二一.どんな時でも祈れ

ブルームハルト父子

いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんな境遇でも感謝しなさい。なぜなら、これこそあなたたちに対する、キリスト・イエスにある神の御旨だからです。(一テサロニケ五・十六~十八)

何のために祈るべきか、パウロはこの箇所では考えていない。ただ祈るように、どんな境遇でもそうするように、私たちは命じられている。それでは、どうして、御父に近づく前に、私たちはこれほど長く、頑なに、考え込むのか?どうして、祈りの中で神に立ち返る前に、まず人々の提案を試し尽くしたあげく、あらゆる問題の中に落ち込んでしまうのか?

人に癒してもらえばいい時は、救い主に祈るのは間違っているのだろうか?命じられたことをしているだけなのに、どうして祈りを図々しく思う必要があるのか?主の直接的な命令に抵抗することの方が、よほど図々しいことではないのか?「今の病から解放されたら、もっと悪い病にかかるだけだ」と恐れている人々もいる。天の父はご自分の子供たちに、パンの代わりに石を、魚の代わりに蛇をお与えになる、とでも言うのか(ルカ十一・十二)?他の人々は、「苦難は必要なものである」と主張している。確かにそうなのだが、主の助けを経験することも大切ではないのか?厳しい痛みを通して回心した人がこれまでいたのか?

主が望んでおられるものはなんでも――主が私たちに与えてくださるものは喜んで受け入れ、取り去ることを主が望んでおられないものは耐え忍ぼうではないか。しかし、祈ろうではないか。御業をなすべきは、ただ主だけである。あなたがどれくらい耐えられるのか、主はご存じである(一コリント十・十三)。あなたの数々の祈りに主がすぐに答えてくれない時は、パウロがこれを学んだように、「主の恵みは私に対して十分である」と見なせ。一番大事なのは、神の御旨に服することである。そうするなら、それは容易になり、徐々に主があなたの重荷を軽くしてくださる。

それゆえ、子供のような精神で、すべてを主に任せよ。それは、御旨の喜びのままに、主がことを行えるようになるためである。どんな境遇でもそうするなら、これが最善の道であることがわかるだろう。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト