あなたたちがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたたちの内にとどまっているなら、何でも望むものを求めなさい。そうすれば、それはあなたたちのためにかなえられます。あなたたちが多くの実を結ぶことは、わたしの父に栄光を帰して、あなたたちがわたしの弟子であることを示すものなのです。(ヨハネ十五・七~八)
神が私たちの求めをすべてかなえてくださるとは限らないことには、理由がある。しかし、「この願いは必ず実現しなければならない」と思う理由が全くない願いはたくさんある。パウロはサタンの使いから解放されることを願ったが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(二コリント十二・七~九)と主は彼に言われた。私たちは自分を貧しいものと見なさなければならない。
祈りに関する数々の約束は、浅薄な理由で与えられたのではない。それゆえ、たとえ神が私たちに答えてくださらない時でも、神は依然としてご自分の約束に対して忠実であり、真実である。神が祈りに答えてくださる時、それでも究極的に神が望んでおられるのは、祈る者たちの内に実を見ることである。そのときはじめて、御業のゆえに、神は誉れをお受けになる。そして、賛美――この賛美は神のおかげであり、多くのとき私たちはこれに欠けているのである――が与えられる。望むものを何でも求めてよいのだから、私たちの祈りをより高度なものに焦点づけるべきである。神の王国とその成就を目指す祈りであるべきである。
最終的に、主は何らかの形で、私たちが主に求めたものをすべてかなえてくださるだろう。求める者はだれでも、主にとって大切な者である。なぜなら、神の御許に来る者は、求めない者よりも、神に近い立場にあるからである。誠実な祈りを、神はすべて顧みてくださる。しかし、神の答えは私たちの期待とは異なることがしばしばある。それでも、私たちが驚き崇めるような形で答えてくださることが、なんと多いことか。
どの場所でも、依然として、多くのものが欠けている。来たるべき偉大な恵みの時を、忍耐強く待とうではないか。その時は必ず来る。その時、神のあわれみが大いに現れて、私たち全員が変えられるほどであろう。それゆえ、祈り続けよ。御使いたちはあなたの要求を御父に送り届けてくれる。そして、神の報いが必ず臨むのである。
ヨハン・クリストフ・ブルームハルト