一九.主を待ち望め

ブルームハルト父子

私は確信しています、生ける者の地で主の優しさを見ることを。主を待ち望め、強く、かつ勇敢であれ。主を待ち望め。(詩篇二七・一三~一四)

「生きながらえるために、すべてを自力で行え」と私たちに命じる節を、私は聖書の中に一つも知らない。たとえそのような節があったとしても、それは神に向かうよう私たちを大いに力づけるものだろう。結局のところ、神だけが命と死をつかさどる主である。そのようなことは、「何とかして自力で強いて命を得なければならない」というようなものだろう。聖書が私たちに告げているのは、忍耐して、主の助けを待ち望め、ということである。

命を救って生きながらえるために、すべてを試みて行い尽くすのは、ほとんど反逆であるように思われる。それに加えて、生きながらえることが常に自分の義務だとするなら、どこで線を引けばいいのか?戦争時の臆病者や脱走兵はどうだろう?自分の命を惜しんだことは正当化されるだろうか?医者は自分の命を危険にさらして、極めて伝染しやすい病にかかっている人々をも訪問する覚悟をしていなければならない。何としても自分の命を守るよう強いられるなら、実際にジレンマに陥るだろう。疑いもなく、自分の身を救うことよりも遥かに重要な問題がかかっているのである。

もちろん、医者にかかるのは悪いことではない。たとえ戒められたとしても、医者に任せるべきである。医者の手を拒絶することは、その専門に対するつれないとげとげしさを示すだけでなく、信仰に対する過剰なこだわり――信仰が万事を成就しなければならないというこだわり――をも顕わにする。

問題は、半狂乱になってあらゆる手を尽くすことである。死に物狂いであらゆる手を尽くす人々は、アサ王に下された非難(歴代誌下一六・一二)の下に陥るおそれがある。医療の助けを用いるつもりなら、それが真に有益であることを、少なくとも確信するべきである。これを確信している時だけ、最善を尽くすことが正当化される。しかし、あらゆる手を尽くすこと――特に闇雲にそうすること――は、ほとんど罪である。

たいていの医者は常に助言を与えようとしていることを、私たちは知っている。医者はみな、たとえ互いの間に食い違いがあったとしても、成果を上げることを約束する。医者同士が食い違っている場合、私たちはどうするべきか?事実、少し後に下がって正直に考えるなら、そもそも人の乱暴な治療にどれだけ信頼性があるのか?医者に信頼することで、どれだけ神に対する敬虔な姿勢を示せるというのか?私はこれを信仰や信頼だとは言わない。主こそ唯一の真の医者である。それゆえ、神が許された手段を用いる時でも、それらの手段が決定的助けになるかのように、あまり重視しすぎてはならない。

主を待ち望むよう私たちは召されている。もう一度言うが、被造物の中に神が備えて下さった良い物を利用してはならない、ということではない。しかし私たちは、それらのものに信頼することにあまりにも慣れきっており、そのため、主の優しさを経験していないのである。信仰に欠けているせいで、私たちは使徒たちとは違って奇跡の時代に生きていないのである。信仰がなしうることに、私たちは常に開いていなければならない。しかし、治療法を見つけるために地の果てまで行くようでは、どうしてこれが可能だろう?医者から医者へと駆け巡るようでは、途方もない費用をかけて数百マイル遠方に住んでいる専門家にかかるようでは、時間と力を費やし尽くしているようでは、臨終間際になっても非常手段を用いているようでは、どうしてこれが可能だろうか?

私たちが自分の力を試したり、自分の力で助けを探している時、主はますます後退される。しかし、主によって割り当てられた領域の中に謙遜にとどまり、身近にある大小の手段を用いて、「実際の助けはただ天からのみ来る」と信じる人に、最善の報いがある。神に信頼する人、神が働かれるのを待ち望む者は、主が自分のもとに来て下さること、自分の命が実際に保たれることを見い出す。

それゆえ、主を待ち望め。救いの到来の時に心の思いを向けよ。救いの時の前味わいを求めて大胆に祈れ。そうするなら、あなたはきっと最高の助けを見い出すだろう。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト