はたしてこれから何かが変わるのか、変わることを願っている人は本当にいるのかと、いぶかるのも当然である。人にできることは何でも試みられてきたが、どれもひどく無力に思われる。価値観や道徳を変えようといくら試みても、何の効果もないように思われる。我々の文明や技術をもってしても――私は文明や技術を過小評価しようとは思わないのだが――全体的に言って、人間の性質はますますひねくれて歪んだものになりつつある。
しかし、我々は人の理想の上に望みを置いたことはない。我々の望みは、神の力によって生きている方が今おられるという事実にある(ヘブル十・十二)。確かに、地上のものは依然としてすべて弱さの中にある。イエスもまた、人間生活のあらゆる制約を受けなければならなかった。しかし、イエスはもはやこうした人間的制約の中に埋もれてはおられない。イエスは健康な完全体としてよみがえり、命に満ち、命を与える力を持っておられる。
キリストの復活はたんなる過去の出来事ではない。キリストが死んで復活されたように、今日も当時と同じく復活はある。我々が全く別の体制の中に移れば移るほど、我々はますます実際に新しくされるのである。
多くのクリスチャンはもっぱら来世の生活について心配しているようである。神は永遠に天におられる、という幻想の下に彼らはいる。地球と呼ばれるこの小さな球体の上で暮らしている間、苦難の痛みを耐え忍ぶ定めにある、と彼らは考えている。地上での生活の後、我々は刑罰を受けるか祝福を受けるかのいずれかであり、それは我々の宗教的信仰による、というのである。これは世々の時代にわたってそうであり続ける――そして我々はこれをそのままにしておくことに満足しているのである。
しかし、これは不信仰にほかならない。もし我々の望んでいることが、来世で自由になるためにこの世から出て行くことだけなら、我々は罪と死に貢ぎ物を送っていることになるのである。もし我々が神の来るべき統治という喜ばしい希望を拒絶するなら、物事を現状のまま放置して、この地上における自分の運命に身を委ねるなら、我々は聖書を大いに見下していることにもなるのである。なぜならそれは、「自分たちの宗教生活が行き詰まっているので、神もまた行き詰まっていて、地上で御旨を行えない」と考えることだからである。
私に答えてほしい、死んで天に行くことと、将来神がこの地上を統治されること――この二つのうち聖書の中心的メッセージにより近いのはどちらか?聖書はその最初から最後の章に至るまで、この世界への神の到来について述べている。死ぬというこの仕事についてはほとんど述べていない。聖書の一つ一つの御言葉が確証しているのは、私が立っているまさにこの地上における神の御業である。この下界にイエスは現れてくださった。不可視の上なる世界でも、神の御座の周りでもない。この地上でイエスは勝利を勝ち取られたのであり、まさにこの地上に我々はイエスを見いだすことができる。我々はこの地上における自分たちの権利――この地上で罪と死に勝利する権利――を主張するべきである。これは我々の信仰によるものではなく、物事を正してくださる神の御力のおかげである。
これがキリストの凱旋行進の目的である。ひとたび永遠とこの世界とを隔てる障壁が再び砕かれるなら、欠乏や不幸は最終的に征服されるだろう。突破口は下から上に向かってではなく、上から下に向かって開かれなければならない。今日、諸々の宗教はこの逆を考えている。我々の願いは、この世界から出て行き、鳩のように空に飛び去って救われることである。我々はみな、天に何があるのかちっとも知らないのに、天に行くことを願っている。言い換えると、我々は状況を変えることではなく、それからおさらばすることを欲しているのである。たとえそうだったとしても、「彼岸」に着く時、我々は自分の目を疑うだろう。乱暴に聞こえるかもしれないが、言わなければならない。人々が天や自分たちの救いについておしゃべりばかりしているのに、私は我慢できない。彼らは最も自己中心的な輩である。連中が神のことを思うのは自分のためだけである。これは全く馬鹿げている――最悪の嘘っぱちである。
哀れなことに、恵みの意味は罪の赦しだけになってしまった。しかし、神の恵みは御力の啓示であり、御業によって現された我々を愛する神の優しさの啓示である。恵みを経験することは、イエスが今も生きておられることを自分自身の生活で見ることである。これにまさる喜びや満足はない。救い主が私やあなたによって、この人やあの人のために何かを行われる時、それは我々が見たり経験したりできる最も素晴らしいことである。人々の魂が生き返って変わるのを我々が経験する時、人々の心が変わる時、それはイエスは生きていて戦いに勝利されたことを意味するのである。
それゆえ、我々の責務はこの復活の力を示すことである。人には多くの力がある。ここかしこに何か美しいものや、比較的良いものが見つかる。しかしそれらはみな役に立たず、悪を征服する力もない。我々はさらに高い命、この世のものではないさらに強力な力に目を向けなければならない。この力は遥か遠くにあるのではない。なぜなら、キリストは生きておられるからである。キリストは天だけでなく地をも気遣っておられる。さもなければ、我々はキリストの実在を決して知ることができなかっただろう。キリストの復活は過去のものとなり、現実のものではなかっただろう。そして、状況が変わることなど思いもよらなかっただろう。せいぜい、「キリストの復活の命は何か霊的なものであって、人には理解できない」と考えるのが関の山だっただろう。しかし、現実はそうではない。キリストの勝利は我々の手の届く所にあるのである。
新たな数々の可能性を、我々は理解できるようになる。こうした新たな可能性を自分の体や魂に感じるようになればなるほど、我々はますます多くのことを求められるようになる。この地上でますます高く偉大なことを期待できるようになる。実際のところ、限界はないのである。この理由により、我々はあらゆるものの中に、まさに自分自身の日々の生活の中に、希望をもたらすことができる。神から来る力の準備は整っており、人の状況の中に流れ込んでそれを一変させようと待ち構えているのである。
それゆえ、この世界の諸々の悪や不完全さに注目してはならない。「この問題やあの問題はどうなるのか?」と解明しようとしてはならない。通常の手段で高い目標を成就しようとしても、たとえ並外れた愛の働きという手段を用いたとしても、我々は神の王国のために何も成就できない。だれかを助けたい時は必ず、キリストを自分の力としなければならない。「人の方法や手段で成し遂げなければならない」と思っている人々は間違っている(二コリント十・三~四)。もしそのような方法で我々の状況に迫ろうとするなら、我々は打ち負かされるだろう。もし神の王国が我々の行いや我々の達成にかかっているなら、神の王国は遥か遠くのままだろう。「神の王国は自分の力にかかっている」と考えるなら、実に、神が我々を通して行われる御業を我々は駄目にしてしまうかもしれない。キリストが勝利者であるからには、我々の幸福は神が御力を行使されることによるのであり、我々が自分の力を行使することにはよらないのである(詩篇九二・四)。
次に、我々の贖いは、我々には不可能な数々の働きから成っている。それゆえ、これは我々が回心することを願うかどうかの問題ではない。第一の最も重要な問題は、神が我々を寄せ集めてくださることである。我々が息を引き取って神の御前に立つ時、神が我々のためにどれほど多くのことを行ってくださったのか、神が我々を救うためにどれほど御力を行使してくださったのか、しかも我々の意志にもかかわらずそうしてくださったことを知って、我々は驚くだろう。
だれでも真にキリストにある人は、神の様々な御力を豊かに経験し、神の御力の感覚で満たされるため、神の御力によって生きることが自然なことになる。実に、こうした命の力が我々に臨みうるのである。この力は他の人々の思いもよらないものである。これがキリストと共によみがえって、キリストの勝利によって前進することの意味である。