三.イエスは死の力を滅ぼす

クリストフ・ブルームハルト

死が事実となるのは、我々が自分の利己的な願望のために生きる時だけである。我々が御霊のために再び生き始めるやいなや、命が勝利する(ローマ八・二)。イエスには、もはや死はない。確かに、我々の肉体は死ぬ。これは動かぬ事実である。しかし、我々が自分自身をキリストの死に明け渡すとき、復活と命が我々の内に啓示される。「死は勝利のうちに飲み尽くされた。ああ、死よ、おまえの勝利はどこにある?ああ、死よ、おまえの刺はどこにある(中略)神に感謝せよ!神は私たちの主イエス・キリストを通して私たちに勝利を与えてくださる」(一コリント一五・五四~五七)からである。救い主は死の力を超越して、新しい言葉を語られる、「あなたたちは生きます!私が生きるので、あなたたちも生きます。ああ、私にすがるあなたたち、自分自身と自分の罪を神の裁きに渡すあなたたち、神の御霊によって生き、自己満足の道を歩まないことを欲するあなたたちよ、この言葉を聞きなさい、『私が生きるので、あなたたちも生きます!』」と。

私の原点はメトリンゲンにある。そこに言語を絶する偉大な光が昇ったのであり、その光はまだ沈んでいない。神はそこで真に驚くべきものを与えてくださった。神がなさったことはあまりにも偉大だったため、誰もそれを理解しなかった。そのため、それはすぐに静まってしまった。しかし、神がなさったことは過ぎ去っていない。これが信仰と希望を私が持ち続ける理由である――私だけでなく、他の多くの人々もそうである。我々は高き所からの力を味わった。それゆえ、その力が世の中のすべての苦しむ者たちや悲しむ者たちにも臨むようにと祈る。

神がこの命の力の周りに人々を集めておられることが、メトリンゲンで明瞭に示された。数千の人々が文字通り祝福の雨を受けたのである。しかし、これはまた人々を怒らせた。病んでいる人々、苦しんでいる人や足なえが大挙して私の父を訪れて癒しを受けるのに、彼らは耐えられなかったのである。この状況があまりにもひどくなったので、教会の当局者たちは牧師館に入ることを人々に禁じさえした。他の人が助けを求めて牧師館に入らないよう、館の周囲を警備員が取り囲んで立っていた。私の父にできることは、「教会の中に入って、イエスが助けてくださることを信じなさい。そうすれば癒されます」と言うことだけだった。誇張しているわけではないが、私の父に会わずに数百名が癒されたのである。

あるとき、完全に麻痺してベッドに横たわっている婦人が、主治医と共にやって来た。説教が終わると突然、彼女は立ち上がって歩き回れるようになったのである。天の力がまさにそこにあった。他にもたくさんの目立たないしるしがあった。例えば、人々が十時間や二十時間旅をしても、決して飢えや疲れを感じなかったことである。人々は自分の村を出発し、夜通し馬車を走らせて、時間ぴったりに教会に到着したものだった。その夕方、メトリンゲンを去る時、人々は喜びと力に満ちていた。命がほとばしり出ていたのである。

確かに、イエスがいったん着手されるとき、特に不幸な人々や貧しい人々のために、この地上で何事かを達成できるのである。我々はこれを当てにできる。イエスは天の門を開くことができる。そして、いったん天の門が決定的に完全に開かれるなら、妨げがすべて取り除かれるなら、神の力が死の力のまっただなかに届くのである。次々に扉が開き、次々に足かせは消えざるをえない。我々は忍耐と信頼をもって待たなければならない。たとえさらに多くの年月がかかったとしても、問題ではない。なぜなら、誰が主か?イエスが主である。イエスを我々の隊長として受け入れるとき、我々は何度も何度も主のもとに行って、こう言うだろう、「ご覧ください、親愛なる救い主よ、死がこの土地を支配しており、あの土地を支配しています。人々はこの土地では束縛されており、あの土地では抑圧されています」。天の門が開かれるだけでなく、地獄の重い扉も破られるだろう。

悲しむべきことに、キリスト――死そのものを滅ぼす真のキリスト――は我々にとってよそ者になってしまった。人々は言う、「それは言い過ぎです。教会は私たちに生活や死に際して慰めを与えてくれます。それで十分です」と。確かにそうである。しかし、それはみなキリストの勝利の必然的結果ではないだろうか?仏教徒やイスラム教徒も慰めを受けている。イエスは慰め以上のものを我々にもたらそうと欲しておられる――イエスは我々の生活を変えることを欲しておられるのである。イエスと共に新しい別の大気が臨む。もはや死の陰の下にはない大気である。イエスが到来されたのは、このためではなかったか?「彼は私たちの人性にあずかられました。それは、死の力を持つ者――すなわち悪魔――を、ご自身の死によって滅ぼし、死の恐怖のために奴隷となっていた私たちを解放するためです」(ヘブル二・一四~一五)。それなら、どうして慰めしか欲しないのか?イエスが慰めしかもたらされないなら、我々は自分の聖書を捨ててしまった方がよい。なぜなら、預言者たちや使徒たちの間違いは明らかだからである!

命を与えるキリストの力を、我々は新たに握らなければならない。イエスがナインの町に行かれた時、彼は葬列に出くわした。イエスの心は、一人息子を失ったやもめの母親に、自然に向かった。そこで、イエスは棺に触れて、「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と命じられた。すると、死者は起き上がって話し始めたのである。人々は神をほめたたえて言った、「神が御民を助けるために訪れてくださった」(ルカ七・一一~一七)。今日も、これを我々は期待できる。それなのに、我々は足を引きずって、祝福のうちに死ぬことしか望んでいないとは。使徒たちと何と対照的なことか。使徒たちは力の限りを尽くして、死に対するキリストの勝利というこの目標のために、兵士のように戦ったのである。

イエスは再び奇跡を行ってくださる、となぜ期待しないのか?なぜ死人がよみがえってはいけないのか?キリストの死に少しでも意義がある以上、死のおもむきは変わらなければならない。しかり、死は廃棄されたことを我々は宣言しなければならない。奇跡がたくさん起きるよう祈るべきである、ということではない。今、キリストの力によって注入されることを受け入れよ、さもなければ、神の御業を過去のものとして取り扱え、ということである。なぜなら、キリストが願っておられるのは、我々の間で実際に復活となり、命となることだからである――事実そうなることを願っておられるのであり、たんなる理解や信条の問題ではない。そうでない限り、我々は死んだままだろう。

死とは何か死んでいるものである、と人々は思っている。しかし、死はバクテリヤのようなものである。生きていて、どこにでも繁殖のための土壌を見いだす。死は体を殺すだけではない。しばしば、そのずっと前に、霊と魂を殺す。それゆえ、我々はさらに強烈な熱で満たされ、自然界のバクテリヤを殺せる以上の炎で燃え上がらなければならない。天に属するものと、この世に属するものとを区別する時、我々はこの熱とこの光を手に入れることができる。イエスの命がこれを可能にする。それ以外の何ものも重要ではない。これは「死んだ」人々を世話する問題ではなく、新しい人々にする問題なのである

ナインでイエスは介入して、死者をよみがえらせた。それゆえ、死に出くわしても、我々は永遠の悲しみにひたる必要はない。我々は泣くかもしれない。イエスが友であるラザロの死を聞いて泣かれたように。しかし、我々はイエスの勝利をもっぱら思うべきである。この世を去った者が死からよみがえるにせよ、よみがえらないにせよ、イエスは死が最終的に勝利することを許されない。それゆえ、我々は泣くのをやめなければならない。もしあなたがイエスを知らないなら、泣くがいい。しかしイエスがあなたにとって親しい御方なら、信じよ。そして、死から自分を解放せよ。死が何か別の方法――別の種類の欠乏や病――で働いているのにあなたが出くわすとき、イエスが願っておられるのは、あなたのすぐそばにいて、あなたが不幸の中でご自身の命に出会うことである。不幸によってイエスから引き離されてはならない。

あらゆる種類の自然災害も起きる。これは被造物を握っている、ある種の活動的滅びである。我々はどうするべきか?恐れるべきか?否、私は言う、「静まれ!」と。征服者なる御方は、破壊する力が勝利することを許されない。我々は故人の棺にしがみつく必要はない。あなたの心から死を除き去れ。イエスはあなたの心の中に住むことを欲しておられ、我々を悲しみにふけらせはしないのである。イエスは命の種を成長させてくださる。多くの人はこの命の種のそばに死を置いているが、そのような真似をしてその成長を危険にさらさないようにしようではないか。

それゆえ、私は尋ねる、「どうしてこんなにも嘆き悲しむのか?」と。闇夜のように暗く、葬列が近づいている。しかし、勝利者なる御方はどこにおられるのか?泣く時、我々は泥沼にはまってしまう。イエスが必要としておられる人々は、彼の御許に来て彼に会い、悲しみの中でもこう言える人である、「静まれ!イエスは生きておられます。イエスはこの悲しみ許されません。いかなる病であれ、私たちはそのなすがままではありません。死とその悲惨さが私たちに臨もうとしても、もはや臨めないのです」。なぜなら、死が臨む時でも、光はなおも射し込めるからである。イエスが生きておられる証拠には事欠かないのである。

てんかん患者、盲人、足なえ、耳の聞こえない人、いわゆる不治の病にかかっている人々の間で、私が経験したのはこれだった。私はいつも彼らに言う、「このような状態でも喜びなさい。あなたのなすべきことは、今、キリストの復活からの何かを、あなたの苦難の中に、不治の病の領域の中にもたらすことなのです」。キリストの命からの何かをもたらしなさい。あなたの状況の中で、忠実な働き人になりなさい。そうするなら、キリストの勝利が拡張され、「盲人は見えるようになり、足なえは歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえるようになっています。死者はよみがえり、貧しい人には福音が宣べ伝えられています」というキリストの御言葉の正しさをあなたは経験するだろう。

かつて私は一人の仏教徒に出会った。そして、今の世で人が経験する苦悩や苦難について、彼と長々と議論した。悲しいことに、私は彼を説得できなかった。彼は心底諦めきっており、もはや地上に生きていたくないと感じていたのである。彼が求めていたのは、苦難によって諦観に達することだった。命に満ちることよりも、むしろ無我の境地に沈むことを彼は願っていたのである。

さて、我々クリスチャンの間にも、これと同じ人が何人いるだろう?どれほど多くの人が我々に、「ああ、死んでしまいたい!もう生きる苦しみには耐えられない!」と実際に言ったことだろう?これはイエスとどう関係しているのか?イエスが死んだ群衆の所にやって来られたのは、絶望ではなく命が支配するようになるためだった。まさにこの地上に、死の領域の中でも、生ける一団の存在は可能である。時間の中でも、永遠においても、イエスは我々と共に生きておられる。イエスにとっては、どちらも違いはない。誕生の時、彼と共に命があった。彼のあらゆる行いには命があった。彼が死なれる時、命があった。そして、人生の不幸の中にも、命がある――盲人、耳の聞こえない人、死にかけている人、貧しい人、すべての人、罪人や義人のために、命があるのである。

我々が仕えているキリストは、今や命の主である(ヨハネ一四・六)。不幸のさなか我々は知る、死を滅ぼす生ける何かが依然として働いていることを。なぜなら、イエスは長子であり、死から生まれた人々、自分の状況を命に転じてもらうために新たに生まれることを願う人々の長子だからである。イエスは死から、死者の間から復活して新しい人となられた。この御方は我々から去らず、我々が今のままでいることを許されない。感覚を超越して、地的存在の思念を超越して、何とか生きている人もいる。そういう人にはそうさせよ。イエスは違った。イエスは来たるべき世界、超自然的世界、彼岸の世に生まれたのではなく、我々の経験の世界にお生まれになった。そして、イエスは我々の死の状態から復活された。それは、我々もまた、命に満ちた生ける民として、この世に生まれることができるようになるためだったのである。

イエスは我々の世界に生きておられる。この御方を、我々は自分の知性や理解力により、見ることができ、感じることができ、握ることができる。我々の王は現実逃避主義者ではないし、選ばれた少数の人々を救い出して、神なき人類から分離しようとしておられるのでもない。然り、彼は不幸な人類から離れているよりは、むしろ、罪人の中の罪人、遊女や悪人、大食漢の酔っぱらいと呼ばれることを望まれるだろう。「死者の間から最初に生まれた方」という御言葉は、イエスが死者に訴えておられることを意味する。「喜びなさい、あなたたち死せる者よ!イエスはあなたたちの間からお生まれになったのです!」。あなたたち、死せる者よ、イエスはあなたのものである。「自分は無価値な人間で、自分の人生には何の価値もない」と感じている人々よ、あなたたちは今や、「私の人生には何か価値があるにちがいありません。死者の中から最初に生まれた方が、私の人生の中に来てくださったからです」と言えるのである。しかり、死者の世界の中から、新しい命がこの地上に生まれたのである。それゆえ、この誕生を、この重大な誕生を喜ぼうではないか。

しかし、キリストが死に下られたことを知っているにもかかわらず、死の実際の苦痛を忍ぶべき時になると嘆き悲しむ人が我々の中に何人いるだろう?人々は言う、「その通りですが、イエスは我々とは全く別の御方だったのです。もちろん、イエスは死から復活されました――彼は義だったからです。しかし、私は何者でしょう?私は惨めで哀れな者なのです」。自分がこんなにもひどい罪人なので、我々は絶望してしまうのである。

私に言えるのは、「私たちはみな死の道を行かなければならない」ということだけである。それゆえ、死ぬがよい。キリストの死に身を委ねよ。たとえ、あらゆる艱難や不安や欠乏により、あなたの内にある何かが永遠に粉々になってしまったかのように思われる時でも。粉々になるなら、粉々にならせよ。しかし、恐れてはならない。たとえ、霊の中で苦しまなければならず、自分は結局のところそれほど強い人ではなかったことを自覚しなければならなかったとしても。キリストはあなたの弱さを満たすことができる。それゆえ、見かけは健康な体を持っていてもこの世の中に失われている多くの高ぶった人々よりも、あなたは、たとえ日毎に死につつあったとしても、遥かに生き生きとしていられるのである。あなたの肉体の力がどれほど弱まったとしても、あなたは強くあれる。あなたはイエスのように墓から出て来るだろう。

これは、我々はもはやいかなる困難にも遭わない、ということではない。キリストが来られたのは、我々の問題をすべて取り除くためではない。キリストはご自身の願いを行われる。それゆえ、癒しのための何らかの方式を設けて、その方式にしたがってキリストは働いてくださると期待してはならない。真の信仰の人なら、ヨブのように「投獄」されても大丈夫である。神はサタンに死の寸前までヨブを苦しめることを許された。我々もまた、イエスに対する愛のゆえに、これを受け入れる覚悟をするべきではないだろうか?信仰によって艱難を忍べない人はみな、キリストの軍隊の真の戦士ではない。真の戦士とは、イエスから何かを負わされる時でも泣き言を言わない者たちである。

困難を自分からはねのけようとする者は誰でも、戦いの役に立たない。たとえ地上でひどく苦しい生活を送っており、あらゆる種類の苦しみに遭っていたとしても、その霊は天にある人々が必要なのである。神は我々を苦しめたいわけではない。むしろ、死に対する戦いの中で、我々を戦士として用いることを願っておられるのである。艱難に遭わなければならない時、病にかかる時、目の前で死を凝視しなければならない時、忠実であり続けるなら、我々は征服することができる。

別の極めてぶっきらぼうな言い方をすると、もし喜んで病にかかる人がいなければ、どうして我々は病に対して戦えよう?歩けなくなること、目が見えなくなること、耳が聞こえなくなることを恐れて、「ああ、私は歩くこと、見ること、聞くことが好きなのです」と考えてばかりいるなら、自分の健康が望み通りではないからといって呻いてばかりいるなら、我々は神の役に立たない。もしあなたが病にかかっていて、その病が不治のもののように思われても、堅く立って、熟考し、思い出すがよい。最初であり最後である御方、死んで生き返った御方があなたと共におられることを。喜べ!投獄の「十日間」を活用せよ(黙示録二・一〇)。そして、イエスに対する信仰によって呼ばわれ。あなたが獄中にある時、イエスはあなたの傍らに立ってくださる。もしそうできれば、あなたは獄中でも、健康に通りを歩いている人々よりも、ずっと幸いだろう。

悲しいことに、イエスは死に打ち勝つことを信じている人はほとんどいない。さらに悲しいことに、敵のために嘆き悲しむ人もほとんどいない。我々はあまりにも自分の痛みに構ってばかりである。しかし、我々には各々、大切にしていない人、ある種の敵意を抱いている人がいる。憎しみの精神が我々の内に隠れている。これを認めようではないか。もしこの隠れた憎しみを心の中から取り除くことに失敗するなら、我々は死によって打ち負かされるだろう。我々が憎しみ、妬み、言い争い、党派心の中にある時、我々は人殺しなのである。こうしたものに打ち勝たない限り、我々は死に対するキリストの勝利を知ることはない。

好きなだけ宗教的になるがよい。神の愛が我々の憎しみを追い払わなければ、我々はキリストの死と復活の成果を経験することはない。また、キリストが我々と共におられなければ、我々は家畜小屋の戸の所にいる雄牛のように、変わることはないし、理解力を持つこともないだろう。それゆえ、死から立ち上がろうではないか――すなわち、憎しみ、妬み、言い争いから立ち上がろうではないか――そうするなら、万人に対する御父の愛をもって、キリストは我々を解放することができる。この愛は被造物に満ちて、真の慰めをもたらすことができる。この愛によって心を満たされていない所には、死と絶望がとどまる。それゆえ、この愛によって完全に心を満たされようではないか。そうするなら、死はもはやなくなるだろう。