五八.谷間を通って

ブルームハルト父子

午後三時頃、イエスは大声で叫ばれた、「エリ、エリ、レマサバクタニ?」(「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか?」という意味である)。(マタイ二七・四六)

神を賛美せよ。イエスは私たちのために死の陰の谷を通って下さった!そして、イエスにとって、これは他の誰よりも陰惨なことだった。自分は神に見捨てられた、と彼は感じた。それでも、見捨てられた状態にあっても、彼はなおも「わが神!わが神!」と叫べたのである。

見捨てられたかのような時、「自分は愛する主から見捨てられた」という感覚に流されてはならない重要性を、あなたは理解しているだろうか?私たちの救い主は、「エリ、エリ!(Eli、Eli!)」と叫ばれた。このヘブル語は「エル(El)」と「イ(i)」から成っており、「エル」は「神」、「イ」は「私の」を意味する。「イ」は単なる一点一画として記される。それでも、この小さな点により、イエスは御父の心に通じる紐を握られたのである。一粒のからし種のような信仰について考えよ。そして、主の約束にしたがって、そのような信仰により何が達成可能なのかを思い出せ。

深い苦しみの中、イエスは戦い抜いて信仰に到達された。そうすることにより、彼は救い主になったのである。それゆえ、私たちは「罪人たちからのこのような抵抗を忍ばれた方のことを思」わなければならない。「それは、あなたたちが疲れたり、落胆したりしないためです」(ヘブル一二・三)。イエスは死の谷を通り抜けたので、私たちをも導いて通り抜けさせることができる。「たとえ死の陰の谷を歩む時も、私はいかなる悪も恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたの杖とあなたの竿、それが私の慰めです」(詩篇二三・四)。

呵責を負った私たちの良心は、彼の慰めを私たちから奪うことを欲する。そのため実に辛くなりかねない!しかし、それでも、キリストは私たちのために血を流して下さった。それゆえ、たとえ良心にやましさを感じたとしても、彼を手放さない限り、もはや勇気を失う必要はない。「あなたの杖とあなたの竿、それが私の慰めです」。何という杖、何という竿に、イエスは私たちのためになって下さることか!

この地上で巡礼の旅にある間、この道は恐るべき困窮を常に通る。イエスご自身の戦いを慰めとして、落ち着いて静かに自分の道を進もうではないか。たとえ、せき立てられ、苦しめられ、多くの方法で攻撃されたとしても。彼は私たちの祝福された望み(テトス二・一三)である。いかなる代価を払っても、十字架に付けられて復活した方にすがろうではないか。歩くための杖として、寄りかかるための竿として、彼を握ろうではないか。そして、常に前進せよ。彼は私たちを王国の栄光に導いて下さるのである。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト