三七.回心

ブルームハルト父子

それゆえ、キリストはご自分の体において苦しまれたのですから、あなたたちも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。なぜなら、体において苦しんだ人は誰でも、罪を断ち切ったからです。その結果、地上の残りの生涯を、邪悪な人間的欲望のためではなく、むしろ神の御旨のために生きるようになります。(一ペテロ四・一~二)

幸福と健康を望んで回心を望まないとき、私たちは間違った道にいる。癒しの賜物は、悔い改めが伴わなければ、何の進歩ももたらさない。神聖な癒しの賜物は、それが悔い改めによって宣べ伝えられなければ、「主よ、その下で私たちが呻いているこの呪いを取り除いて下さい!」という叫びによって宣べ伝えられなければ、決して人はそれを察知しないだろう。私たちを病にして、それから回復するという遊戯に、救い主は興味を抱いておられない。もしあなたが低く横たわっているなら、悔い改めよ――これこそ私たちが求めるべきものである。

もちろん、回復を望むのは何も悪いことではない。しかし、私は尋ねる。もし私たちがあらかじめ、自分はいかなる者であり、神は私たちがどうなることを望んでおられるのかを考えておかないなら、健康になったとき、私たちはその健康をどう用いるだろうか?ああ、面にもっと注意が払われていれば、どれほど多くの苦しみが除かれていたことか。主イエスはたしかに私たちの助け手であり、癒し主である。しかし、これは究極的には魂にあてはまることである。癒しよりも清めの方が遥かに優っている。なぜなら、主が何をなさるにしても、主が求めておられるのは私たちのだからである。主に自分の心を得てもらうなら、あなたは主の優しさを外面的にも経験するだろう。なぜなら、罪が赦される時、自然に癒しがそれに続くからである――他のすべてのことが正常になるのである。

どうか主が私たちの間で、万事を別の基礎の上に据えて下さいますように。私たちがそれを信仰の中で望む限り、主はきっとそれを実現して下さるのである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト