十一.神の御旨

ブルームハルト父子

さて、聞きなさい、あなたたち、「今日か明日、これこれの町に行って、そこで一年過ごし、商売をして金を儲けよう」と言っている者たちよ。あなたたちは、明日何が起きるのかさえ知らないのです。あなたたちの命は、いかなるものか?あなたたちは、しばらくの間あらわれて、それから消えて行く霧です。むしろ、あなたたちは、「主の御旨なら、私たちは生きながらえて、あの事やこの事をしよう」と言うべきです。ところが、あなたたちは自分の高慢な計画で高ぶっています。このような高ぶりはみな邪悪なことです。ですから、もしだれかがなすべき善を知っていながらそれをなさないなら、それはその人にとって罪です。(ヤコブ四・十三~十七)

私たちは、何をなすべきかを神に告げてはならない。最終的に神が聞き届けてくださるまで祈り続けるのを、控えるべきですらある。そのような「信仰」は主に対する抵抗であり、反逆ですらある。「もしそれが主の御旨なら」という言葉を祈りの中に入れたとしても、それは誤魔化しである。正直な人なら認めるだろう。そうした言葉を私たちが入れるのは、そうすべきことがわかっているからにすぎないのである。しかし、実のところ、神の御旨がなされることを、私たちは欲していないのである。

「神の御旨がなされますように」と祈る時、私たちは内面的に無条件に、この御旨を受け入れる用意をしなければならない。容体が悪くなり続けているように思われる時、自分の健康やだれか他の人の健康の回復を、特に求めてばかりいるのは、正しいことではない。絶え間なく祈ってもだれの助けにもならない――病の中にある自分自身や他の人々の助けには、なおさらならない。そのような祈りは私たちのストレスや不安を強めて、私たちの霊の命を妨げるだけである。

これは、諦めなければならない、という意味ではない。時として、最終的に助けを与える前に、容体が悪くなるのを(その理由を神はご存じである)、神はお許しになる。つまり、こういうことである。癒しと健康を求めて祈る時、私たちはもっと静かにして明け渡さなければならないのである。大切なのは神の御旨である。神の御旨に対する真の明け渡しと服従は、すべてを神の御手に委ねることである。それは、神の助けが到来する時、それがどんな形で到来したとしても、その助けが私たちの条件に従ってではなく、神の条件に従って到来できるようになるためである。

また、死ぬとか死なないとか、あまり言わない方がいい。私たちの命はみな、霧である。ここで私たちはさらに静まらなければならない。そして、たとえ主の御心がなんであれ、沈黙のうちに待たなければならない。もし死がドアを叩くなら、生と死のどちらに対しても心の準備をしなければならない(ピリピ一・二〇~二六)。もしあなたの知人のだれかが同様の状況に直面しているなら、神の御心がなんであれ、手放して受け入れるよう、彼らを助けよ。明日どうなるのか、私たちのだれも知らない。私たちは覚悟していなければならない。そうするなら、すべてが正常になるだろう。神は謙遜な者に恵みをお与えになる。そして、まさに、最も謙遜で、神の御旨を行う者が、豊かな恵みを受けるのである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト