三九.まず王国を求めよ

ブルームハルト父子

まず神の王国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のものもみな与えられます。(マタイ六・三三)

病はしばしば私を導いて、さらに大いなる静けさを求めるように、神が私を導くことを願っておられる道を新たに求めるようにしてくれた。私が回復したら、私は昔の方法で再び活動するだろう、と人々は思っていた。しかし、時が移り、召しも変わったので、私たちは昔の慣習的な道を登って神を喜ばせようとはしない。むしろ、私たちに数々の新しい道を示してくれる諸々のしるしに注意を払わなければならない。

今、私は病気なので、後に引き下がる必要がある。自分自身の個性から離れる必要がある。私が引き下がりさえすれば、救い主ご自身がご自分の者のところに来てくださる、と私は信じる。私に身近な者たちとの関係において、これは一歩前進であることがわかる。最優先すべきは、神の王国と神の支配である。

私はと言うと、特別な方法で他の人々の健康のためにとりなす必要をもはや感じていない。私はなおも祈るが、私が祈りたい最も大事なことは、神の王国の訪れである。私たちの交わりの基礎は、神が私たちを肉体的に癒してくださるかどうかではない。そうではない。私たちが共に集まるのは、救い主とその王国の顕現を喜んでいるからである。これが私たちの生きる目的である。このために、私たちは喜んですべてを放棄するのである。まず真っ先に神の王国を求める者はだれでも、自分が真に必要としているものをすべて受けるだろう。

他の人々のためにとりなす時、私たちは全き喜びと信頼の中で、自分たちのことではなくイエス・キリストの権益を念頭に置いて、神の王国に目を注ぐべきである。たんなる外面的必要のために助けを求めて神の御許に行くのをやめなければならない。この場合もやはり、私たちがとりなしによって得ることを願うなにものにもまして、私たちの交わりの方が神の目から見て遥かに重要であり、遥かに貴重なのである(一ヨハネ一・一~四)。癒しは一つのことであり、救い主が望んでおられるのは、私たちの間でもっと自由に治めることなのである。

それゆえ、神がなさりたいことの前で、おののこうではないか。なにがあってもいいように覚悟する必要がある。特に、神が私たちからなにかを取ることを決定された場合には。神は時として、私たちの思いや希望とは異なる道を取られる。特に病の時、静かにしていようではないか。そうするなら、神から直接到来するもの、神の王国に役立つものを、私たちは得るだろう。

クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト