七.彼は私たちの苦悩を担われた

ブルームハルト父子

夕方になると、悪鬼に憑かれた大勢の人がイエスのもとに連れて来られた。イエスは一言で霊どもを追い出し、病人をみな癒された。これは預言者イザヤによって語られた、「彼は私たちの患いを引き受け、私たちの病を担われた」という言葉が成就するためであった。(マタイ八・十六~十七)

イエスの時代と今の時代の両方とも、この世の中に存在する欠乏や苦しみの大きさは、どれほど述べたとしても誇張しすぎるおそれはない。救い主はあらゆる種類の病を癒されただけでなく、悪鬼に憑かれた者をも癒された。人々が彼のもとにやって来たが、その人々は抑制のきかない人々や、自分の身内の者たちに途方もない痛みを与えている人々だった。というのは、その人々の内側にいる異質な霊が、彼らを激昂させ、荒れ狂わせ、叫び声を上げさせ、手に負えない者にしていたからである。

当時がこのような状況だったのだから、今日、いわゆる精神病や精神障害がどれほど多く存在しているか考えてみよ。それでも、「その人々は取り憑かれている」とはだれもあえて言わない。しかし、私はイエスの時代を思わずにはいられない。当時、取り憑かれている者が大勢彼のもとに来た。今日、私たちの間には、同じように病んでいる数千の人々がいる。

しかし、人々を抑圧していた霊どもをイエスがどのように支配されたのか、福音書を読むとわかる。彼は御言葉によって霊どもを追い出された。これはみな、マタイがイザヤ書から引用しているように、預言者によって語られた、「彼は私たちの患いを引き受け、私たちの病を担われた」という言葉が成就するためだった。

イザヤ書のこの節は、文字どおりには、「確かに彼は私たちの痛みを引き受け、私たちの苦しみを担われた」(イザヤ五三・四)と述べている。イザヤが語っているのは、病や患いからの解放よりも、罪からの解放である。しかし、意義深いことに、マタイは患いについても述べている。主の僕は私たちの苦悩をすべて担うことを願っておられる、と述べている。イエスは病気や病をすべて取り去り、こうして私たちの患いを担われた。まるでイエスが病人の病気を自分のものにして、癒す力を与えてくださった御父の御前でその病人の代理人になられたかのようである。

私たちが互いにとりなす時はいつでも、同様のことが起きる――私たちはまるで自分自身のために祈っているかのように、他の人々の病を引き受けるのである。神へのとりなしが真実なものになるのは、私たちが互いにとても深い思いやりを持ち、お互いの痛みにあずかる時だけである。つまり、私たちが真の同情を持つ時だけである。

私たちの使命は、あわれみに満ちておられたイエスを示すことである。私たちのなすことはみな、彼の御名の中で、彼の霊によってなされなければならない。「互いに重荷を負いあいなさい。そうすることによって、キリストの律法を満たすことができます」(ガラテヤ六・二)。しかし、私たちは用心しなければならない。私たちが自分自身の力で行うことはみな――とりなしも含めて――なんの価値もないのである。

ああ、イエスが約束して、ご自分の血をもって印を押されたもの――救いのための神の力――を、私たちが完全に得る時が来ますように。神の救いの力は傷をすべて癒し、体の傷をも癒す。彼を求めるすべての人にこれが約束されているのである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト