だれでもわたしの弟子になりたい者は、日々自分を否み、自分の十字架を負って、わたしに従わなければならない。(ルカ九・二三)
イエスが来られたのは、悪魔の働きをすべて滅ぼすためである。あらゆる種類の暗闇に対して――病も含めて――戦うよう私たちが召されているのは、これが理由である。しかし、この戦いには何が必要なのか?「欠乏や病から助けてください」と自動的に神に祈るようになる、というわけではない。むしろ、まずキリストの死に向かって、この世の罪や苦難に対する――自分自身の体の病も含めて――自分の咎を悟る必要があるのである。
神が私たちの生活の中でしかるべき地位につくことが優先課題である。言い換えると、神の恵みとあわれみを不当に利用しようとするいっさいのものに対して戦うために、また私たちの救い主であるキリストを自分の小間使いにしようとするいっさいのものに対して戦うために、私たちは自分にできることは何でもしなければならないのである。神には、私たちに対する義務はない。自分を否み、自分の十字架を負わなければならないのは私たちである。私たちが仕えるべきは神の栄光である。私たちはすべてを手放して貧しくなる覚悟をしなければならない。それは、ただキリストだけが高く上げられるためである。
神の御前で乞うのを後にして、その代わりに、神の御旨のために正義を行う方法を求めようではないか。自分の必要を脇に置いて、悔い改めのわざを正直になせ。ブツブツ言ったり嘆いたりせずに、喜んでそうせよ。自分を裁きに委ね、自分の内面生活を方向転換して、自分自身や自分の必要を見るのをやめよ。むしろ、神の王国のために自分を犠牲にせよ。神のために熱心になれ。そうするなら、神はあなたの人生が恥に終わるようにはされない。苦しみや悩みがひとりでに消えて行くことにあなたは気づくだろう。
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト