さて、アベルは群れを飼い、カインは土を耕した。日がたって、カインは地の産物を主へのささげ物として持ってきた。アベルもまた、自分の群れのういごの中から肥えたものを、ささげ物として持ってきた。主はアベルとそのささげ物を目にかけられたが、カインとそのささげ物を目にかけられなかった。そこでカインは大いに怒って、顔を伏せた。(創世記四・二~五)
祈る時、私たちは犠牲を払わなければならない。まず、何かを明け渡さなければならない。これがアベルとカインの違いである。自分のささげ物と共に、アベルは自分自身と持ち物すべてを与えた――肥えたものを与えた。しかし、カインは自分のために何かを取っておき、自分のささげ物から何か得られると期待した。この二人の間には大きな違いがあったのである。
私たちはささげ物をする時、利己的に行うこともできるし、真の明け渡しの中で行うこともできる。自分のことだけ考えて祈る人々もいる。彼らは密かに、神からできるだけ多く得たいと願っている。しかし、他の人々は自分のことなど全く考えず、神に自分を所有していただくことだけを願っている。ここにも、大きな、大きな違いがある。
人生が手に負えなくなって、恐れに捕らわれる時もある。カインのように、私たちは身震いし、祈り、神にささげ物をささげる。しかし、私たちがそうするのはただ、自分のために速やかに助けを得て、恐れを取り除いてもらうためなのである。私たちは少しばかりへりくだって、「親愛なる神よ、助けてください!」と叫ぶ。しかし、その後も、私たちは元のままであり、いつものように生活を送る。またもや私たちは自分の家、自分の健康、自分の金や持ち物を自分のものにして、自分で自分の幸福に配慮できるようになる。おそらく、依然として、時々は祈ったり、感謝をささげたりするだろう。「神は親切です。神がおられなければ、事は私にとって都合良く運ばなかったでしょう」。しかし、その間ずっと、私たちは自己中心性に満たされているのである。
私たちが祈る時、何をささげるのか、何を犠牲にするのかは、あまり重要ではない。旧約聖書の中の人々は、小さな鳩や雄牛をささげることができたが、同じことだった。神にとって、自分のもとにもたらされるものが多いか少ないかは、重要ではなかった。重要なのは、それが利己的にささげられたのか、それとも喜んでささげられたのか、であった。そして、今日もなお、利己的に祈るのか、それとも真の明け渡しの中で祈るのかが、重要なのである。
注意しようではないか。私たちの祈りやささげ物が利己的な動機からのみ発している場合、神はそのような祈りやささげ物をお望みにはならない。もし私たちが地上で神のために、そして神の王国のために燃えないなら、私たちの宗教は劣化したしっくいのようなものである――それはまたもや倒れるであろう。自分のささやかなあらゆる苦しみのために祈っても役に立たないし、神に対して何の効果もない。そのような祈りは真の祈りを殺す。アベルがカインに殺されたように。教訓としようではないか。神が完全に私たちを得られるかどうかに、すべてがかかっている。それゆえ、自分の全存在を神にささげよ――これこそ大切な唯一のささげ物なのである。
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト