四四.不可能を可能にする神

ブルームハルト父子

主にとって難しすぎることがあろうか?(創世記十八・十四)

アブラハムとその妻サラは年が進んでいたが、アブラハムは息子を持つことになっていた。主は彼に、「主にとって難しすぎることがあろうか?」と保証された。同様のことが二千年後マリヤにも起きた。彼女もまた、自分が息子を授かることになるとは、全く信じられなかった。しかし、御使いは彼女に、「神に不可能なことはありません」(ルカ一・三七)と告げた。イエスご自身、「富んでいる人が天の王国に入るのは難しい」と弟子たちに告げた時、同じことを言われた。とまどって弟子たちは、「それでは誰が救われることができるのでしょう?」と尋ねた。イエスは答えられた、「人にはこれは不可能でも、神には何でもできるのです」(マタイ十九・二三~二六)。

ご自身の御業により、神に不可能はないことを、イエスは明示された。彼は人には不可能な大能の御業を行われた。このようにして、彼は私たちの信仰に全く新しい方向性を与えてくださった。彼は水をぶどう酒に変え、少しばかりのパンと魚を、感謝をささげている間に増やし、ラザロを死人の中からよみがえらせた。今日の明晰な頭脳の持ち主の多くが理解できない、純然たる奇跡である。しかし、信じる者たちに、イエスは神の愛を示してくださっており、私たちには不可能に思えることでも神には可能であることを示してくださっている。

このような信仰の確かさは今日も継続するべきである。至る所でこのような偉大な奇跡を期待する必要はない。しかし、もし必要なら、神は不可能を可能に変えることができる。このような神に私たちは仕えているのであり、神はこれを私たちに示すことを願っておられる。

イエスは神として、無から天と地を創造された。だから今も、彼は無から何かを創造することができる。今なお、水をぶどう酒に変え、パンを増やし、死人をよみがえらせることができる。このような方が私たちの神である。不可能なことも神には可能であることを信じる大きな群れが再び生じないかぎり、神の王国は完全なものにはならないだろう。ご自分しかなしえないことを行うことを、神は望んでおられる。神はこれを再び行われるだろう。なぜなら、ただ神だけが、被造物の溜め息やうめきをすっかり終わらせられるからである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト