四五.奇跡を信じよ

ブルームハルト父子

この人がペテロとヨハネにつきまとっていたとき、人々はみな驚いて、ソロモンの回廊と呼ばれる所にいた彼らのもとに駆け寄って来た。ペテロはこれを見て、人々に言った、「イエスラエルの同胞たちよ、なぜこのことに驚くのですか?また、私たちが自分自身の力や信心で、この人を歩かせたかのように、なぜ私たちを見つめるのですか?アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの父祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」。(使徒三・一一~一三)

この地上で神はどのように働けるのか、どのように物事を正常化できるのか、理解している人はほとんどいない。私たちは物事を天然の観点からしか見ていない。啓蒙された見方のせいで、私たちは奇跡を見ることを妨げられている。

私たちの現代的な見方にもかかわらず、私は信じる。もし自分に奇跡が起きるなら、たとえ心の片隅であったとしても、大喜びしない人はほとんどいない、と。不治の病から突然回復するなら、その人はこの奇跡を拒否しないだろう。むしろ、「私が再びよくなったのは奇跡です」と喜んで叫ぶだろう。ほとんどの人は心の奥底ではこう思っている。いわゆる現代医療の出番がほとんど無いこれらの奇跡をまさに行って下さる救い主を、人々は至る所で渇望している。

その中ではまったく無力な特定の状況、人の知力はまったく助けにならない特定の状況の存在を、私たちはみな知っている。私たちの生活の中から信仰を根絶やしにできないのは、これが理由である。私たちの洗練された世が、この信仰の火にどれほど大量の水を注いだとしても、信じようとする私たちの切望はどこかで噴出する。たとえ私たちが信仰のための出番を設けなかったとしても、信仰が飛び出す――特に、自分の期待や理解を超えた神の数々のしるしを渇望する、この信仰が飛び出すのである。この渇きが満たされない限り、人々は目覚ましい不思議な力で、見に出かけるよう駆り立てられるのである。

不思議な力があると言われている聖衣を見るためにトリール(ドイツ)まで旅する多くの巡礼者について考えてみよ。親愛なる友よ――数千の人をトリールに行くよう促すこの衝動は、基本的には、十人のらい病人をイエスに向かうよう促したのと同じ衝動である。目標は同じではないが、彼ら全員を駆り立てているこの力は同じである――理解することも見ることもできないもの、しかし、自分が切実に必要としているものを求める渇望である。

今日、私たちが直面している最大の悲劇の一つは、私たちがもはや奇跡を信じていないことである。異様な力や科学による奇跡ではなく、人々をイエスに導いた奇跡、神の真の御言葉によってなされる奇跡である。病や死からの解放は可能である、と私たちは信じるだろうか?人間性固有の倒錯からの解放、罪と自分の希望や野心の愚かさからの解放は可能である、と信じるだろうか?これは可能である、と信じるだろうか?それとも、それは不可能であって、偽り以外の何ものでもない、と信じるのだろうか?

クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト