一.イエスは暗闇に打ち勝つ

クリストフ・ブルームハルト

メトリンゲンのある日のことである。当時、父は霊的暗闇との激しい戦いの中にあったが、田舎を数人の会衆の者たちと一緒に歩いていた。霊的戦いのせいで父は打ちひしがれ、混乱し、今にも爆発しそうだった。父たちは森を通り抜け、見晴らしの良い所に出た。そこで彼らは一休みした。父は言った、「私がつくった歌を歌いましょう。きっと元気が出ます」。それから、「イエスは勝利者である」という節を父は暗唱した。

イエスは勝利の王である、
イエスはすべての敵を征服した。
全世界はやがて、圧倒的な愛により
イエスの足下にひざまずく。
イエスは我らを御力をもって導き、
暗闇から輝かしい光へともたらす。

人々の心からの歌声が響き渡った。しかし、歌っている時、彼らは自分の耳を疑わずにはいられなかった――歌っているのは自分たちだけでなく、目に見えない歌声がますます周囲で大きくなっていったのである。まるで目に見えない天使の軍勢が人々を取り囲んで、一緒に歌っているかのようだった。人々は驚き勇んで家に急行した。すると、そこでも別の素晴らしい出来事が起きたのである。ゴットリーベン・ディタスという悪鬼に苦しめられている人がいて、父はその人のことで暗闇に対して大いに戦っていたのだが、父がその人の家に入ると、彼女は父に同じ歌を歌ったのである。まるで、目に見えない歌い手たちが人々に先立って行き、その節を彼女に教えたかのようであった。

この節は私にとってときの声となり、勝利の歌となった。確かに、あの当時の戦いは静まったが、決してやんだことはない。毎年、新たな戦いがあり、我々は自分の心の中だけでなく外側にも、日毎にイエスを感じ続けているのである。

我々は、この世の成り行きを見失いやすい者である。今日、我々が目にしているのは神の救いではなく、大きな堕落である。状況はあまりにも歪みきっていて、福音に言及することすら困難である。時がたつほど、罪と死の力、死と地獄の力はますますこの世を欺く。神は実際にこの世を救おうとされていることを、我々はますます強く確信しなければならない。そして、我々はますます勇気をふりしぼって、この時代の悪鬼どもに抵抗し、悪鬼どもの餌を拒否しなければならない。なぜなら、被造物の誰か、あるいはその一部が滅びることは、神の御旨ではないからである(二ペテロ三・九)。最後の世代は滅びの世代ではなく、地への祝福となる人々から成るだろう――この人々は喜びと希望によってこの約束を握りしめ、国々への光となるのである。

たとえ我々の時代が悪によって蹂躙され、死が地上にはびこったとしても、我々はそうした事実を最終的なものとして受け入れはしない。「主の御旨なら、なるようになりますよ」等と、眠そうに言ってはならない。否、我々は抵抗し、モーセのように破れ目に立たなければならない。モーセが反逆的なイスラエルのために同情と忍耐と忠実さとをもって奮闘したように、我々も同じ勇気をもって、そしてまさに同じ悔い改めをもって、「光は闇に輝いている」と宣言しなければならない。救いと癒しが神の御旨である。悪魔と地獄の全勢力は「お前たちの状況には望みがない」と訴えて言う。これに対して我々は、「お前たちが勝利することはない!我々はイエスを知っており、イエスはすべての悪魔に打ち勝つからだ」と叫ばなければならない。

イエスが肉と血をまとって我々の一人となられたことは、彼が人間のあらゆる経験にあずかってくださることを意味する。我々のどん底の暗夜にすらあずかってくださるのである(ヘブル二・一八)。どうかこの事実が十分な衝撃力をもって我々の思いの中に打ち込まれますように。迷わされないようにしようではないか。罪が優勢で、この世の誘惑が強大に見える堕落の時、特にそうしようではないか。この世を見捨てるなら、我々は自分自身の一部を見捨てることになるのである。もし、私がある人やある団体のことを、「失われていて回復の見込みはない」と思うなら、私は自分の体の一部が失われたように感じてしかるべきである。もしあなたの隣人は現在の性格のせいで完全な者になれないというのなら、あなたの性格はどれほど暗闇の中に失われることだろう?ああ、なんとか「到達した」人たちには例外的措置が施される、とあなたは思っているのか?神はそんなことは夢にも思っておられない――神は義である。

暗闇が至る所で支配しているが、特に我々の内側でそうである。それゆえ、各自警戒しようではないか。なぜなら気づかぬうちに、堕落の奴隷になってしまうおそれがあるからである。我々の最も貴い働きですら、汚されてしまうかもしれない。注意していないなら、神に関する事柄をもはや話せないおしのようになってしまうかもしれない(ルカ一一・一四)。喜んで、元気よく、楽しそうに神を見上げる人々をほとんど見かけないのは、おそらくこれが原因であろう。我々はおしになってしまったのである。人々は色々な種類の武器や力ある道具についてよくしゃべっているが、誰が神の御旨について話しているだろう?その代わりに我々が耳にしているのは、嘘や悪意ある言葉なのである。「この方法がよい」とある人が言うと、別の人は「あの方法がよい」と言う。しかし、「神の御旨が願いなのです!」と誰が叫んでいるだろう?キリストによる征服――キリストが到来して、自分たちの間で王国を偉大ならしめてくださること――を本当に願っている人が我々の中に誰かいるだろうか?キリストは主ではないのか?それとも、「自分で自分を救える」とでも我々は思っているのだろうか?

イエスだけが暗闇から抜け出す道を我々に示すことができる。イエスは救いに導く神の力である(ローマ一・一六)。砕かれてかがんでいるすべての人を、イエスは和解させてくださる。それゆえ、たとえこの世がひどく引き裂かれている時でも、また我々自身の罪から即座に贖われる見込みがなさそうな時でも、我々は決して落胆する必要はない。神が遅れておられるからといって、気落ちしてはならない。神はイエスの御名をもってこの世に証印を押されたのである。もしそうでなければ、我々はとうの昔に必要を抱えたまま滅んでいただろう。

我々のときの声は、「イエスは勝利者」である。特に今日、この叫びを何度も響かせなければならない。なぜなら、イエスはまだ地上におられた時、暗闇の勢力に対するこの権威を授かって、その権威を今ここで行使し続けておられるからである(コロサイ二・九)。「しばし待て。そうすれば、あなたは暗闇の手から解放され、あなたの目は開かれる――その時、あなたは信じるだろう!」が我々の姿勢でなければならない。このような姿勢を取るなら、我々は初穂、光と塩、他の人々のための開拓者となるだろう。

イエスは暗闇を見抜けるが、我々にはできない――しかし、暗闇が至る所で影響を及ぼしていること、暗闇がいかに人の堕落や逸脱につけ込んでいるかは、理解することができる。例えば、戦争が勃発する時は常に、暗闇の力が支配しているのである。誰を責めるべきか?人類史に現れた暗闇の力の働きである。パウロは言う、「我々は捕虜であり、暗闇の支配下にある」と。しかし、この支配から我々は解放されなければならない。イエスは、「私が神の指を通して悪魔を追い出している以上、神の国はあなたたちに到来しているのです」(ルカ一一・二〇)と言われたが、この御言葉は今日も有効である。イエスが肉体をもってこの地上に生きておられた時だけでなく、我々に対しても同様に有効なのである。神の指を通して我々の頑固な意志という暗闇を取り除くことを、イエスは望んでおられる。イエスが地上で癒しを行われた時、彼は暗闇を征服された。しかし、癒された者たちが心を開いて信じた時、神からの光が射し込んだのである。

暗闇がたびたびその醜い素顔を現すことは、おそらくよいことなのだろう。イエスが死なれた時もそうだった。にもかかわらず、イエスは堅く立たれた。これにより我々は確信することができる。ひどく激しい試みや、恐れや、圧迫のただ中でも、キリストは御業を推し進めて我々を助けてくださるので、もはや我々はおしのままでいる必要はないのである。

この世にイエスは来てくださった。然り、苦しみの中に、我々の汚れの中に、来てくださったのである。神は全世界を愛しておられる。特に、悪魔的になってしまったすべての人――神なき世――を愛しておられる。「暗闇の中に住んでいた人々は大いなる光を見た」(マタイ四・一六)。絶望した人、罪人、呪われた人、人殺し、惨めな人、もはやいかなる慰めも希望もない人の所に、イエスは来てくださったのである。彼らは自分を愛してくださる神を見た。光が暗闇を照らしたのである。

光は絶望という落とし穴をくまなく照らすことができる。福音は我々の暗闇を照らす神の愛である。福音の一つ一つの言葉をもって、神は暗闇に要求する、愛をもって要求する。我々はもはや恐れる必要はない。神は愛をもって、罪と死と地獄に要求されるからである。神は我々一人一人をご自分の子供として愛しておられる。何と、我々は神の子供なのだろうか?あなたも私も恐るべき罪人かもしれない。だから何だというのか!十字架から神は我々に仰せられる、「私はあなたを裁いたり、罪に定めたりしません。あなたを助けたいのです」と。これが福音の光であり、暗闇はこれに打ち勝たなかったのである(ヨハネ一・五)。