二.イエスの思いやり

ブルームハルト父子

イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に上ってそこに座られた。すると、大勢の群衆が、足なえ、盲人、不具者、おし、その他多くの人々を連れて来て、イエスの足下に置いたので、彼らを癒された。人々は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚いた。そして、イスラエルの神を賛美した。(マタイ一五・二九~三一)

大勢の群衆がイエスのもとに来て、足なえ、不具者、盲人、おしを連れてきて、イエスの足下に置いた。イエスがおられるという知らせが、急速に広まった。もし私たちの誰かがそこにいて、自分の苦しみから解放してもらえる好機について耳にしたなら――すべてをなげうってイエスのもとに行かない人が誰かいるだろうか?

しかし、病人がイエスのもとに行くのは常に容易だとは限らない。多くの人が他の人々の助けに信頼した。その人々は大いに同情してくれたし、相当努力してくれたにちがいない。それなら、どうして救い主が彼らを受け入れて下さらないことがあるだろう?人々が間違った動機で自分のもとに来たからといって、救い主はあまり同情を示して下さらないということがあるだろう?

同情心のある人が見るのは、他の人々が抱えている必要だけである。決して批判や非難をしない。病人にまず説教したり、病人の内側の状態をまず調べるようなことを、イエスは決してなさらなかった。どんな罪を犯して自分の病を招いたのか、イエスは決して病人に問わなかった。そんなことは乱暴だっただろうし、病人をますます傷つけるだけだっただろう。

それなのに、どうして私たちは、病人が十分に悔いているかどうか、祈る価値があるかどうかを調べて、せっかちに病人を裁こうとするのか?イエスは言われた、「私に来る者を、私は決して退けません」。これが、病気は「変装した祝福である」と思うことが常に誤りである理由である。病と健康――どちらが私たちにとってより有益だろうか?病気は健康よりも良いと、救い主は決して思われなかった。そうでなければ、救い主は病人を癒さなかっただろうし、弟子たちに病人を癒すよう命じられなかっただろう。

然り、苦しまなければならない人もいる理由を、神はご存じである。神が彼らのために最善のものを選んでおられることは確かである。しかし、救い主はご自分のもとに来る一人一人の人を、深い同情をもって歓迎して下さる。そして、たちまち、盲人は見えるようになり、おしは物を言い、足なえは自分の足を十分に使えるようになる。これを覚えておこうではないか。イエスのもとに来た人々、また、イエスのもとに病人や足なえを連れてきた人々はみな、大きな信仰と希望を持っていた。私たちよりも遥かに多く持っていた。そして、イエスは無限の憐れみにより、彼らを全員癒されたのである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト