十二.神が待たれる時

ブルームハルト父子

主はあなたに恵みを施すことを願っておられる。それゆえ、主は立ち上がって、あなたに同情を示される。主は義なる神だからである。すべて主を待ち望む者は幸いである。(イザヤ三〇・十八)

時として、神はもはや私たちのことを顧みてくださっていないかのように、神はご自分の民を忘れられたかのように思われる。昔のイスラエル人はそう思い、そう述べた。しかし、彼らが恵みを求めてどんなに叫んでも、助けは来ないように思われた。最悪の運命が差し迫っているように思われた。

しかし、預言者イザヤはイスラエルに言う。神は恵みを施すのをやめたわけではなく、イスラエルに恵みを施すのを願っておられるのである、と。イスラエル人は神の恵みを待ち侘びていたが、それと同じくらい、神は恵みを施すことを(言わば)待ち侘びておられたのである――実際に、神は恵みを施すことを願っておられた。神は彼らに対して無関心ではなかった。彼らに対して再び恵みを示せるようになるまで待たなければならないことは、神にとって苦痛であった。

これは何を意味するのか?恵みを施すことを神は待っておられるのだとすると、神が待っておられるのには理由があるにちがいない。そして、その理由は私たちの側にある。神は私たちの中にあるなにかを見ておられる。なにか正しくないもの、なにか神の恵みを妨げるものを見ておられる。それゆえ、この邪魔物が除かれるまで、神は待たなければならないのである。イスラエル人は、はばかりなく偽りの助けを他所に求めた――隣国や他の神々から求めた。これでは、どうして神は彼らに恵みを施して助けられよう?それでも、依然として、神はあわれみを示すことを願っておられる。

私たちもまた、せわしなく無数のことを試みている。そうすることによって神からますます遠ざかっているとも知らずに。しかし、神は私たちを祝福することを願っておられる。神は、私たちの心と、私たちの二心なき信頼を得ることを願っておられる。それは、私たちに恵みを施せるようになるためである。しかし、私たちが自分の心と信頼を神に与えないなら、神は待たなければならない。そして、私たちもまた、不幸のうちに待たなければならない。

ああ、これ以上主を待たせることがありませんように!そうするなら、私たちが大いに必要としている助けを、神は与えることができる。神には用意があり、私たちにあわれみを示すことを望んでおられるのである。

おお、主よ、私たちにあなたのあわれみを示してください。あなたの恵みを妨げて、私たちに恵みを施すことからあなたを遠ざけているものを、すべて取り除いてください!アーメン。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト