四三.しるしと不思議

ブルームハルト父子

イエスは、弟子たちの前で、この書には記されていない、他の多くのしるしを行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスはメシヤであり神の御子であることを、あなたたちが信じるためであり、そして、信じて彼の御名の中で命を得るためである。(ヨハネ二〇・三〇~三一)

天の父がなにかを行われる時、私たちは一心に見つめて傾聴するべきである。それでも今日、奇跡が起きると必ず、私たちはそれを包んで自分のポケットに入れ、自分だけのものにしてしまう。そのせいで、その上にはなんの祝福もなく、私たちの周りの人々はそれについて聞きたいとは全く思わないのである。

しるしを見る時、その場所や種類にはよらず、私たちの全存在は神への賛美で満たされるべきである。もし私たちの世界に対する愛と思いやりを溢れさせる信仰が私たちにあるなら、もし神が私たちに送ってくださるしるしと不思議により、罪人に対して忍耐すること、自分の友人や隣人に対する優しさを実践することを学んでいるなら、もし、この経験を独り占めする代わりに、この世の前にひれ伏して、「私はあなたの奴隷、あなたの僕です。私はあなたに仕え、あなたを支えます」と言うなら、もし尊大になる代わりにへりくだるなら、もししるしと不思議が私たちを助けて、敬虔ぶった者ではなく、真の信者にするなら――その時、善は勝利し、さらに多くのしるしや不思議を私たちは生じさせられるだろう。これが天の父の御旨であり、これがしるしの結果でなければならない。

奇跡によって、一家全員が救い主の御傍にもたらされるのを、私は見た。それにより、キリストはその家族の中でさらなる事を行えたのである。しかし、これがもっともっと頻繁に起きる必要がある。真にしるしを経験した人、天の父になにか良いことをしてもらった人はみな、新しい人になるべきである。真に信じるべきである。そうするなら、全存在が神聖なもので満たされる。

癒しについては、この哀れな地上に神のなにかが啓示されることが、最も重要である。これをしっかり握って、決して手放してはならない。奇跡によって癒されたにもかかわらず、依然として地的な物事に没頭し続けているなら、なんの益があっただろう?致命的な病にかかって救い主に癒してもらいながら、自分の家族や仕事のことしか考えず、それを当然のことのように思うなら、一体なんの益があっただろう?上を見よ。上を見よ。そこにあなたの褒賞がある。しるしや不思議を経験する時、私たちの中でなにかが変わらなければならない。

必要を抱えて救い主のもとに行き、「主よ、助けてください!」と叫ぼうではないか。しかし、私たちはまた、主に耳を傾けなければならない。助けを受けたら、神の御旨を行おうではないか。御名の中で命を得られるよう、イエスに自分の地的な諸々の道から引き出してもらおうではないか。

クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト