二.イエスは罪を征服する

クリストフ・ブルームハルト

今日、我々が特に関心を寄せているのは、周囲に見られる悲惨な社会情勢と、人が抱えている必要である。人々はこの問題について大いに話し合っている。「この世界は全く安泰である」と依然として多くの人が考えているが、これは驚くべきことである。私が思うに、もちろん、彼らは正しい。しかし、この世界を創造して我々の命をその手に握っておられる御方を認めないなら、この問題を解決するのに必要な力であるこの御方に立ち返ることを拒むなら、この夢はまさに幻想にほかならないのである。それからは何も生じないだろう。我々の悲惨な状況はそのような幻想をはねのけて、蛇のように身悶えるだろう。例えば、「自分はこの状況を解決することができる」と信じている傑出した指導者たちの様々な意見に基づいて、十の国を設立したとしよう。ある国は豊かな地域に根ざしている。別の国は優しい最高権威にしたがって運営されており、おそらく宗教的枠組みを持つだろう。また別の国では、貧しい人や労働者たちだけに発言権がある。次に、可能なかぎり厳格な法律を作成する。すると、今日我々が経験しているのと同じ恐ろしい混乱、数千年にわたって経験してきたのと同じ恐ろしい混乱を、依然として目にするだろう。ただ、その見かけが少し変わるだけだろう。

神から離れるなら、我々は自分自身の心の中の不調和や、我々の間の不調和を取り除くことはできない。知性と体が病んでいるので、我々には健全な世界を造り出せる望みはない。内側も外側も曖昧模糊としていて、感情や情熱によって引き裂かれているため、我々は真実な正義の社会を形成することができない。人類の状況について率直に考えるたび、神を求めて、生ける神を求めて渇かざるをえない。この神がおられなければ、何事も解決しないからである。

神の王国を妨げる最大の障害は我々であり、我々の小賢しい解決策なのである。自己意志により、多くの人々や多くの国々が滅んだ。我々クリスチャンの数々の団体ですら、あまり役に立たなかった。高ぶりがそれらの団体の中にあまりにも入り込んでいたのである。いかなる教理や組織も、クリスチャンであってもなくても、また考えうる他の何ものも、我々をこの混乱から引き上げることはできない。人の努力や人が造り出した理想というこの霧を一掃する域に達しないかぎり、またこの世をはっきりと見ることができるようになって、「イエスなしでは、私たちは無です」と言えるようにならないかぎり、我々は失われているのである(ヨハネ十五・五)。それゆえ、我々は祈らなければならない、「来てください、主イエスよ。あなたが私たちの内で勝利しなければなりません。あなたが私たちの内でも征服者となってくださらなければならないのです」と。

もし我々の内に突破口が開かれないなら、もし我々がエゴに突き動かされている自分自身の自己に対する勝利を得ないなら、もし神が栄誉をお受けにならないなら――その時は、ああ、なんとひどい暗夜が臨んで我々を覆ってしまうことか!これを思うと身震いする。しかし、この暗夜が臨むことはない。今日、我々はみな戦いに参加するよう召されているからである。だれでも我々に加わることができる。「自分の自己に対して戦え!」――これが実際のところ、イエスが我々に命じておられることである。あなた自身の力や理解力で戦ってはならない。神を信じよ。神に栄光を帰し、大胆に前進せよ。「自分の人生はまだやり直せる」という熱烈なる確信に満たされよ。

なぜなら、キリストは我々を今のまま進ませたりはされないからである。キリストは神の義をもって、あらゆる不義に抵抗される。キリストはご自身に逆らうあらゆるものに対して戦われる。これはまさに、キリストが決定的戦いで勝利されたからにほかならない。「…神は、私たちを責めて私たちに敵対していた証書を、その規定もろとも廃棄し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれました。そして、諸々の支配者たちや権威者たちを武装解除して、さらしものとし、十字架によって彼らに勝ち誇られたのです」(コロサイ二・十四~十五)。罪に対するこの戦いで、悪は対処されて致命傷を受けたが、なおも戦い続けている。それゆえ、福音は我々の生活を快適にしてくれるものであるかのように思い込んで、ある種の霊的平和しか求めないのは愚かなことである。それどころか、イエスはこう言われたのである、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためです」(マタイ十・三四)。罪と悪に対するこの戦いが続くかぎり、我々が平和を得るのは、ただ戦いのさなかだけなのである。我々の平和は裕福さではないし、平穏無事であることでもない。我々の隊長である御方の行軍に参加することによって、我々は平和を得るのである。この御方は肉の働きを滅ぼすために、肉体をまとって来られたのである。

自分自身に対するこの戦いでは、我々のこぶしや知性や理解力は少しも役に立たない。我々には罪を捕らえて追い出すことはできない。我々は助けを求めてイエスに向かわなければならない。なぜなら、イエスが肉体をとって来られたのは、そして今も来てくださるのは、罪を征服するためだからである。今日、もしイエスが我々の肉体をまとっておられなかったなら、私は信仰を捨てるだろう。信仰は全くの幻想にすぎないだろう。もし神が私の内で戦ってくださらないなら、この地に対する神の大義は失われるのである。

しかし、恵みにより、我々は自分の罪深い性質の数々の法則を打ち破ることができる。「私たちは罪から解放されて神の僕となりました。(中略)私たちは律法から解放されたので、御霊による新しい方法で仕えることができるのです」(ローマ六・二二、七・六)。我々は罪に属している、というのは真実ではない。神が我々を創造された目的は、我々を罪人にするためではない。罪人としての我々は、我々のあるべき姿ではない。罪に満ちた私の状況は、本来の私の状況ではない。神が私の内に住まわれる時だけ、私は真の人になるのである。

私は自分の罪を恐れる必要があるのか?ない。キリストは罪に勝利しておられるからである。たとえ私がいまだに罪人だったとしても、私は自由である。キリストの勝利が私の側にあり、あなたの側にある。他の何ものも必要ない。見かけを繕う必要はない。我々のだれも今生で決して完全になれなかったとしても、我々はみな変わることができる。なぜなら、我々は新しい天と新しい地に向かう流れの中に立っているからである。今日だけでなく毎日、我々は勝利を自覚しつつ生きる。勝利者キリスト以外の何ものにも権威はないことを、我々は喜びと確信をもって理解する。

これが意味するのは、我々が罪を征服するなら、神は我々に快適な地上生活を与えてくださる、ということではない。イエスが関心を寄せておられるのは、我々の今の環境を改善して、我々に安楽な生活を送らせることではない。イエスが我々の状況の中に来てくださったのは、そのようなことのためではない。イエスが癒しをもたらされたのは、我々が苦痛から解放されるためではない。これから我々は一体どんな益を受けるのか?否、イエスは別のものを欲しておられるのである。イエスが欲しておられるのは、我々が広く開かれた天を見て、そうして、罪と悪によって損なわれているこの世の霊を征服する勇気を持つことなのである。イエスはこの偉大な勝利、この偉大な結末に我々を導くことを願っておられる。その時、イエスは罪を含む万物の上に主となられるのである。

イエスはこれをどのように行われるのか?我々の大多数は、自分の人間的な一時的必要のための助けしか欲していないというのに。我々は理解していないのだろうか?イエスが欲しておられるのは、新しい世界と力をもたらすことなのである。この力はすでに働いており、これからも働き続けて、ついには全被造物が解放されるだろう(二コリント一七)。これに向かって我々は邁進しなければならない。イエスが来られた主な目的は、我々の地上の思い煩いや重荷や病のためではないのだから、まるでそうであるかのように、そんなことにかかりっきりになってはならない。そうしているなら、神がキリストにあって与えてくださった、この偉大な新しい現実のビジョンを奪われてしまうだろう。

多くの人がイエスのもとに駆けつけるのは、人間的必要のためである。救い主との連合こそ必要なものである。しかし、自分の罪のために救い主のもとに駆けつける人は、我々の中に何人くらいいるだろう?とても少ないのである。苦しんでいる時、我々はすぐに助けを求めて駆けつける。しかし、我々の願いを完全にキリストの上に置くことこそ、唯一我々にとって益なのである。我々は必要を覚える時、あらゆる種類の別のものに向かうように見える。あらゆることを試してみて、キリストの御旨に従うのは後回しなのである。我々が自分自身の解決策を使い尽くすとき初めて、救い主こそ我々にとって十分善い御方であることに気づくのである。その後、あるいは、救い主のもとに行くこともあるかもしれない。まるで、ほんの少しでも地上でくつろいでいられるかぎり、今の時代にしがみついていたいかのようである。

しかし、その結果、何が我々に起きたのかを見よ。我々の頑固な意志のせいで、我々は何世紀にもわたってどれほど苦しまねばならなかったことか。欠乏、死、罪によって、どれほど多くの重荷を負っていることか。恐ろしい悪の下で苦しんでいる時ですら、我々は自分の力をその根幹に注ごうとしない。その代わりに、我々の苦しみのごく上辺だけを取って、神のもとに持って行き、「この状況から救ってください。そうすれば、再び幸いになれます!」と言うのである。まるで、それが助けになるかのように。まるで、それで我々のねじ曲がった性質を変えられるかのように。たとえ神が今日、数十万の人を癒されたとしても、それが何か永続的な変化をもたらすだろうか?五年、十年、二十年、三十年もたてば、すべて忘れられてしまい、元の木阿弥になるだろう。永続的変化が生じるには、もっと深いレベルで何かが起きなければならないのである。

以上のことから、我々はへりくだらなければならない。なぜなら、最初から神が言動を通して意図してこられたのは、我々に罪を嫌わせることであり、あらゆる間違いや、無力で不敬虔なあらゆるものを嫌悪させることだからである。イエスが我々を自己から解放し、我々の内で罪と悪に勝利する必要がある。ある役人が死病にかかっている息子を癒してくださいとイエスに嘆願した時、これがイエスを動かしたのである(ヨハネ四・四六~五三)。このようにして我々も動かされなければならない。我々は新しい命のこのような力にひどく欠けている。古い命に継ぎ当てをしても、何の役にも立たない――古い命は去らなければならない!我々は信仰によって自分の全生涯を、新しい栄光の世界の基礎を据えるために来られた御方にささげなければならない。

これは一晩で成ることではない。以前小悪魔がいた所に突然天使が現れる、というようなことではない。外の陽光が雪をゆっくり溶かすように、神の太陽はゆっくり働く。もし雪が急激に溶けたら、洪水になるだろう。同じように、一晩で天使のようになろうとしている人々は、狂信的な愚か者になってしまい、時として自己義認に陥るのである。我々はこう確信することができる。我々は罪深い者であり、束縛された惨めな者かもしれないが、それでもイエスに属しているのである。この現実が我々を助けて前に進ませるのである。神はご自身を我々の内に啓示して、ますます我々を解放してくださる。我々の罪の要塞は陥落するだろう。なぜなら、キリストの勝利と、この世におけるキリストの御業とにより、我々はキリスト以外の何者にも属さないことが示されるからである。

それゆえ、時として何らかの悪や不幸を忍ばなければならなくても、どうして不平を言う必要があろう?我々の目標はもっと偉大なものであり、人類の解放なのである。神の御旨はこの偉大な贖いであり、何世紀にもわたって我々の上にのしかかってきた罪全体からの偉大な解放なのである。我々の目標は、恥と咎の内に隠されてきたものをすべて滅ぼすことである。これはイエスにある命の到来である。イエスが我々のもとに来てくださったのは、ご自身の兄弟である我々が光の父のみもとに行けるようになるためだったのである。

それゆえ信じよ!信じている方々よ、自分が真に信じているか熟考せよ!敬虔な方々よ、自分が真に敬虔か熟考せよ!義なる方々よ、自分が真に義か熟考せよ!イエスは今ここで罪を征服しようとしておられる。それゆえ、十字架、誘惑、欠乏を――しかり、死さえも――ためらうわずに受け入れられるか熟考せよ。