二三.癒しをもたらす信仰

ブルームハルト父子

大群衆がイエスのあとについてきて、彼のまわりに押し迫った。さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、持ち物をすべて費やしたが、なんの甲斐もないばかりか、ますます悪くなるばかりであった。この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから彼の衣にさわった。「彼の衣に触れさえすれば、自分は癒される」と思っていたからである。すると、直ちに出血がやみ、女は苦しみから解放されたことを、その身に感じた。
 イエスはすぐに、自分から力が出て行ったことに気づき、群衆の中で振り向き、「わたしの衣に触ったのは誰か?」と言われた。
 「ごらんのとおり、群衆があなたに群がっていますのに、誰がさわったのかと、おっしゃるのですか?」と弟子たちは答えた。
 しかし、イエスは触った者を見つけようとして、見回しておられた。その女は自分の身に起きたことを知り、恐れおののきながら進み出て、足下にひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを癒したのです。安心して行きなさい。苦しみから解放されて、達者でいなさい」。(マルコ五・二四~三四)

ある気の毒な女が、十二年間も重い病気にかかっていた。その間、彼女は多くの医者にかかった。自分の持ち物をすべて医者に費やしたにもかかわらず、この医者たちは彼女の苦しみをますます増すばかりだった。幸運なことに、ある時、この女はイエスのことを聞いて、彼の御許にやって来た。

この苦しむ女はイエスの服に触った。彼は直ちに、自分から力が出て行くのを感じ、驚いて、「誰がわたしの服やわたしに触れたのか?」と言われた。イエスの愛に溢れた心は感動したにちがいない。この単純な行動によって示された信仰、この女の真の信仰を明らかにすることを彼は願われた。イエスはまっすぐ彼女をごらんになった。恐れおののいて、彼女は自分に起きたことを知り、進み出て、彼の足下にひれ伏した。すると突然、恥ずかしさや遠慮は全くなくなり、彼女はイエスにすべてを告げたのだった。

この出来事は、イエスが私たちの一員であること、真に私たちの一員であることを示している――イエスは、その神々しさに畏怖して恐れるべき御方ではなく、私たちの接触を愛のゆえに許してくださる御方である。彼は私たちの前に立ちはだかっているのではなく、むしろ、無限のあわれみにより、神々しい威厳と栄光を放っておられるのである。これを覚えようではないか。私たちの救い主は遠くにおられるのではない。

この女は勇敢にも、イエスの知らぬまに、その衣に触れた。このような方法でイエスの力から益を受けた人が、他にもたくさんいるにちがいない。さらに多くの人が彼の御許に来たにちがいない――彼らは、弱々しい、息を切らした、半病人の状態でやって来て、あらゆる種類の不平を抱えていたが、丈夫で元気な健やかな状態で、家に帰ったのである。彼らが癒されたのは、イエスが彼らの必要に気づいていたからではなく、彼らの兄弟だったからにほかならない。私たちもまた、私たちの間におられるイエスと共に、まことの愛の中で共に集まる時、癒しを経験することができる。

「あなたの信仰があなたを癒したのです」と、イエスはこの女に呼ばわられた。確かに、これは彼女の信仰だった。たとえ最も身分の低い者の信仰であっても、信仰に何が可能なのかを見よ。「安心して行きなさい。苦しみから解放されて、達者でいなさい」と、イエスは彼女に言われた。なんと幸いな、喜びに満ちた、祝福された状態で、この女は家に帰ったことだろう!

次のことを忘れないようにしようではないか。イエスを信じる私たちの信仰を通して(この信仰が、彼が生きた命の一部の場合)、私たちはこの力を幾らか経験できるのである。私たちの兄弟である彼に手を差し伸べて触れることができたなら、どれほど幸いで喜ばしいことだろう!たとえ単純なことでも、私たちにもっと信仰がありさえすれば。そうすれば、主の御手はもっとずっと頻繁に示されていただろう。ああ、私たちの愛する救い主に、もっと早く向かえますように!

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト