四.神の光

ブルームハルト父子

イエスは舟に乗って海を渡り、ご自分の町に来られた。すると、人々が中風の者を床の上に寝かせて運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
 すると、ある律法の教師たちが心の中で言った、「この人は冒涜している!」。
 イエスは彼らの思いを見抜いて、「なぜ、あなたたちは心の中で悪いことを考えているのか?『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起き上がって歩け』と言うのと、どちらがたやすいか?しかし、人の子は地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたたちに知ってもらいたい」と言い、中風の者に向かって、「起きよ、あなたの床を取り上げて、家に帰れ」と言われた。すると、その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て畏れに満たされ、これほど大きな権威を人に与えられた神を賛美した。(マタイ九・一~八)

この中風の人の物語は、私たちに自分自身の状況を思い出させるにちがいない。なぜなら、私たちはみな傷ついた民だからである。たとえ体に障害はなくても、私たちの存在はことごとく罪によって傷ついている。腐敗させる堕落した力が私たちの魂をむしばみ、少しずつ私たちの体をむしばむ。この力は、公然と、あるいは秘密裏に働き、私たちがそれに気づいているかどうかは関係ない。私たちの霊は肉的欲求の虜になってしまった。私たちの多くはかろうじて自分の頭を水面の上に出していられるだけである。自分の人生を浪費しているか、あるいは、より高貴な性質のものに対して鈍感になってしまっているのである。神聖な事柄は私たちから遠ざかり、永遠に価値あるものは私たちをよけている。

死と腐敗の力が私たちを打ち倒すまで待つべきではない。この中風の人もそうだった。イエスは来て、私たち一人一人が自分の惨めな状況を悟れるようにして下さった。この悟りによって、癒しが可能になるのである。しかし、次の事実を隠してはならない。私たちは何らかの形で傷ついているのである。私たちはみな、惨めな状態にある。真の助けが到来する時や、助けが近づきつつあるように思われる時、私たちはそこに駆けつけるのだが、この事実からこれは明らかである。どこでも、病人や不具者のための施設が建てられると、人々はそこに群がる。しかし、こうした人の助けは、イエスが持っておられた力と比べると見劣りがする。イエスが人々に触れると、命を与える力が注ぎ出たのである。

そして今、親愛なる人よ、イエスに働いてもらいなさい。あなたの苦しみを通して、光の中に導いてもらいなさい。自分を苦しめているものを隠してはならない。イエスを通して、私たちはいっそう深く洞察できるようになり、「自分の最も深い内なる部分を実際に苦しめているものは何か?」と自問できるようになる。私たちは哀れな、弱い、惨めな人間であり、内面的にも外面的にも、何度も何度も傷ついてきた。そのような者も、キリストを通して、光に立ち返れるのである。

自分の必要を隠して、それを陽気に無視しようとしてはならない。それはたとえ英雄的だったとしても、何の助けももたらさないし、神への賛美を生じさせもしない。むしろ、この中風の人のようになって、真の自分を見せるべきである。強がらないようにしようではないか。その代わりに、自分の惨めさを悟って、それを神の御前で明らかにしようではないか。救い主は、私たちの癒しを可能にするために、私たちの内にある間違いをすべて示すことを願っておられる。その時はじめて、私たちの周りの人々は、この中風の人の周りにいた人々のように、畏れと神への賛美に満たされるのである。

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この中風の人はキリストの御前に来た。私たちも同じようにすることができる。自分自身の足で、自分を御許に引きずって行き、自分で彼に近づくこともできるし、あるいは、自分はそれを実際には望んでいなくても、この愛の奉仕を他の人々が私たちに行って、私たちを彼のもとに連れて行ってくれるかもしれない。救い主が姿を現す時、数百の力が働く。間違いは公になり、神の目に明らかになる。

キリストに見てもらうこと、裁きの目で見てもらうことさえ、何という祝福だろう。この中風の人は主の御前でそうだった。彼は震え、おののいた。しかし、その震えやおののきは、真実なものだった。まるで自分は憐れみの対象でしかなく、正すべきことは何もないかのように、誇らしげに床の上にとどまって、世話をしてもらい、病気で友人たち全員を欺くことと比べたら、その恐れやおののきはよほど真実なものだったのである。

イエスが登場される時、真実が明らかにならなければならない。人の同情を要求してばかりではいけない。結局のところ、私たちは何も隠し通せないのである。キリストは私たちのことをお見通しであり、私たちの内側の最も深い部分を見極められる――依然として隠されていて罪深いものをすべてご覧になるのである。

イエスは決して罪に対して寛大ではない。その正反対である。鋭い言葉を語って、ご自分の打ち場を掃き清められる。籾殻から麦を分け、心の中の感情や思いを裁定される。彼の恵みは私たちの肉的性質を粉砕する。そこには、私たちの恥を隠す覆いの余地はない。神は愛を示して下さるが、それは私たちが救い主の溶かす炎の下に来る時だけである。これを恐れる必要はない。なぜなら、神の正義はすべてを正す正義だからである。

「自分は哀れで惨めな者だ」と感じていたとしても、すべてが失われるわけではない。もし私たちが正直なら、自分にはすがれるものが何もないことを認めるだろう。たとえ正しくて良いものが何かあったとしても、それは依然として純粋ではないことを認めようではないか。私たちに最も必要なのは、最初からやり直すことであり、砕かれた貧しい者としてイエスの裁きの前に行くことである。イエスが私たちの内に完全に住めるようにならない限り、私たちに誇れるものは何もない。それが実現するときはじめて、癒しが可能になるのである。

クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト