夜はほぼふけて、日が近づいています。ですから、私たちは暗闇のわざを捨てて、光の鎧を身に着けようではありませんか。(ローマ十三・十二)
夜はほぼふけて、日が近づいている。それでも、日が近いようには見えない。私たちの足は依然として罪の中を歩んでおり、私たちの手は何も良いことをしていない。私たちの周りには、腐敗の泥の中に沈んでいる数万の人々がいる。彼らは大挙して死んでいる。地上に日はないように見える。しかし、私たちの信仰は日を要求する。神に対する私たちの愛、神に対する私たちの希望は、日を要求する。そこで、私たちは言う、「それにもかかわらず、夜はほぼふけて、日が近づいています」と。イエスがお生まれになった時、これが起きたのである。つまり、日が臨んだのである。
日とは何か?日は神の愛である。そして、悪いもの、卑しいもの、絶望の中にあるものをみな、神の愛は溶かし去る。愛は死を征服しさえする。しかし、この愛は、敵を愛する神々しい愛、どんな人や物も拒否しない愛、英雄のように何があっても動じずに闊歩して、侮辱や軽蔑や拒絶に遭わない愛、希望の兜を頭にかぶって世を渡る愛でなければならない。
この愛を宣べ伝える時――イエスがお生まれになったこと、すべての被造物は真に愛されていることを宣べ伝える時――私たちの大胆さは不十分だった。そうする勇気がなかったのは、単純な理由による。つまり、私たちは満足しきっていたのである。まるで、罪人であることを楽しんでいるかのようだったのである。しかし、現実には、罪人であることを楽しんでいる人はだれもいない。だれもが自分の罪の重荷の下でうめいている。瀕死の人はみな、苦しんで、溜め息をついているのである。
神の愛は、死の中でうめいている私たち罪人の間を、大胆に闊歩している。神の愛――全く人となった愛――が、私たちの心の中に注がれている。イエスは、ご自分が神の無限の愛であることを、私たちや万民が知ることを願っておられる。この愛によって、イエスは炎となることを願っておられる。私たちを清める炎である。なぜなら、愛だけが私たちを受け入れて裁きに渡すからである。私たちを奴隷にして不幸にするあらゆるものから、私たちを解放することを願っているのは、愛なのである。
イエスにあって日がすでに臨んでいることを、天の父に感謝しようではないか。この日――すでにそこにある日――が、あなたの生活の中に現されるようにせよ。復活と命のために戦え。たとえ、恐ろしい戦い、恐れ、苦しみの中にあっても。心の中に満ち溢れる感謝をもって、神の愛の光に新しい日を輝き渡らせよ。
クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト