五三.命の冠

ブルームハルト父子

死に至るまで、忠実でありなさい。そうすれば、あなたの勝利の冠として、命をあなたに与えます。耳のある者は誰でも、御霊が諸教会に言うことを聞きなさい。勝利を得る者は、第二の死によって損なわれることは決してありません。(黙示録二・一〇~一一)

健康になる時、最良の日々は終わったのである。これは、困難な日々は戦いの日々に転じうるからである。病の時、特別な方法で主に呼ばわる機会、主の苦難の中で主と一緒に戦う機会を、私たちは得る。この世の必要に抗して、完全に主と共に立つことができる。叫んで――油断せず期待を込めて――天を見上げ、「あなたの王国が来ますように。あなたの御旨がなされますように!」(マタイ六・一〇)と真に祈ることができる。こうする時、私たちは、つつがない日々を楽しく享受している人々よりも、神の王国に対して遥かにずっと役に立つ者となる。健康な日々は時として極めて実りないものになる、というのは真実ではないだろうか?喜びに欠ける心や鈍感な霊を生じさせるのである。しかし、病の日々は、もし私たちが神に立ち返るなら、私たちや他の人々を天の市民にならせる助けとなりうる。

命の冠が、すでに私たちを待っている――永遠からの何かを感知することは可能であり、神からの何かが地上で明らかにされている。この冠はすでにそこに存在しており、善は私たちの間でますます力強く働いて、他の人々はそれを感知している。赤ん坊の皇子はいつの日か冠をかぶることを、誰でも知っている。皇子が子供にすぎなくても、その僕たちは皇子におじぎして、敵を遠ざけ続ける。同じように、私たちは神の子供なので、この冠を受ける征服者である。私たちは神の僕たちに囲まれている。御使いたちや神の軍勢が、私たちを守るために執り成してくれている。敵は屈服しなければならない。

これを経験するには、まさにイエスの傍らにとどまらなければならない。彼が同行して下さらないなら、私たちはあえて一歩も踏み出そうとはしない。彼が一緒でなければ、私たちは一瞬たりとも忠実であり続けられない。しかし、彼と一緒なら、死に反対することすらできる。これはとても深刻で、とても辛いことだが、神の力の中でそうすることができる。そして、他の人々のために、勇敢にそうしなければならない。私たちがどんな弱さの中にある時でも、たとえ死にとらわれている時でも、私たちが永遠の命を汲み出して自分の死すべき命の中にもたらすことを、神は望んでおられる。このようにして、最後の敵の滅びの時を早める手助けができるのである。

これにより、第二の死――永遠における死の苦痛――は私たちを害せない。ああ、親愛なる友よ、この第二の死は、私たち全員にとって、深刻で重大な意義を持っている。しかし、恐れてはならない。主は私たちが忠実であり続けるよう助けて下さる。これは約束である。たとえ死と地獄によってすでにとらわれていたとしても、たとえ投獄されていて、命の光がほとんど見えないほど打ちひしがれていたとしても、キリストは御名を抱くすべての人々に対する最終的決定権を持っておられることを思い出そうではないか。

どうか主が私たちの人生を共に祝福して下さいますように。主が御霊をもってすべての病人を訪れて下さり、病人たちが自分を悩ます諸々の悪に打ち勝ち、落胆しないようにして下さいますように。

ああ、愛する救い主よ。命の冠を与えて下さい。私たちのためではなく、あなたの栄光のために命を受けるべき人々のために。あなたの弟子となることを願っている、この哀れな世の中にいる私たち全員に、命の冠を与えて下さい。私たちにもっと勇気を与えて下さい、主よ、そして、私たちをもっと喜ばせて下さい。私たちを絶望させないで下さい。アーメン。

クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト