悔い改めて安息しているなら、あなたたちは救われ、静かに信頼しているなら、あなたたちは力を得る。(イザヤ三〇・十五)
預言者イザヤは、神の民が侵略する敵からの大きな危険の中にある時に語った。彼らが残忍で、執念深い、血に飢えた、略奪的な敵の餌食になった時に生じた、凄まじい不安、騒動、混乱を、人は思い浮かべることができる。
このような絶望的状況の中にある時、私たちは自然に不安になって平常心を失い、恐れて叫んでしまう。しかし、イザヤは神の民に告げる。「静かに落ち着いていなさい、忍耐と希望を持ちなさい」と。苦しみのただ中で、信頼して落ち着いていることを学ぶ人々は、道を見いだして助けを受ける。彼らの目はさらに開かれ、その気持ちはおごそかになる。そして、すり抜けられる隙間を見いだす。その隙間は、興奮して落ち着き無く混乱して騒いでいる間は、見えなかったのである。
かつて、私はぶどう園でカリバチを見た。そこには小さな瓶がいくつもあって、茎にぶら下がっていたのだが、瓶は上の方が開いていて、中は砂糖と蜂蜜で覆われていた。カリバチはその甘さに引き寄せられて道に迷い、その瓶に吸い込まれた。なぜか?一度中に入ると、カリバチはガラスから抜け出そうとし続けて、狂乱状態になるからである。いわば、カリバチは判断力を失って、上の方が開いていることを忘れてしまうのである。上の方にたやすく抜け道が見つかるというのに。しかし、一匹も抜け出せなかった。すべて瓶の中で滅びたのである。その時、私は思った、「落ち着いていないときの自分も同じである」と。私たちは壁に向かって自分の頭を叩きつけるのだが、自分の落ち着きのない霊のせいで、どれほど神の御業に対して盲目になっているのか、わからないのである。そしてその結果、私たちは道を失うのだが、責めは自分以外のだれにもない。不安な心のせいで、すべてを失いかねないのである。
預言者は言う、「じっとしているなら、強くなる」と。静かな霊が立ち上がって、神を仰ぎ見る。神から確信と勇気が与えられる。その時、「たとえ自分にはできなくても、神にはできる」と、私たちは大胆に考えられるようになる。神はいかなる方か、人類に対する神のご計画は何か、神はすべての人がイエス・キリストを通して救われることをどれほど願っておられるのか、私たちは新たに思い描けるようになる。このような思いは、内なる力と勇気を私たちに与えてくれるにちがいない。そして、御霊を通して、その理解力と平安を与えてくれるにちがいない。
預言者のこの言葉が真に必要になる時が、私たちの前途に依然として何度待ち構えていることか!一瞬も失うことなく、望みを抱いて直ちに神に立ち返ろうではないか。神は多くのことで、あらゆることで、私たちに助けを送ってくださる。しかし、働いておられる神を見るには、私たちは静まらなければならないのである。
ヨハン・クリストフ・ブルームハルト