三八.万事を

ブルームハルト父子

神を愛している者たち、御旨にしたがって召された者たちのために、神は万事を働かせて益として下さることを、私たちは知っています。(ローマ八・二八)

ベゼルの宣教会で教師として働いていた時、私は高熱にかかり、医者は天然痘と診察した。次の晩、静かに落ち着いていたのだが、私は熱心に天を見上げて主と格闘した。真夜中すぎのある時、手が私の頭から足までなでたように思われた。すると突然、自分がよくなって解放されたことを感じたのである。しかし、私はとても弱っていたため、もう一週間、ベッドにとどまらなければならなかった。

その期間中、その宣教会で働いている一人の女性に対する敵対心と、私は絶えず戦わなければならなかった。彼女はずっと私によくしてくれたのだが、今や彼女の欠点が私の神経にさわるようになったのである。私の裁くような姿勢のせいで、祈りには熱心さがすっかりなくなり、心の平穏もなくなってしまった。私は自分の有様に動転し、自分が嫌になってしまった。「どうかこの恐ろしい思いを取り去って、平安を与えて下さい」と、私は熱心に祈った。しかし、祈りに全く効果はなかった。まるで自分が、邪悪な思いという地獄の中にいるようだった。

ついに私は、忍耐すること、そして内面的に手放すことを決意した。もはやこのような思いに対して戦うことをせず、単純に神に信頼することにした。すると間もなく、悪い思いはすっかりなくなり、それとは反対の思いが心を占めるようになったのである。私はこの出来事からとても重要な学課を学んだ。あまり自分と戦いすぎるのは良いことではなく、自分の肉的な性質を後にして、それを養わないようにすることの方が、はるかに良いことなのである。

病のおかげで、何か新しいものが到来する時もある。神は万事を働かせて益とすることができる。しかし、私はさらに言いたいのだが、病そのものが私たちを罪から解放する助けになる、と教えている聖書の節を私は一つも知らない。病そのものには、贖いの力は何もない。事実、人が重病にかかる時、何らかの最悪の罪が現れるおそれがある。手に負えない、乱暴で無慈悲な態度に駆られている病人を、私たちはみな知っている。彼らの自己愛、霊的高慢、思い込み、自信、独善的精神、誇張された偽りの敬虔を見るのは、恐ろしいことである。そしてまた、このために彼らを世話する人々が被る必要や悲しみを見るのは、恐ろしいことである。

苦難のゆえに罪から解放される人は、私たちの中に誰もいない。しかしそれでも、神は、ご自分の民を訓練するために、彼らを立ち返らせるために、病を選ぶことがしばしばある。肉体の病のただ中で、神はしばしば私たちに恵みを示して、私たちを罪の生活から立ち返らせて下さる。これは大いに確かなことである。病そのものが天への道を促す、と決して思い込んではならない。病は私たちを神に立ち返らせて、十字架に向かわせるものでなければならない。病は良いものにもなりうるが、それは神が――益のために――それを用いて罪を征服することをよしとされる場合に限る。なぜなら、主の十字架が私たちの心を治める時、十字架は私たちを真に癒して解放することができ、私たちはもはや罪の餌食にならないからである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト