六.イエスは我々を戦いに召す

クリストフ・ブルームハルト

我々の全生涯は「キリストは私たちを解放してくださった」という確信に根ざさなければならない。しかし、これを実際に経験している人はあまりにも少ない。今日、「神は御民を解放してくださる」と意識して生きている人はどこにいるのか?人々がわめき嘆いているのは確かだが、この現実の中に生きている人が誰かいるだろうか?

私が心から言えるのは、私の父はイエスの勝利を意識して生きていた、ということである。しかし、人々がこの「勝利」という言葉を聞いた時――実際のところ、メトリンゲンの気風を決めていたのはこの言葉だった――そして実際に何件も解放が起きて、死からの解放さえも起きた時、凄まじい怒号と反対が生じたのである。「なんと馬鹿げたことか!」と人々は叫んだ。もし中世に生きていたなら、私の父は間違いなく首を刎ねられていただろう。最も敬虔なクリスチャンたちですら父から遠ざかった。そして、父は知恵と忍耐と愛のかぎりを尽くして、声望を取り戻さなければならなかったのである。これはすべて、「私たちの神は解放する神であって、イエスは勝利である!」という父の確信のためだった。

人々がこれに抵抗するのは、自分自身の力を手放すことを拒んでいるからにほかならない。神が救いの神であるからには、我々は自分で自分を解放することはできないのである。我々は自分の信仰に信頼することもできない。事実、我々の信仰は、たとえどれほど信じていたとしても、重要ではない。ただ神だけが重要なのである。なぜなら、ただ神だけが我々を助け、顧み、イスラエルをエジプトから連れ出されたように我々を束縛の家から連れ出してくださることを示されたからである。我々の存在はこの唯一の神に全く由来しており、この御方に明け渡す人はだれでも、この御方には解放する力があることを発見するのである。

しかし、誰がこれを信じているのか?医学や何か新しい技術で新たな進歩があると、ほとんどの人は興奮する。しかし、神がなせることに心を向ける人は誰かいるのか?これが現状である。我々がほとんど何も達成できないのはこのためであり、神とその王国のために真に前進できずにいるのもこのためである。

父がメトリンゲンで戦った霊的戦いを覚えている人なら、キリストの勝利をもたらしたのは単純な信仰だったことを知っているだろう。単純な信仰とは、ある有名人が述べたように、愚直な信仰である(一コリント一・十八~三一)。「状況は後退しつつある」と我々が信じていた時ですら、神はこの信仰を守ってくださった。子供のような信仰が勝利したのであり、今日に至るまで依然として勝利を収めている。自分を欺かないようにしようではないか。我々がキリストの勝利の豊かさを経験しそこなっているのは、神に信頼することを拒んでいるからなのである。我々は「不可能なことは何もない」と信じる子供のようにならなければならない。

敬虔な生涯、教会通いの生涯を送ってきた人々が、死の床で確信なく動揺する様子に私はこれまで何度も出くわしてきたが、そのたびに私の胸は痛んだ。福音がありきたりの宗教的形式にすぎなくなって、我々の慰めのために用いられるようになる時、悪の勢力は猛り狂い続けるのである。「キリスト教的な見解や実行をなんとなく受け入れるだけで、この堕落した世は消え去り、数々の罪も赦される」とあなたは信じているのか?悪を正門から放り出してみよ――それは裏門から再びすぐに入り込むだろう!

尊いものがすべて危機に瀕している時代に我々は生きている。我々の「キリスト教」特別集会、宣教活動にもかかわらず、この世の国々や町々は良くなるどころかますます悪くなりつつある。今日、国内外でどれほど多くの宣教活動がなされていることか!これほど遠くまで広範に福音が宣べ伝えられたことはかつてなかったし、これほど成果の上がらないこともかつてなかった。人々が徐々に後退していき、ここかしこで少しずついなくなっていく様を見るのは衝撃的である――その人々はほんの数年前は「まじめな信者」だったにもかかわらず、クリスチャンの因習的儀礼によって疎遠になってしまったのである。このようなことから救いたまえ!もはや何ものも不信仰と呼んではならないとは、なんと空恐ろしいことか!こうしたことの背景にあるのは、他のものへのこだわりにほかならない。実際のところ、キリストとその御旨に対する感覚が欠如しているのである。そしてその結果、我々の「キリスト教」の大部分は空しいおしゃべりにすぎなくなってしまった。しかし、このままではいけない。我々の生活は永遠の命によって統治されなければならないのである。

我々には是が非でも単純な心が必要である。単純な心こそがこの世にイエスの力を解き放つのである。この世は千もの苦しみの下であえぎうめいているのに、我々は決定的解決策もなくここに立ち尽くしている。戦争になると、戦争に勝利するために、いざこざをやめて、自分の命を危険にさらさなければならない。霊的戦いを戦うのも、これと違いはない。一つの願いをかんがみて、他のものはみな後回しにしなければならない。単純な心でこの地上の地獄の中に降りて行き、敵の領土を占領しなければならない。繰り返し言うが、地獄の底へ降りて行かなければならないのである。そこには永遠の不幸、永遠の欠乏が存在していて、各人の心にまとわりつき、罪を犯させ、堕落させようとしている。ここで我々は戦うことができるのである。

メトリンゲンで新たな開始がなされた。我々は「イエスは勝利者である!」という叫びと共にこれに加わった。歴史を通して至るところで、いくつもの新しい開始がなされてきた。今日、単純な信仰により――自己愛によってではなく、個人の安寧を求める自己満足の道によってでもなく――我々も死と地獄の勢力に立ち向かって、「イエスは勝利者である!」と叫ぶことができる。しかし、我々には幼子のような心が必要である(マタイ十八・三)。これを分析する必要はない。ただこれだけは確かである。我々の拠り所である土台が脅かされており、我々の世界は我々の自己中心的な欲望につけこむ支配者たちや権力者たちの手中にある。それゆえ、我々は地獄に向かって「イエスは勝利者である!」と叫ばなければならない。なぜなら、地獄の門は教会に勝てないからである。

もし我々が自分から進んで信仰をもってどん底に下って行くなら、神は我々を守ってくださるだろう。しかし、我々は自分から進んで戦わなければならない。もしそうするなら、たとえ最悪の状況を通ったとしても、キリストが我々を守ってくださるだろう。なぜなら、最悪の出来事の中でキリストの勝利が啓示されるからである。しかし、ここでもまた、我々は幼子のように信じなければならない。仰々しい敬虔さやものものしい霊性によって、何かを成し遂げようとしてはならない。イエスがなさっていることにだけ目を向けよ。明日起きるかもしれない出来事について、考えることすらしてはならない。賢明に振る舞おうとしてはならない。また、あまり分析しすぎてはいけないし、すべてを円滑に進めようとしてもいけない。我々が弱い時だけ、我々は強くしてもらえるのである(二コリント十二・七~十)。

確かに、たとえ弱くても、我々にはなすべきことがある。神の子供たちは何事かを成し遂げなければならない。山が移るかどうかは、我々によらない。もし何もせず山の前に立っているだけなら、山は移らないだろう。自分の前に障害物が見える時、悪という山の前に立つ時、キリストの従者たる我らは言わなければならない、「この山はどかなければなりません!この山がここにとどまるのを許しません」と。そうするなら、山は移るだろう。それでも、我々は人の力でこの世の悪を取り除こうとしてはならない。我々のなすべきことは、神はご自身の義を妨げるものをすべて取り除かれる、と信じることである。信仰の意味は、この山々に関して何かを行うことだが、その何かとは、神がこの山々を取り除いてくださる、と信頼することなのである。

信仰は、「自分は救われた」という宗教的感覚に耽ることとはほとんど関係ないし、何かしらの理想的世界観を擁護することとも関係ない。もし関係していたなら、我々はずっと失われたままだっただろう。また、イエスが我々の生活に介入されるのを見ることも決してなかっただろう。イエスは我々の邪悪な心や生半可な信仰、呑気な性格、内側から常に湧き起こる貪欲な欲望から、我々を救ってくださっていなかっただろう。

確かに、物事が改まるには、時には何年も待たなければならない。我々は誘惑に駆られそうになる。妥協して、「これはどうしようもありません。これが人の性質なのです」と言いそうになったり、自分自身の力で無理強いしそうになる。我々には何も変えられない。イエスだけが我々を救うことができる。イエスは理論上救うだけでなく、実際に、はっきりと、まさに今ここで救うことができる。確かに、我々を妨げる障害すべてに打ち勝つことは我々にはできない。我々の善い意図ですら、これを信仰と誤解する人もいるが、我々の助けにならない。クリスチャンの諸々の所感はさておき、キリストの力を経験しないかぎり、我々は以前同様贖われないままだろう。自分の力ではなくキリストの力が現れるよう、我々は戦うのである。

これによって我々はへりくだらなければならない。しかし、「自分たちに必要なのは、思考方法を変えて、もっとクリスチャンらしい態度を取ることだけです」と考える人もいるだろう。まるで、イエスの「宴会」に加わる以上のことは求められていないかのようである。しかし、そうではない。例えば、ある嘘つきが福音に捕らえられて、光が彼を照らし、何か劇的な変化が生じたとしよう。今、彼の嘘はどうなるのか?信じているからといって、嘘を全く見過ごすのか?否、征服者なる御方は嘘の背後に隠れているもの――その人を縛っている地獄の力――を暴き出して征服されるのである。この力が退けられなければ、それは勝利でも贖いでもないのではないだろうか?

贖いが我々の生活に浸透しないかぎり、たとえ我々が自分をクリスチャンと称していたとしても、我々は王国に対する妨げなのである。罪の束縛、死の束縛、地獄の束縛は断ち切られなければならない。何か全く新しいことが我々に起きなければならない。何かが本当に神から到来して、我々の生活を新しい方向に転換させなければならない。これが信仰である。要するに、小さな事にせよ大きな事にせよ、我々はイエスと共に戦う者にならなければならないのである。その時、我々は永遠の希望の確かさを知るだろう。

それゆえ、心配するのではなく、戦わなければならない。たとえ多くのことで苦しみ、耐え忍ばなければならなくても、我々は確信していることができる。なぜなら、死の中にさえ命は到来するからである。助けを求めて叫ぶ者は皆、暗闇の支配から救出されるだろう。我々のなすべきことはただ、自分自身を犠牲にして忠実であり続けることである。自分自身の願望に仕えて安楽な生活を求める代わりに、我々は物質的所有や霊的所有をすべて彼に明け渡して戦わなければならない。イエスが全世界を支配しておられるので、我々はこれを証ししなければならないのである。