への御父の贈物であること。第二に、キリストは私の義であること。第三に、キリストは私の今の生活の目的であり、永遠に私の喜びであることである」と述べた。
ジョン・ギフォード・ベレット(一七九五~一八六四) ダブリンのトリニティ・カレッジでダービーの同級生だった。聖職者階級制度の誤りを見た。信者相互の交わりを実行。
ジョージ・ミュラー(一八〇五~一八九八) 祈りと神の御言葉を信じる信仰に関して多くの卓越した学課を学んだ。孤児院を設立して、信仰による生活を実践。生涯の間に、祈りの答えとして一五〇万ポンド近くを受け取り、一万人以上の孤児を世話した。彼の祈りは数百万回かなえられ、主はすべての必要を完全に満たせることを力強く証しした。
チャールズ・ヘンリー・マッキントッシュ(一八二〇~一八九六) 有名な「モーセ五書注解」を執筆。D・L・ムーディーは「たとえ世界中の書物が焼かれたとしても、私は一冊の聖書とC・H・Mのモーセ五書注解があれば満足する」と述べた。予型に関する適切な知識を回復した。
ウィリアム・ケリー(一八二一~一九〇六) ダービーの教えと実行に関する最高の解説者・適用者の一人。スポルジョンは彼のことを「ブラザレンの中で最高の神学者の一人」「宇宙のように広大な心を持つ人」と評した。
ロバート・ガボット(一八一三~一九〇一) キリストの裁きの御座で信者が受けることになる報いの問題について見た。救いは信仰によるが報いは行いによること、救いは命の問題だが報いは生活の問題であることを聖書から発見した。決定的に重要な二つの真理を回復。第一に、信者でも千年王国から締め出されるおそれがあるため、信者は忠実・勤勉である必要があること。第二に、大患難前にすべての信者が携え上げられるわけではなく、勝利している忠実な信者だけがこの最初の携え上げにあずかることである。「神聖な真理の二重性」、「種蒔きと刈り取り」、「エサウの選択」等の多数の著作がある。
ジョージ・ホーキンス・ペンバー(一八三七~一九一〇) 「地球の幼年期」「大いなる預言」は傑出した聖書注解として有名。その他、「動物 その過去と将来」等の著書がある。
デイビッド・モリソン・パントン(一八七〇~一九五五) ロバート・ガボットの後継者。「夜明け」誌を発行して、ガボットの教えだけでなく予型や預言に関する教え等を広めた。「キリストの裁きの御座」等の著者がある。
アンドリュー・ミラー(一八一〇~一八八三) 彼が執筆した「教会史」はこの分野の本の中で最も聖書的であることで有名。
ジョージ・カッティング(一八三四~一九三四) 「安全・確信・享受」を執筆して、救いの確信を得ることができることを人々に教えた。これにより、福音に関するこの真理が完全に回復されるに至った。
サイラス・インガスン・スコフィールド(一八四三~一九二一) 引照・略注付きの「スコフィールド聖書」を発行してブラザレンの教えを世界中に広めた。その他、「真理の言葉の正しい切り分け」、「キリスト・イエスにある新しい生活」等を執筆。
エドモンド・ハマー・ブロードベント(一八六一~一九四五) ブラザレンの宣教士でオーストリア、ベルギー、エジプト、ドイツ、ポーランド、ロシア、トルコ、バルト海沿岸諸国、南北アメリカ、ウズベキスタン等を旅して福音を宣べ伝えた。「巡礼する教会」(邦題「信徒の諸教会」)を執筆して、新約聖書が示す模範的教会に立ち返ろうとした数々の信徒集団の歩みを一世紀から二十世紀に至るまで描写した。
エーリッヒ・ザウアー(一八九八~一九五九) 開放的ブラザレンの教師で「クリスチャンはみな宣教士!地域教会はみな宣教団!」を標語としていた。「世界の贖いの夜明け」、「十字架のキリストの勝利」、「永遠から永遠まで」等を執筆。
世界宣教の進展
デイビッド・ブレイナード(一七一八~一七四七) デラウェア・インディアンの間で献身的に福音を宣べ伝える。彼が残した日記は、彼の没後、ウィリアム・ケアリー等に大きな影響を与え、世界宣教の動力となった。
ウィリアム・ケアリー(一七六一~一八三四) 人には福音を受け入れる責任と能力があると信じて、世界宣教を志す。「異教徒改宗のための手段を用いるキリスト者の義務についての調査」を執筆し、「異教徒への福音宣教バプテスト会」を創設。四十年にわたってインドで福音を宣べ伝えた。聖書をインドの様々な方言に翻訳。彼の働きにより、世界宣教への情熱がクリスチャンたちの間に広く呼び覚まされた。
デイビッド・リビングストン(一八一三~一八七三) 当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸で福音を宣べ伝えた。宣教拠点を造るためにアフリカ大陸を横断。
ハドソン・テーラー(一八三二~一九〇五) 「合一と交わり」を執筆して深遠なキリスト経験について叙述した。キリストとの合一・交わりに関する真理を強調。中国内地宣教団を設立して、中国における福音宣教の働きに多大な貢献を果たした。すべての必要を満たしてくださる神に堅く信頼し、献金のアピールをせず、その代わりにクリスチャンの霊的成長を助けるメッセージを与えた。彼が亡くなった年、中国内地宣教団には二〇五の拠点があった。一九〇〇年以降の回心者の数は十万人を超えると言われている
大衆伝道の進展
チャールズ・フィニー(一七九二~一八七五) 十九世紀にアメリカで起きた第二次大覚醒の主要な指導者。リバイバルとは信者が最初の愛に立ち返ることであり、また罪人が過去の行状を悔い改めることであることを見た。後退した諸教会を覚醒・矯正して、神の事柄に注意を払わせた。信者を刷新して、その内にキリストのかたちを形造り、輝かしい証しの生活を送らせることが、罪人を屈服させる神の方法であると主張。
ドワイト・ライマン・ムーディー(一八三七~一八九九) アメリカの第三次大覚醒の代表的伝道者。毎日少なくとも一人の人に福音を伝えることを実践。イギリスとアメリカの大都市を旅した。祈りの必要性を大いに強調。神に完全かつ徹底的に服することに努めた。一生の間に数百万マイル旅して一億人以上の人に福音を宣べ伝え、七十五万人のために個人的に祈った。ムーディー聖書学院を創設。
救世軍 英国のメソジスト派の牧師だったウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドンのスラム街で貧民に伝道するために一八六五年に設立され、一八七八年に救世軍と改称された。モットーは「救いと聖潔」。現在、軍隊を模した組織により、世界の多くの国と地域で伝道や社会福祉事業などを行っている。
福音派
ジョナサン・エドワーズ(一七〇三~一七五八) アメリカの第一次大覚醒を指導・記録した。ジョージ・ホイットフィールドの友人。カルヴァン主義者で彼の説教「怒れる神の御手の中にある罪人」は大きな影響を及ぼした。未信者を主の食卓や教会籍に迎え入れることに反対したため牧師職を追われた。その後、ストックブリッジで会衆派の牧師となり、インディアンに布教した。
チャールズ・ハッドン・スポルジョン(一八三四~一八九二) イギリスの著名なバプテスト派の牧者、伝道者、説教者。清教徒の著書の影響を受ける。新約聖書の原則に基づいて教会を建て上げることを主張。卓越した説教の賜物を持ち、「講壇のプリンス」と呼ばれた。
アルバート・ベンジャミン・シンプソン(一八四三~一九一九) 使徒時代のような信仰生活に立ち返ることを目指した。主イエスによる神との和解、全き献身による聖霊の満たし、主に全く拠り頼む生活を経験。また神癒に関する真理を再発見して、自ら神癒を経験した。しかし、神癒よりも肉体的弱さに打ち勝つ復活の命をより強調した。新生・聖化・神癒・再臨の四重の福音を説いた。信者の内に住まわれる内住のキリストの真理を回復。聖書、神学、宣教、霊的生活に関して七十以上の書物を執筆した。
ビリー・グラハム(一九一八~二〇一八) 生涯四〇〇を超えるクルセード伝道、ラリーなどを通して一八五の国と地域で二億一五〇〇万人の人々に福音を語った。またテレビ伝道など映像による伝道にも取り組み、「神との平和」をはじめとする三四冊の著作がある。
さらに高い霊的生活を求めて
ウィリアム・エドウィン・ボードマン(一八一〇~一八八六) 一八五八年に「さらに高いクリスチャン生活」を執筆。また、神癒の務めの指導者の一人で、ロンドンに癒しの家を設立。
ロバート・ピアサル・スミス(一八二七~一八九八) 「信仰による聖潔」を執筆。献身による聖化に関する真理を回復した。聖化は信仰だけでなく、信仰による献身にもよることを強調。
ハナ・ホイットール・スミス(一八三二~一九一一) ロバート・ピアサル・スミスの妻で「幸福な生活のためのクリスチャンの秘訣」を執筆。
アンドリュー・マーレー(一八二八~一九一七) ガイオン夫人らが説いた自己否定に関する真理の路線を継承して、「キリストにとどまれ」「キリストの霊」「至聖所」等の多数の霊的書物を執筆。祈りの重要性、聖化の実際性、聖霊の必要性等を強調。御霊としてのキリストに関する知識と経験を回復。イギリスのエバン・ホプキンスらと共に働いて、ドイツやイギリス等で特別集会を導き、それが後のケズィック大会の先駆けとなった。
エバン・ヘンリー・ホプキンス(一八三七~一九一八) 初期ケズィックの指導的教師の一人で、「聖潔はイエスを信じる信仰によるのであって、自分自身の努力によるのではない」というケズィック大会の教えの主導者の一人だった。「霊の命にある自由の法則」を執筆。
ハンドレー・モール(一八四一~一九二〇) 初期ケズィックの主要な教師の一人。多くの著作を残した。
初期ケズィック さらに高い霊的生活のために、一八七五年にハーフォード-バタスビーとロバート・ウィルソンによってイギリスのケズィックで開始された。初期ケズィックは天的衝撃力を帯びた驚異的な集会だった。「みなキリストにあって一つ」という標語の下で現在も毎年開催されている。
ペンテコステ派
二十世紀初頭頃、世界各地で聖霊の傾注が起きた。特に、一九〇九年にアメリカ・ロサンゼルスのアズサ街で起きた聖霊の傾注が有名。これにより、異言等を伴う聖霊のバプテスマが回復され、続いて神癒、悪霊の追い出し、預言、しるしや不思議を行う力などの聖霊の超自然的賜物が大々的に回復された。カリスマ運動、聖霊の第三の波等を経て爆発的成長を遂げる。最近の調査によると、世界中のキリスト教徒二十億人のうち、ペンテコステ派が二億七九〇〇万人、カリスマ派が三億四〇〇万人(ちなみに福音派は二億八五〇〇万人、ローマ・カトリックは十億人超。正教会は二億六〇〇〇万人)。
スミス・ウィグルスワース(一八五九~一九四七) 異言を伴う聖霊のバプテスマを受けて、力強く福音を宣べ伝えた。彼が祈ると盲人の目は開き、口のきけない人は話し、車いすに乗っている人は立ち上がり、癌は消え去り、死人は生き返った。彼の務めは「第一に神の御言葉を読むこと。第二に神の御言葉に燃やされるまで御言葉を吸収すること。第三に神の御言葉を信じること。第四に御言葉に基づいて行動すること」という四つの原理に基づいていた。「信仰の使徒」と人々から称された。
チャールズ・プライス(一八八七~一九四七) 自由主義神学の誤謬に捕らわれていたが、劇的に回心して聖霊のバプテスマを受ける。キリストに焦点づけられた福音を単純明快に宣べ伝え、その宣べ伝えには癒しなどのしるしが伴った。信仰は人の努力によって得られるものではなく神から賜る恵みであることを強調。月刊誌「黄金の穀粒」を発行。「信仰の意味」、「本物の信仰」等の著作がある。
デモス・シャカリアン(一九一三~一九九三) アルメニアの預言者エフィムの預言に従ってアルメニアからアメリカに渡り、トルコによるアルメニア人大虐殺を逃れた移民の子孫。イエス・キリストの再臨前に神の霊がすべての人に注がれるというビジョンを与えられ、ビジネスマン同士の祈りと交わりのために純福音国際事業家親交会を設立。自叙伝「地上で最も幸福な人々」(邦題「地上最大の成功者」)を執筆。
デニス・ベネット(一九一七~一九九一) 米国聖公会の司祭。一九六〇年に異言を伴う聖霊のバプテスマを受け、聖霊刷新運動の指導者の一人となった。「朝の九時」「聖霊とあなた」等を執筆。
マーリン・キャロザース(一九二四~二〇一三) 「獄中からの讃美」を初めとするいわゆる讃美三部作を執筆して、すべてのことについて神に感謝と賛美をささげることの重要性を説いた。
神の永遠の御旨とキリストの満ち満ちた豊かさの再発見
エバン・ロバーツ(一八七八~一九五一) 炭鉱の中でリバイバルを求めて祈り続ける。その結果、ウェールズに大リバイバルが起きた。聖霊による復興の御業は神に服従している一団によってなされると教えた。またリバイバルでの様々な経験から悪霊の働きについて理解するようになり、ジェシー・ペン-ルイス夫人と共に霊の戦いの古典である「聖徒の戦い」を執筆した。リバイバルの間、想像を絶する霊的・精神的・肉体的重圧が彼個人の上にのしかかったため、体調を崩してその後療養生活を送った。この教訓から、霊の戦いに個人で挑むのは無謀であること、霊の戦いには霊の軍隊である教会が必要であることが広く認識されるようになった。さらに、これがきっかけとなって、その後、神の永遠の御旨における教会の重要性が再発見されるに至った。
ウェールズの覚醒 エバン・ロバーツの祈りによってウェールズに起きた大リバイバル。一九〇四年から始まったこのリバイバルはエバン・ロバーツが体調を崩す一九〇五年まで続き、世界中に影響を及ぼした。このリバイバルでは神の王国が力をもって地に訪れた。その天的衝撃力により、その後、王国の福音、神の王国・キリストの豊満としての教会、キリストの満ち満ちた豊かさ、神の永遠の御旨などの真理が相次いで解き放たれることになった。
ジェシー・ペン-ルイス(一八六一~一九二七) 病床にあった時ガイオン夫人の書物を読んで復興され、十字架の刷新された宣べ伝えのために主によって起こされた。十字架は神の御業の中心であり、すべての霊的事柄の基礎であることを宣べ伝えた。また、人の三部分性、霊と魂を切り分ける十字架の働き、霊の戦い等に関する真理を回復した。ウェールズのリバイバルやエバン・ロバーツの近況について報告した。エバン・ロバーツと共に「聖徒の戦い」を執筆。「勝利者」誌を発行して、十字架に関する真理を世界中に広めた。また、他に例がないほど霊的に高度な内容を取り扱う勝利者集会を定期的に開催した。その他、「カルバリの十字架とそのメッセージ」、「魂と霊」、「『魂の力』対『霊の力』」、「顔と顔を合わせて」、「聖霊に明け渡す」、「多くの実」、「開かれた天」、「神にある命への道」等の多数の著作がある。
メアリー・マクドゥーノフ 「神の贖いの御計画」を執筆。
セオドア・オースチン・スパークス(一八八八~一九七一) ジェシー・ペン-ルイスの同労者(一九二三~一九二六)だったが後に袂を分かち、オノ・オークに独自の集会を設立。ジェシー・ペン-ルイスが見た真理をさらに発展させて、主イエス・キリストの中心性と至高性、キリストの十字架の中心性、キリストの復活と高揚、キリストの御座の務め、内住のキリスト、聖霊、キリストのからだである教会、神の永遠の御旨、新エルサレム等に関する真理を次々と解き放った。「証し人と証し」誌を発行して(一九二三~一九七一)、これらの真理を広めた。多数の著作がある。
中国大陸における主の働きのさらなる進展と世界的展開
マーガレット・エマ・バーバー(一八六六~一九三〇) 聖公会の宣教士で中国に一時期派遣された。本国に戻った後、D.M.パントンの助けによって宗派の誤りを見、「中国にまかれた一粒の種になるように」という主の召しに応じて、宗派を離れて単身中国に戻った。ブラザレンや内なる命の路線のクリスチャンたちの働きに精通し、歴代の主の働きの精髄を中国に紹介した。ウオッチマン・ニーを初めとする中国の若いクリスチャンたちを霊的に教育・指導した。深遠なキリスト経験に関する詩や詩歌を執筆した。
ウオッチマン・ニー(一九〇三~一九七二) 二十世紀初頭、主によって中国大陸に起こされる。歴代の聖徒たちの教えや実行の精髄を受け継ぎ、聖書に基づいてさらに発展させた。救い、命としてのキリスト、教会、キリストのからだ等の聖書の中心的真理を明確に示し、それらの真理の経験・実践へとクリスチャンたちを導いた。一都市一教会の原則(地方合一の原則)を聖書から見い出し、その原則に則って四百以上の教会を中国に設立した。中国共産党政府の迫害により投獄され、一九七二年に殉教。「正常なキリスト者の信仰」(「キリスト者の標準」)、「正常なキリスト者の教会生活」、「霊の人」、「栄光の教会」等の多数の著作がある。
ウィットネス・リー(一九〇五~一九九七) ウオッチマン・ニーの同労者。ウオッチマン・ニーの務めを受け継いで、さらに発展させた。神の永遠のエコノミー、キリストのからだ、新エルサレム等に関する聖書の中心的真理について深化・発展させて高嶺へと至った。聖書全巻を命の観点から解き明かした「ライフスタディー」、フットノート付きの「新約聖書 回復訳」を出版。その他、多数の著作がある。彼の務めを通して六大陸に二千以上の諸教会が起こされた。