「私たち一人一人が抱えている最も深い必要は、たとえそれを意識していなかったとしても、永遠の命の必要である」。クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルトのこの言葉は、現代生活の多大な誤りの根本的原因を明らかにしている。それは、永遠を思う意識を全く失ってしまったことである。今日、多くの人にとって、最も重要なことは、生活上の一時的な束の間のものである。これは驚くにはあたらない。なぜなら、そうした事柄は身近であり、触れることができ、見ることができるからである。しかし、それでも、これは嘆かわしいことである。なぜなら、これは、永遠に及ぶ人生の広がり――神聖で、したがって永続する、人生のこの部分――が道ばたに落ちてしまい、だれもそれに注意せず、気づいていないことを意味するからである。
永遠が忘れ去られる時、人の未来からその真の意義が失われ、人生の目標は地的水準の達成の探求に限られてしまう。永遠を覚える時、私たちの内にある最善の最も尊いものにより、私たちの視野は広がり、より高い水準にある別の住まいの約束を思い出す。その世界から私たちは来たのであり、その世界にいつの日か私たちは戻るのである。
永遠を思うとき、私たちは知る。私たちの地的存在は、いつの日か、永続する命の永遠の現実によって覆われることを。
私たちの心をこの知識に対して開く者はだれでも、私たちに偉大な奉仕をしてくれるのである。これが、ここに収録された言葉――控えめで単純な言葉――が、こんなにも力強く、意義深い理由である。ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(一八〇五~一八八〇)と、その息子クリストフ・フリードリヒ・ブルームハルト(一八四二~一九一九)にとって、「永遠」とは、たんなる死後の別世界――死んだ魂が安息を見いだす、漠然とした、将来の港――を表す別の言葉ではない。然り。彼らにとって、永遠とは現存する現実であり、その変容させる力はすでに時の中に入り込んでいるのである。また、その栄光は、すでにここかしこに見られるものなのである。それゆえ、私たちにとって、永遠は案内人、灯台、力の源、決して失望に終わらない希望の源なのである。私たちが日毎のパンを必要としているのと同じように、私たちにはこの希望が直ちに必要なのである。
編者一同 一九九九年十二月