七.イエスは万物の主であり救い主である

クリストフ・ブルームハルト

コロサイ人への手紙でパウロはこう記した。

キリストは見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方です。なぜなら万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も支配も権威も、みな彼によって彼のために造られたからです。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っています。そして彼は、そのからだなる教会のかしらです。彼は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です。それは、彼がすべてのことにおいて第一の者となるためです。なぜなら神は、御旨によって、彼のうちにすべての豊満を宿らせ、そして、十字架上で流されたその血によって平和をつくり、万物、すなわち天にあるものも地にあるものも、ことごとくご自身と和解させてくださったからです。(コロサイ一・一五~二〇)

この御言葉からキリストの偉大さが感じられる。キリストは万物よりも先にあり、万物は彼を通して造られた。万物は彼のために創造されたのである。イエス、この主、この人、この神のかたちを通して、神は自ら天と地をご覧になり、ことごとく和解させてくださるのである。

それゆえ、これがイエスである――天と地の人である!完全なこの人を、そして究極的には完全な人類を、我々は見ることを許されるだろう。どれほど堕落していても、人類には依然として命の火花があり、これを用いて彼はご自身の新創造を光で照らされるのである。そしてパウロが記しているように、神は我々を資格づけて、相続者としてこの光の王国にあずかるようにしてくださった。そして、我々を暗闇の支配から救い出して、愛する御子の王国の中に置いてくださったのである。

落ち着いて、このイエスはどなたなのか、そして彼を通して何が起きるのかを考えるなら、我々は感謝せずにはいられないだろう。すべては神のものであり、すべてイエスのようにならなければならない。イエスは今も昔もおられる。全生活は我々の王の生活のようにならなければならない。

神の御子の支配を経験する時だけ――「あなたは私のものです」という神のささやきを聞く時だけ――人生の諸々の謎が解かれる。これが起きない限り、すべては霧の中である。なぜなら、暗闇を構成するのは無知だからである。自分が何者か知らないこと、自分自身や、天と地や、見たり感じたりするすべてのものや、内なる自己が感じるものと折り合いをつける術を知らないことが、暗闇を構成しているのである。

ゲーテは死の床で「光を!光を!」と叫んだ。彼は夜が迫ってくるのを感じたのである。夜になると、我々はもはや何も見ることはできない。死を前にした人も、まさにこれと同じである。何も見えないのである。幾百万もの人々には天も地も見えていない。動物のように生きていて、人生の真の意義について少しも考えない。人間生活と他の被造物との関係について何の感覚もない。このような問題にただただ当惑するだけである。膨大な科学知識があっても、人生は謎のままである。人々は嫌になるほど人生問題を研究している。「この世界は何か?命とは一体何か?私たちは何者か?起源は何か?最終的にどうなるのか?」。答えを求めて探求しても無益に思われる。すべては謎に包まれているのである。

今日、我々は人が達しうる高嶺におそらく達している。また、人々はせわしなくますます多くのものを求めてもがいている。にもかかわらず、我々は人生最高の目標に達せずにいる。仕事のおかげで人々はこの煩わしい人生問題からしばし解放されている。新たな発明のおかげで、人々はある程度幸せを得ている。しかし、我々は認めなければならない。正直な人なら、こうしたものは我々を光に導かなかったし、完成にも至らせなかったことを認めるだろう。今日、我々は様々なものを持っており、行ってもいるが、それが一体何だというのか?今世紀我々が得たものといえば、生活上の実際的な便宜にすぎない。しかし、そうしたものは実際のところ我々に役立ったのか?我々は依然として不平を鳴らしており、依然として満足していないのである。内側では、辛く、空しく感じているのである。たとえありとあらゆる富や快楽を与えられたとしても、我々は重荷を負った惨めな状態にあり、さらにまさったものに憧れを抱いているのである。

しかしながら、満足がないというこの事実は、ぼんやりとではあるものの、我々がキリストの勝利を何かしら感じていることの確かな徴である。人々はもっと別のものを求めている。それが何かはわからないが、何かが欠けていることを感じている。これは、イエスを創造主として経験する時だけ、平安でいられるからである。自分が実際に神の子供であることを覚える時だけ、平安でいられるのである。なぜなら、キリストは被造物の中心だからである。キリストは生きて動くすべてのものと一つである。「自分は世にあって離ればなれであり、天や地や神の命から切り離されている」と感じている限り――このような意識がある限り――我々は不幸であり続けるのである。

なぜ我々はこの世に示すことができないのか。この世はさらに優ったものを大声で求めており、不満足の真の理由と生きる真の目的とを求めている。人々は「もっと金が必要だ」と思っているが、そうではない。また、人々は「自尊心が必要だ」と思っているが、そうでもない。あまりにも多くの人は、環境によって人生を支配されている。だから、永続する幸福を見いだせないのである。人々に欠けているのは神を知る知識である。神は人を運命から解放できる――人生を支配している日々の出来事から解放できるのである。

しかし、我々の運命は来るべき王であるキリストと共に支配することである。我々がこの地上にいるのは神の御旨のためである。宿命論や禁欲主義は我々を幸せにできない。また、我々は苦しみに遭う時、ある種の超然とした喜びに浸ることもできない。人生の諸々の苦しみに慣れようとしてもできない。我々が造られたのは悲しみのためではなく、喜びのためである。苦しみは必ず終わるからこそ、我々は人生の痛みを乗り越えて立つことができる。キリストが万物を保っておられるので、我々は何でも耐えることができる。キリストの勝利が輝き渡っている所では、いかなる争いや誘惑にも耐えられるのである。

良いことであれ悪いことであれ、出来事には必ずキリストの痕跡が含まれている。諦める必要はないし、心配する必要もない。我々は常に「状況は変わる」という希望を持つことができる。たとえ死や地獄をくぐり抜けなければならなくても、そのような状況はやがて変わるのである。なぜなら、人生の目的はキリストだからである。「見よ、万物は変わるであろう。私は万物を新しくする!」(黙示録二一・五)。神は天と地を再創造することを約束しておられる――全世界を救い主の光の中に移すことを約束しておられる。これが我々の心の底からの願いである。偉大なことに、キリストはこの宇宙を和解させてくださるのである。キリストは万物の支配者であり、天からのこの光が全宇宙を満たすだろう。

このように、二つの世界があるわけではない。一つの世界は神の御手の中にあるが、もう一方の世界はそうではない、ということはないのである。また、二種類の人々がいるわけでもない。一方の人々は完全に神の支配下にあるが、他方はまったくその外にある、ということではないのである。悪魔といえども自分の欲することを何でも行えるわけではないし、邪悪な力や支配といえども自分自身で行動できるわけではない。悪しき者が暗闇の中にいることすら、神の御旨なのである。暗闇の中で悪しき者は自分自身の生活を送っている。その生活は、そのような生活に惹かれる者たちに伝染して、致命的な影響を及ぼす。しかし、この罪と死の領域はことごとく神の領土であり、神がしっかりと御手に握っておられるのである。我々は証し人として、これを心に留めようではないか。我々はすべての悪鬼に向かって、悪鬼のすべての城塞に向かって、「お前たちは神の下にある。神の許しがなければ、誰も一歩たりとも動くことはできない。我々はみな神の下にある!」と宣言できるのである。

これを理解しない限り、キリストがこの世に来られた理由は決してわからないだろう。たとえ誰かに出会って、それが悪魔だったとしても、これをわかっているなら、その人は結局は神の使いなのである。天と地と地の下にあるいかなる勢力や支配者も、神の愛がなければ指一本動かせない。「キリストはすべての支配と権威のかしらです」(コロサイ二・一〇)。キリストは生けるすべてのものの主である。たとえ不信仰の潮流が突如としてこの世を捕らえ、神に完全に反逆し、その流れがいかに強力でも、それは神の御手の中にある。なぜなら、すでに勝利は勝ち取られているからである。「成就した」。決して悪魔を恐れる必要はない。イエス以外に主はいないからである。たとえどん底の状態でも、ひどく暗い闇夜の中でも、そこから逃れられないことはない。ひとりの主、ひとりの神、ひとりの御父がおられるだけである。御父はすべてのものの父であり、すべてのものの上におられ、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる(エペソ四・六)。自分自身の権利や要求を主張できるものは、他にはいないのである。地獄、死、悪魔は、何も要求できない。万物は神のものである。なぜなら、キリストはすべてであり、すべての内におられるからである(コロサイ三・一一)。

もしキリストと共に苦しむなら、我々はキリストと共に支配するだろう。キリストにすべての権威が与えられている。今日もキリストは苦しんでおられるが、我々は喜び楽しんでいる。なぜなら、苦しむ救い主に自分の命をささげている我々は、将来支配することになるからである。この世がしているように傲慢や恐怖によって支配するのではなく、イエスが支配しておられるように支配するのである。我々は御父の愛によって支配するだろう。我々は言うだろう、「イエスの御名によって、暗闇よ、お前に言う。お前は滅ぼされなければならない。蛇よ、死の君よ、お前は滅びなければならない。お前は我々にとって無に等しいのだ」と。

我々はこう期待しながら生きることができる。なぜなら、すべては神の御手の中にあるからである。ここでもまた、二つの王国があるわけではない。暗闇の王国と神の王国があるわけではないのである。ただ一つの主権があるだけであり、それは神の主権である。この王国の中に罪によって縛られている人がいたとしても、それにもかかわらず、それは一つの王国である。ある家には部屋が二つあるかもしれないが、それは一軒の家であって、二軒ではない。万物は神の統御の下にある。そして神の家の中で、我々はたとえ暗闇、罪、死の中にあっても支配できるのである。弱り果てる必要はないし、もうだめだと思う必要もない。我々は常に前進できるのである。

これをあなたの心にとどめよ。この世の状況について不平を鳴らさないようにせよ。不平を鳴らす者たちは神の勝利のうちに生きていない。不敬虔な者たちや未信者たちを責めることはできない。「人々は不信仰だ」と思うことすらいけない――人々は不信仰なのではなく、苦しめられているのである。人々は自分の目を開けられず、自分の不幸に酔いしれていて、惨めさに満ち、屋根の星が見えないのである。我々の責任は次の真理を証しすることである。すなわち、神は神であって他の何者でもなく、すべての人に希望を与えてくださるのである。

これは、神は罪や悪魔を裁こうとされないとか、裁けないということではない。裁きは最後の時に決まることであり、神の専権事項である、ということである。神がこの裁きを下されるまで、我々のなすべきことはイエスの御名をすべての人に知らせることである。イエスは真に勝利しておられる以上、我々の責任は憐れみをもって生活することであり、万人を贖いの可能性にもたらすことである。誰があなたのもとに来たとしても、またあなたがどこにいたとしても、あなたはその人に言わなければならない、「あなたは救われます。あなたはイエスのものだからです。イエスは神の御旨を示しておられます。神の御旨は、一人も滅びることなく、すべての人が悔い改めて生きることなのです」と。

もちろん、すべての人がこれを理解するわけではないし、理解する必要もない。すべての人がキリスト教に「改宗する」必要があるなどと私は思ってさえいない。幾百万の人々が、いずれ、神の支配に、キリストの主権に完全に移されなければならない。怒号や叫び声を上げてでも、中に入らなければならない。我々も皆、蹴ったり叫んだりしたことがあったのではないか?皆が中に入らなければならない。なぜか?神は我々を御子の王国の中に置いてくださったからである。御子の王国が我々の最終的領地であるからには、我々はイエスのように戦いの中にあるのであり、息を引き取るまで、最後の血の一滴まで戦い続けなければならない。この戦いは新しい天と地の到来のためである。新しい天と地では、地の下の世界ですらキリストの御手の中にもたらされるだろう。

いかなる人、いかなる国、いかなる世界、いかなる状況であれ、もし我々が希望を捨てるなら、イエスは世界を保っておられる方ではないことになってしまう。依然として、死や苦しみの重荷、暗夜や暗闇という負担が残ることになってしまう。そうなると、イエスは世の光ではないことになり、万物を立ち返らせる宇宙的十字架は彼の分ではないことになる。イエスは勝利ではなくなる。イエスの復活は、彼が保っておられる万物にとって、永遠の希望以外の何を意味しえようか?

「永遠に失われている幾百万もの人々」という話を私は耳にするが、これがまるで敬虔な会話の真髄であるかのようである。これはなぜか?神に敵対するものはすべてやまなければならず、地獄と死と罪はやまなければならない。また、あらゆる領域は神に属している。もし我々がこれを信じず、神の愛を全地に広めていないなら、イエスは主ではないのである。我々は信仰によって自由に喜ぶことはできないし、信じるよう他の人々を招くこともできない。

人々を相手にした経験から、私はこれを学んだ。私が人々に告げてやると、人々は解放されたのである。「あなたも私と一緒です。あなたも私も神のものですから」と私が告げると、「いや、そんなことはありません。私はひどい人ですから」と人々は言った。「関係ありませんよ、あなたも私と一緒です」。「でも、私がどんな悪いことをしてきたか、あなたはご存じないですよね」。「たとえそうだとしても、あなたは私と一緒であり、私はあなたと一緒です。私たちは二人とも神のものなのですから」。この真理が人々を変えるのである。人々は交わりによって大きな励ましを受けるので、邪悪さや罪深さについてもはや話さなくなるのである。

盗み癖のある人がいて、私のもとにきて癒しを受けようとした。その人は長いあいだ盗みを続けてきた人で、私たちが知り合った後も盗みを続けていた。それにもかかわらず、私はその人に言い続けた。「あなたは私と一緒です。あなたは好きなだけ盗みを働いても構いません。しかし、私はあなたを手放しません」と。すると見よ、しばらくしてその人は盗みを働くのをやめ、まったく別人になったのである。どれほど多くの人――高慢で、強欲で、嫉妬深い、喧嘩好きな人々――が変わるための力を与えられたことか。それというのも、彼らが初めて人の真の連帯感を感じたからにほかならない。自分はイエスのものであることを最終的に人々が理解する時、さらに多くのことがどれほど起きることか。ただしこれは真に理解すればの話であって、空しい宗教的な言葉では駄目である。我々は――我々だけでなく万物も――キリストのものであることを真に自覚するようになる時、罪は完全に溶け去るだろう。

それゆえ、宇宙大の思いを持とうではないか。キリストにとって、天も地も大きすぎることはない。我々は自分の鎖を払い落とし、イエスの宇宙的主権を否定する敬虔ぶった憎悪をすべて放棄しなければならない。裁いたり罪に定めたりすることに自分の力を費やす者は、キリストの軍隊に加われない。我々は最後の血の一滴までささげなければならない。それはイエスの勝利がこの世を支配するためである。地獄の福音、サタンの福音、嘘の福音は踏みにじられなければならない。それは、ついにはイエス、生ける御方が全被造物を贖えるようになるためである。「この世の王国は私たちのキリストの王国になります」(黙示録一一・一五)。

キリストが自由に治めるようになられるまで、我々はさらにどれくらい待たなければならないのか?そしてまた、その時間は神にとってどれくらいなのか?ゼロである。イエスは昨日も今日も同じである。悪はイエスの御名の前に降伏するだろう。死と破壊の勢力は服従し、贖われるだろう。しかり、悪鬼どももまた、たとえそれが何だろうと――欺き、病、死、腐敗、不幸だろうと――虜にされているのである。彼らもまた悲惨さの中にある。それゆえ、キリストの勝利は彼らのためでもあるにちがいない(エペソ四・八)。キリストの贖いによって、暗闇はなくなるだろう。神の栄光の光が被造物を満たすからである――それゆえ、天と地と地の下にあるものはみな、「イエス・キリストは主です」と告白するだろう(ピリピ二・一〇~一一)。この力は邪悪なものを聖なるものとし、失われたものを贖う力である。この力はついには、人ではないあらゆる勢力、神をあざける霊どもを征服し、まさに地獄の底にまで至るだろう。この勝利は我らのものである。神がすべてのすべてとなられるのである。