四〇.私たちの奇跡的な救い主

ブルームハルト父子

その時、イエスは彼らの目に触れて、「あなたたちの信仰の通りになるように」と言われた。すると、彼らの視力は回復した。イエスは彼らを厳しく戒めて、「このことを誰にも知らせてはならない」と言われた。しかし、彼らは出て行って、彼についてのこの知らせを、その領域全体に広めた。(マタイ九・二九~三一)

イエスは、人々がご自分の奇跡について大騒ぎするのを好まれなかった。彼は常に奇跡以上のものを心に留めておられた。イエスが奇跡を行われた時、彼にとって最も重要なことは、それによって深い敬虔な感覚が生じることだった。彼の憐れみ深い行いは、さらに偉大なもの――束の間のもの以上のもの――のしるしだった。彼は内なる人に触れたのである。

イエスが究極的に望んでおられるのは従者である――彼に引きつけられて、神の王国のために真に敬虔な感覚に直面している人々である。然り、彼の奇跡は神の力以上のものを示したのである。地を砕くような現象によってではなく、ある種の単純さ、魂を深みに導ける人柄によって。彼の奇跡はとても単純だったので、誰も気づかないうちに起きることがしばしばあった。実に、尋常ならざることが起きるのを誰も目にしないことが、たびたびあったのである。それでもイエスは、彼自身同情の念に促されて、人々の内に愛を呼び覚まされた――その愛は彼が人々に示したのと同じ愛だった。彼の言動はすべて彼の心から直接発したものであり、人々の心に触れた。そしてまた、神への賛美と称賛を呼び起こした。要するに、彼の癒しの御手は、神の栄光と愛をすべての人に見えるようにしたのである。

このような方法で、イエスは奇跡的な救い主にならなければならなかった。イエスは主の力により、万民と全被造物の贖いを推進された。そして、イエスは依然として、私たちの奇跡的な救い主である。大能の御業がなければ、彼は一教師にすぎない。しかし、私たちは彼を自分の主として知っている。ああ、この福音の享受と宣べ伝えが十分になされますように!

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神の最大の奇跡は、病人に起きる奇跡ではない。そのような奇跡はあまり重要ではない。もっと遥かに重要なのは、健康な人々に起きる出来事を目にすること、人々の生活やこの世の状況に変化が生じるのを目にすることである。私の念頭にあるのは、神のいかなる奇跡か?例えば、戦争で銃を撃つことがもはやなくなることである。これは可能である、とあなたは思われるだろうか?このような考えは、みなを失笑させるように思われる。しかし、このような奇跡がイスラエルに起きたのではなかったか(ヨシュア五・一三~六・二七)?今日、同様のことを、私たちは他の何ものにもまして必要としている。それは、すべてが私たちの手から完全に離れて、生ける御方の御手に委ねられるようになるためである。もちろん、神から何かが到来する時、それはしかるべき時に、神の方法で到来する。私たちが必要としているのは、神の現実が私たちの生活の中に再び到来することである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト