五七.それでは死とは何なのか

ブルームハルト父子

この恵みは、時が始まる前に、キリスト・イエスにあって私たちに与えられました。しかし今や、私たちの救い主キリスト・イエスの現れにより、この恵みは明らかにされています。キリストは死を滅ぼし、福音を通して命と不死とを明るみに出されました。(二テモテ一・九~十)

キリストにより、死からその力が取り去られた。そして、私たちは定められた時に彼を通して死からよみがえる。御言葉はこう告げている、「おお、死よ、お前のとげはどこにあるのか?」(一コリント十五・五五)。

しかし、死はどのように滅ぼされたのか?また、死と不死は実際どのようにして明るみに出されたのか?私たちはみな死ななければならないし、死の恐怖を耐え忍ばなければならない。それでは今、死にどんな違いがあるのか?まず第一に、私たち信じる者にとって、たとえ死ななければならなくても、死はイエスに出会う前とは別のものである。私たちの救い主は言われた、「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きます」(ヨハネ十一・二五)。また、黙示録は言う、「主にあって死ぬ死者は幸いである」(黙示録十四・十三)。

これについて考えると、実際のところ、死を見た者はいないのである。私を信じてほしい。死には死ぬ以上の意味がある。死後、体が傷んでいくとすると、肉体の死の源である魂は一体どうなるのか?

旧約聖書にはハデス、死者の世界について記されている。その記すところは、楽しい光景ではない。ダビデは言う、「死者の中には、あなたの御名をたたえる者はいません。誰が墓からあなたを賛美するでしょう?」(詩篇六・五)。キリスト来臨の前、死がどれほどあわれな人類の上に死後も力を振るっていたのかを、いったい誰が知っているだろう?

しかし、キリストにあって、今や状況は変わった――つまり、福音を受け入れた者たちにとって、状況は別なのである。実に、キリストを通して、死に関して完全な変化があったのである。キリストは「死の力を持つ者――すなわち悪魔――の力」(ヘブル二・十四)を滅ぼされた。キリストは死を滅ぼして、命と不死をもたらされたのである。

それでは死とは何なのか?私たちは確信をもってこう言える。主にあって死ぬ者は、死の力をこの地上で経験するだけであり、彼岸の世では経験しないのである。実に、死を通して、命と不死が私たちに臨む。まさにこの地上の光が消え去る時、光――天の光――が私たちに臨む。それゆえ、私たちは言うことができる、「死よ、私はもはやお前とは関係ない。お前はもはや私を苦しめ、困らせることはできない。私はお前から自由である。もっとも、依然として復活の日を待つ必要があるのだが」。

イエスは体においては死に渡され、霊においては生かされた(一ペテロ三・十八)。死はもはや彼の上に力を振るうことはない。キリストにあって死ぬ者の上に、死はもはや力を振るうことはない。たとえ、復活の日を待たなくてはならなくても。私たち主に属する者は、目を閉じて死の力を打ち破った偉大な勝利者を見る時、喜ぶことができる。去り行く魂が来たるべき命を勝利のうちに握るさまを、私たちは見るだろうし、私たちの周りの人々も見るだろう。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト