四七.主は赦して下さる

ブルームハルト父子

イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が麻痺した人を床の上に寝かせたまま御許に連れてきた。イエスは彼らの信仰を見て、その人に言われた、「子よ、しっかりしなさい。あなたの数々の罪は赦された」。(中略)そこで、彼はその麻痺している人に言われた、「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」。すると、その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て、畏れに満たされた。そして、このような権威を人にお与えになった神を賛美した。(マタイ九・一~八)

イエスはこの麻痺している人を、たった一言で癒された。この事実から、イエスには諸々の罪を赦す権威もある、と私たちは確信するべきである。癒すことのできる方は、赦すこともできる。これが、イエスの奇跡が独特で意義深い理由である。

病は、特に悪鬼的性格を帯びている病は、罪と反逆の結果であることを、私たちは思い出さなければならない。私たちの弱さは消し去られるべきものだとすると、罪の呪いも終わらされる必要がある。そして、これまでそうだったのである。神は、悔い改めてへりくだる罪人たちの祈りを聞いて下さる。彼らが自分の苦難を克服するのを、神は助けて下さる。もっと自然な方法で生じる健康の回復は、確かに神の愛のしるしでもある。神は恵みをすべての人に注いで下さる――神は恩知らずな者や邪悪な者にも親切である(ルカ六・三五)。しかしこれは、彼らの罪が赦されていることを意味しない。神は私たちを死から救って下さるかもしれないが、依然として罪が残っているおそれがある。

イエスが癒しのわざを行われた時は常に、神ご自身――無から有を創造した御力――が臨在しておられ、罪は滅ぼされた。これが、神に近づいてもらった人が元の罪人のままでは到底いられなかった理由である。神が奇跡的に癒される時、まさにその瞬間、神から私たちを分離するものはすべて除き去られる。私たちは罪から解放されて、神の恵みを確信することができる。

こういうわけで、キリストを信じる信仰を持つ人々、彼を神の御子と認める人々だけが、恵みと赦しを受けることができる。信仰が見い出されない所では、イエスは奇跡を行えなかった(マタイ一三・五八、マルコ六・五~六)。しかし、子供のような信仰をもって彼に近づいた人は誰でも助けを受けた。イエスは繰り返し言われた、「あなたの信仰があなたを癒した」と。

今日、癒しと赦しは必ずしも同時には起きない。私たちは時が満ちるのを待っている。その時、御霊がすべての諸国民の上に注ぎ出されるだろう。それにもかかわらず、「世の罪を担われた」方であるキリストを通して、新しい永続する道が確立されている。イエスは癒す権威と、罪を赦す権威を弟子たちにお与えになった(ヨハネ二〇・二一~二三)。彼の恵みの賜物――天からの力を伴う完全な賜物――は今、彼の和解させる死を受け入れるすべての人に受け継がれている。何という憐れみを神は私たちに示して下さっていることか!今日も、私たちは癒しと罪の赦しを経験することができる。喜んで、神には何ができるのかを見ようではないか。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト