ある人々が、耳が聞こえなくてほとんど話せない人をイエスのもとに連れてきて、手を置いてやってくださいとお願いした。 そこで、イエスは彼を群衆の中から連れ出して、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきをしてその人の舌にさわり、天を仰いで深い溜め息をつき、その人に「エパタ!(『開かれよ!』を意味する)」と言われた。すると、その人の両耳が開かれ、その舌のもつれも解けて、はっきりと話し始めた。(マルコ七・三二~三五)。
救い主は、私たちのために戦う戦士として、私たちの間に立っておられる。彼は溜め息をついて天の御父を仰ぎ、それから大声で「エパタ!開かれよ!」と呼ばわられる。おそらく、イエスのもとに来たこの人は、御許に来るには気が小さかったのだろう。救い主が自分を連れて行って自分に触れた時、この人はきっと不安だっただろう――イエスがそうされた理由を、実際のところ、理解していなかっただろう。しかし、そのとき突然、「エパタ!」と共に、彼の両耳は開かれ、彼は宣言できたのである、「知らせは本当です。イエスは、罪と苦しみを終わらせることができる主です。私はこれを経験しました。賛美と感謝、神にあれ!」。
愛する人よ、この「エパタ!」が私たちの世界の歴史の結末でなければならない。救い主は今も忙しく働いており、私たちが聞いている福音を行動に移しておられる。しかし、救い主はまた、個人的に、秘密裏に、私たちに近づかなければならない。そして、秘密裏に、御父の御座の前で私たちのために祈らなければならない。そしてついには、この偉大な「エパタ!」が到来して、全世界を揺り動かすのである。
当面の間、すべては隠されている。イエスの勝利が大きければ大きいほど、その勝利は秘密裏になされなければならない。この人が救い主によって連れ出された方法は、人類が全体として救い主によって連れ出される方法の一例である。静かに、しかし深い情熱をもって、イエスは人類を御父の御座の前に連れて行ってくださる。
それゆえ、神の祭司の民である私たちは、病を足下に投げ棄てなければならない。私たちは彼に叫ばなければならない、「親愛なる救い主よ、あなたは主です。こんなにも多くの人々が偽りの神々に従っていることに、私たちは耐えられません。なぜなら、あなただけが主であることを、私たちは知っているからです。ですから、私たちはここにいます。平穏にあなたから去ったりはしません。あなたが来られたのは、私たちを助けるために、天の父の御前で私たちの代表となるためだからです」。このように私たちは彼に懇願しなければならない。これが教会たる私たちの任務である。
おお、あなたたち、親愛なる方たちよ。人々の諸々の罪や苦難が理由で、こんなにも多くのクリスチャンたちがもはや人々を救い主の御許に連れてこなくなっているのを見る時、私はしばしばとても悲しくなる。罪人たちと救い主との間で天の門が閉じるのを許してはならない。苦しむすべての人々のために、病んでいるすべての人々のために、天の門は開いたままでなければならない。もし福音がこのためでなかったとしたら、自分が福音を信じられたかどうか、私にはわからない。
これを私たちの内側に堅く確立しようではないか。そうするなら、この「エパタ!」到来に向けて、私たちは役に立つだろう。十字架につけられて死者の間から復活した方を敬えば敬うほど、終わりの時代、この「エパタ!」はますます大きくなる――最初に神が「光あれ!」と言われた時のように。然り、いつの日か、「エパタ!開かれよ!」を私たちは耳にするのである。
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト