本文

ブルームハルト父子

もし、私たちが全体の一部として活発ではなく、さらに高い目標に向かって働かないなら、私たちは内的にも外的にも衰退してしまうだろう。私たちの心が自分自身よりも偉大な任務の中にあるときはじめて、私たちは地的事柄でも成功するのである。社会の一人一人の構成員が、公益のため、被造物のため、神のために、果たすべき任務に取り組まないかぎり、社会は物質的にも、霊的にも、衰退するだろう。


私たちがこれに気づいていようといまいと、永遠は私たちの唯一の喜びである。永遠は、私たちの地上生涯で私たちを強める。地上生涯は、永遠がなければ、儚いものである。私たちが人生に望むもの、私たちに喜びをもたらすものはみな、イエスの御名と関係している。イエスは御父によって私たちに遣わされた天の宝石である。それゆえ、彼の御名にあずかる程度に応じて、私たちの人生の年月は、天的なものによって包み込まれるのである。


神を身近に感じることは、大いなる慰めである。「自分は孤独で捨てられてしまった」と感じるとき、「自分の能力でやるしかなく、自分自身の力に頼らなければならない」と思うとき、気分は滅入ってしまう。神の御使いが自分の周りにいることを感じられないなら、私は一日たりとも生きていたくはない。自分は決して一人ではないことを信じずに、私は一日たりとも生きることはできない。


自分の生きる目的を知ること、そして、私たちの主のために行うことは決して無駄にならず、永遠において実を結ぶことを知るのは、とても素晴らしいことである。それでも、私たちは忘れてはならない。私たちが成し遂げる善はみな、私たち自身の力の結果ではない。ただキリストの血によるのである。もしこれを忘れるなら、私たちの努力はすべて失敗するだろう。なぜなら、つまらないものを脇にやって真理を追究する動機を欠くことになるからである。ああ、人を己の人生の空しさから引き出すのは、なんと困難なことか!


おそらく、私たちを脅かす最大の危険の源は、日々の生活の細々とした普通の出来事に過度に巻き込まれることである――そうしたものにあまりにも束縛されてしまって、私たちの心と魂がそれで満たされてしまうことである。このように生活を送ることは、無防備に、気づくことなく、現実から逸れ、現実から乖離して生活することである。つまらないものに足を引っ張られることを、決して許してはならない。また、この地上のものを深刻に受けとめるあまり、毎日それに悩まされるようなことがあってはならない。絶えず約束によって生きようではないか。


私たちはどん底まで降りていかなければならない。それが私たちの召しである。しかし同時に、自分の心の中に高みを保たなければならない。私たち人類の召しは、死を超えて、永遠にまで及ぶ。どん底の中で神の高みを保つ人々は幸いである。


神が私たちの人生のために与えてくださった礎を見いだす時、私たちは万民を照らす神の光を示される。この光は目に見える世界や、目に見えない世界の光である。そして、私たちは確信を与えられる。私たちの信仰、そして、御父との私たちの関係は、地上における私たちの生活と同じように――それは試練や暗闇で満ちているが――世界の益のために、また人類のためになりうるのである。これが私たちの喜びである。


暗闇の中にあるときも、私たちは光のうちに生きる。悲しいときにも、喜びがある。重荷を負っているときでも、私たちには神にまみえるための翼と、全被造物の永遠の光と命がある。今や、これが私たちの喜びであり、この喜びによって私たちは持ちこたえる。私たちは戦わなければならない。隊旗を高く掲げなければならない。光を輝き渡らせなければならない。決して落胆してはならない。


この世界は現実である。現実だけがこれを征服できる。


イエスはすべてを新しくされる!これが私たちの光である。これにより、極悪さや、人類の最暗黒の場所を見る時でも、私たちは依然として神に信頼することができる。神は天と地の万物を新しくされる。私たちの召しは、新たな地獄を設けることではなく、愛なる神の力により、罪と死に対して宣戦を布告することである。


十字架につけられた御方を思う時、短すぎてはならない。むしろ、自分の全存在をこの方に委ねるべきである。「たいへん結構です。もし自分に対して死ななければならないというなら、そうしなければなりません。しかし、私がそうするのは生ける神の御名によってです――神の裁きの下でのみ、救い主の傍らでのみ、私はそうするのです」。自分を縛るものをこのように解くことができるなら、私たちは救われるだろう。なぜなら、全く新しい人生が私たちに始まるからである。古い世界をこのように明け渡さなければならない――十字架のもとで、裁きによってである――そうするなら、新しい世界が始まるのである。


地上に存在するものの中には、必ずなにか神秘的なものが隠されている。目に見えるものはみな、永遠の印を帯びている。


たとえまだ真の祝福に達していなかったとしても、私たちはそれを望むことができる。なぜなら、私たちには天に御父がいるからである。御父は愛する父であり、私たちは喜びと確信に満ちた心で御父を呼ぶことができる。これは確かなことなので、祝福の波が到来して私たちを覆うだろう。どん底の苦しみをたとえ何度も被ったとしても、この祝福の波は決して私たちから去らないだろう。これは確かなことなので、私たちは泣くことと喜ぶことを同時にできるのである。


「死ね、そうすればイエスが生きてくださる」とは、「あなたの要求を明け渡して、放棄せよ」を意味する。そうするなら、あなたは死を見る代わりに、命を見るだろう。私たちが死を経過しなければならないのは、死ぬためではなく、それによって再び立ち上がれるようになるためなのである。


何度も何度も、私たちは善を経験する――触れることのできる、物質的な形でも経験する。これにより、私たちは理解する。イエスは死なれたが生きておられ、私たちの間で真に生きておられることを。


神の中に生きるようになるやいなや、私たちの人生はすっかり様変わりする。その時、私たちは驚く。以前は私たちを苦しめ、不安に陥れようとしてきた多くのことが、突然、大したことではないように思われるようになるのである。


死のただ中に、私たちは行かなければならない!イエスの弟子として、私たちが最初に学ぶべき学課はこれである。すなわち、復活した方が栄光をお受けになるよう、死のただ中に生きることである。それゆえ、「命のただ中で、自分は死に取り囲まれています」と言ってはならない。そうではなく、「死のただ中で、自分は命に取り囲まれています」と言わなければならない。嘆くべきではなく、賛美すべきである。この真理の重要性を言葉は伝えられないが、すべての人が自分の心にこの真理を受け入れなければならない。あなたはもはや、死の谷から逃れようともがく必要はないし、抗しきれない敵から駆け去るかのようにそれから駆け去る必要もない。その代わりに、復活した方の傍らに堅く立て。そして、死のただ中で命を宣言せよ。イエスは死を征服された。力と光の源である彼により、死の中でも命が勝利するのである。


私たちにも、復活の約束が与えられている。死ぬのは再びよみがえるためである、とほぼ言えるほどである。救い主だけが死者の中からよみがえるわけではない。どうして復活が救い主だけに限られることがあるだろうか?死が私たちに臨む時、私たちはただ死ぬだけではない。死んで復活の中に入るのである。私たちは生きるべき者である。それゆえ、私たちの生活は命の印――復活の印――を帯びているべきである。


神の王国の中には、私たちにはまだ理解できない賜物が幾つもある――命と不死の素晴らしい賜物である――その中に入る時、私たちは一歩ごとに豊かさを経験するだろう。しかし王国は、今は現実のものではない、たんなる将来の観念ではない。私は多くの不幸な人々がこう言うのを聞いた、「惨めな境遇の中で私は幸福を見いだしました。なぜなら、天の王国がすでに私の心の中にあるからです。痛みのただ中で、私は神を見ることができるのです」。


サタンの束縛は打ち破れないものではない。勝利者であるイエスを信じて、熱心にこの束縛に立ち向かう者はだれでも、解放してもらえるのである。キリストご自身がこう言っておられる。「真理はあなたたちを自由にします」「もし子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは本当に自由なのです」と。確かに、勝利はすでに勝ち取られている。なぜなら、私たちの主は神の右に座しておられるからである。主は諸々の賜物を受け取られた。これらの賜物は主のものであって、主はこれを与えてくださる。主を否むものにさえ、与えてくださるのである。主は天から戦われるであろう。それは、主の敵がみな投げ落とされて、主の足の足台となるまでである。全被造物――天と地の全被造物――が喜びの叫びを上げられるようになるまでである。イエスの勝利の偉大さを誰が理解できようか?それでも、彼の勝利を信じて受け入れるやいなや、私たちはこの勝利を受け継ぐだろう。この勝利は現存していて、だれでも見ることができるのである。


イエスが私の主であるかぎり、私は他の何者も必要としない。しかし、私は孤独ではない。なぜなら、地上でイエスのために孤独な立場を取る者たちと共に、天全体が立っているからである。


真の福音の知らせを広めることは、なおも可能だろうか?キリストにあって新たにされる人を見ることは、なおも可能だろうか?多くの人々が諦めて、希望を失った。しかし、たとえ全世界が変革の可能性をもはや信じていなかったとしても、私たちはなおも信じるべきである。キリストが願っておられるのは、この地上に新たな人々を創造することである。キリスト来臨の前でも、人々は幸いな死を迎えることができた。キリスト来臨の前でも、生きるにせよ、死ぬにせよ、慰めを持つことができた。しかし、キリストは来臨して、新たな人々を生み出されたのである。この人々は永遠の命に満たされており、真理と命の源である神の愛で輝いている。


キリストは私たちに約束してくださった。私たちと共にいてくださると。「わたしはこの時代の終わりまで、あなたたちと共にいます」。それゆえ、私たちの弱さや貧困の中にも、キリストはいてくださる。キリストは現存しておられる。キリストはしるしや不思議を行っておられ、キリストにあって私たちは喜ぶことができる。


ひとたびキリストを真に知るようになるとき、私たちは新しい世界に入る。神の豊かさや多様性に圧倒されて、私たちは自分の生活に注がれる神の力を当たり前のように思う――その力は以前なら到底あり得ないと思い込んでいたほどのものである。しかし、これこそキリストにある新しい命を持つことの意味なのである。


信じることの意味は
今ここに
神が現存しておられるのを受け入れることである。


天然的な観点でしか物事を考えないこと、天然の世界からの助けしか期待しないこと――これこそ狂信である!しかし、もしあなたがこのような助けを退けて、聖霊と神の力のみに頼るなら、お前は惑わされていると人々は言うだろう。今日に至るまで、そうだったのである。実は、しかし、聖書的に言って、次のことに間違いはない。すなわち、この世の資源や力に頼ることは、非現実的なことであり、幻想なのである。また、それがまるで実際の助けや救済策であるかのように、そんな馬鹿げたものに頼ることは、狂信的なことなのである。


「神に不可能はない」。神は私たちをも新生した人々にすることができる。神は完全に再生させることができる。神は不敬虔な人々を敬虔な人々に造り変えることができ、サタンの子たちを神の子たちに造り変えることができる。然り、神に不可能はない。神から――神の全能により――必要な助けが与えられると、私たち一人一人が期待することができる。神により、私たちは多くの束縛から解放してもらえる。神によらなければ、その束縛から逃れることも、それに打ち勝つこともできないだろう。


私たちは時や季節から自由である。新年もどうということはない。私たちの人生は永遠の印を帯びており、みかたちにしたがって私たちを創造された永遠の神の印を帯びている。束の間のものに私たちが飲み込まれることを、神は望んでおられない。神は私たちを永遠のものに召しておられるのである。神は私たちを、永遠で満たされた、不死の、悠久の存在としてくださるだろう。


神の計画や啓示に対する洞察力に欠けている人々、識別力のない人々を、誘惑する者はたやすく誘惑することができる。何が真実で何が真実でないのかに関する知識については、次のことを忘れないようにしようではないか。すなわち、イエスは誘惑する者を倒すにあたって、天の現実を私たちが自由に使えるようにしてくださったのである。私たちは自分ではこの世の諸々の法則を超越できないが、イエスと一緒ならできる。信じよ。救い主はいつでも必ず私たちを助けることができる。救い主は、たとえパンがなくても、私たちを養うことができるのである。


キリストは生ける者としてあなたの前に立たなければならない。醒めよ、わが心よ!喜び喜べ、暗闇に打ち負かされてはならない。時代の悲哀に心を満たされてはならない。今は人の時代である。神の時の中に生きよ。キリストはいつでも近づいて、あなたを天に案内することができる。これを忘れてはならない。


束の間の暗闇のただ中でも、永遠の光の中に移されることは可能である。死のただ中でも、命と平安を得ることができる。それゆえ、私たちは働き続け、こう信じ続けようではないか。依然として闇が生じることがあるかもしれないが、それはすぐに雲散霧消するのである。キリストをしっかりとつかんでいる人々は、神の王国の中に、終わりのない王国の中に入る。これが私たちの慰めであり、希望である。


至る所で人々が救われている。すなわち、人々は自分が新しい世界にいることを見いだしつつある。この新しい世界では、悲しみのただ中でも、完全な喜びを見いだせる。この新しい世界に生きること――神の王国の中に生きること――これが人生に力を、どんな苦しみも耐え忍ぶ力を与える。死にかけている時でも力がある。これは、だれでも主の御名を呼ぶ者は救われるという希望を与える。そして、神の力はたとえ静かにではあっても、今ここに働いていることを教えてくれる。


救い主や、御父が与えてくださった約束に対する、適切な信仰の姿勢を私たちが取るとき、新たな光が私たちに昇り、キリストの理念がたちまち喜びと輝きを帯びるようになるだろう。私たちは新たな希望を抱くであろう。「どうして自分は聖霊がおられることをすっかり忘れていたのでしょう。聖霊は日常生活の諸々の決まりに取って代われるのです!」。そして、私たちはもはや、自分の生活の不遇な環境や、諸教会の状況や、罪と地獄の勢力についても、嘆かなくなる。また、預言されてきた危険な時代、終末の時代を恐れなくなる。聖霊の光と力があるなら、私たちは狼狽しないのである。


イエス・キリストを信じる信仰ほど、あなたを健康にする薬はない。キリストは魂の医者であり、今の時のために、また永遠にわたって、体と魂を健康にしてくださる。喜んで彼の癒しの泉から飲む人々に、キリストはこれをみな与えてくださるのである。


信仰を持つ者たちを守る神の守りは、なんと偉大なことか!まさに、天使たちさえもが、私たちに仕えるために待機しているのである。私たちには天使の軍勢は見えない。しかし、時が来れば、私たちは天使たちの臨在を、神の救いの計画の証拠として、また、昔の諸々の物語が示す真理を思い出させるものとして、知覚することを許されるようになるだろう。なぜならついには、当初の御旨にしたがって、神はこれまで行ってきたどの奇跡よりも偉大な奇跡――全世界の贖い――を成し遂げてくださるからである。


人々は、死ぬとたちまちすべてうまく運ぶと思っている。しかし、此岸で永遠の命を持っていなくても彼岸は此岸に優る、とあなたは本当に思っているのか?あなたに希望を与えるものは何か?人々が死ぬ時、彼らは死後も生前と全く同じであるように私には思われる。もし人々が今生で自分のことしか見聞きしないなら、来世でも同じではないだろうか?しかし、まだ地上にいる間に永遠に捕らえられるなら、死は――体を脱ぎ捨てることは――天の喜びで満たされた新しい生活の始まりと比べて、たいしたことではないだろう。


この世は機械に望みを置いているが、それと同じ確かさで、私は御霊の力に望みを置いている。御霊の力はとても強いので、絶望的に見えるものをことごとく一変させることができる。御霊は、新しい天、新しい地、新しい命をもたらしてくださる――私たち自身がこれを見るだろう。


神は天と地の偉大な神であり、その優しさは最も身分の低い人々にも及び、彼らを内的にも外的にも助ける。この神の素晴らしい善良さを多少なりとも知らないかぎり、神の何たるかはわからないし、神の平安により高揚感や支えを感じることもない。詩篇作者は言った、「私たちは、私たちを助けてくださる神、私たちを死から救ってくださる主を持っています」。ああ、神がどれほど私たちに身近かを理解する信仰が、私たちに真にあれば!


神の過去の御業に迫って、それを大事にすればするほど、私たちはますます神の歴史を経験するようになるだろう。つまり、今日も世界でなされ続けている神の御業を経験するようになるだろう。その時、私たちは数々の奇跡を見るだろう――奇術師のトリックではなく、神聖な不思議を見るだろう。忍耐しようではないか。人の式服はなおもはがれ落ちていき、その後、私たちは永続するものを見るだろう。人々の本に記されているどの業とも異なる業を見るだろう。


私たちには神からの力が必要である。その力により、私たちがこの世の物事に仕える時でも、私たちはそれに永続する価値を持たせることができるのである。


ひとたび神の世界の中に――イエス・キリストの世界の中に――入るなら、数々の新たな可能性が開かれる。体や魂でそれに気づく時、「もっと多く与えてください」と私たちは求めることができるようになる。


私たちがキリストを信じる時、数々の偉大なことが起きる。私たちの思いや感情は一変し、私たちの振る舞いも変化する――私たちの気質はすっかり変わってしまう。幸福感、思慮深さ、愛、平和。内なる静けさと、体や魂の傷からの癒し――信仰と共に、このようなものがすべて到来するのである。これは復活のようである。しかし、このような賜物はますます顕著なものとなることは確実である。もし私たちがより大きな信仰を持ち、ますます子供のようになるなら――もし私たちがこの新しい性質に到達することをもっと願うなら。


多くの人々は言う、「生きていて何になる?死んでしまいたい!」と。しかし、このように言う人々は、御霊の形跡をすべてなくしているのである。命が神から賜った宝であることを忘れているのである。命を尊重すること、これが大事である!あなたの家に――あなたの生活の中に――新しい人が来るたびに、「どうしたらこの人の人生を喜ばしいものにできるのだろう?」と問え。「この男性に何の価値があるのだろう?」とか、「この女性は自分のために何ができるのだろう?」と問うてはならない。愛を与えよ。そうすれば、あとのことは自然に成る。しかし、「どうしたら他の人々に喜びをもたらせるのか?」というこの問いを常に念頭に置き続けよ。


キリスト教の本質を言葉の中に求めるのは無益である――イエスの御言葉の中に求めることすら、そうである。なぜなら、たとえ最善の体系でも、それを要約することはできないからである。キリスト教の本質は、別世界からの賜物にほかならない――しかしその場合でも、「クリスチャン」活動の喧騒のせいで覆われてしまうことがしばしばである。たとえそうではあっても、私たち一人一人がそれを望むことができるし、自分のためにそれを見いだすことができる。不可能なことでも可能になる。それは私たちを取り囲んで、命と輝きではじけている力によってである。


男と女がまだ神に属していた時はパラダイスであった。彼らがもはや神に属する者ではなくなった時、パラダイスは終わりを迎えた。その後、神の御子であるイエスがこの世界に来てくださり、パラダイスが回復された。これは実に単純なことである。イエスのもとに来て、彼に触れてもらった人々は、至福に満たされ、内的にも外的にも命にあずかった。イエスには命の言葉があり、彼の周りにいる人々はまるでパラダイスにいるかのようだった。これは今日、私たちにとっても同じである。命の言葉がある所には必ず、パラダイスがあるのである。


「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいるであろう」。イエスが私たちの間におられる時、私たちがどこにいたとしても、この御言葉は真実となる。


今日、キリストは私たちに現れることを願っておられる――おそらく隠れた形で、また、おそらくただ御霊によって――しかし、永遠の命の鮮やかな開始を伴わないことはない。この自覚を得る人はだれでも、キリストがいかに実際的かを悟るだろう。


神の御言葉が私たちに現れる時は常に、私たちの内にある永遠の火花が淵から現れて、光に向かって昇っていく。私たちは別人になる。魂は目覚めて活発になり、霊は眠りからさめ、自分の源――神――に対する欲求が内側に湧き起こる。私たちは真の自分になる。私たちの目が開かれてキリストの輝きを見る時、私たちは全く変容する。逆もまた然りである。私たちの目が彼の光を受けない時、私たちは完全に盲目のままなのである。


神はあらゆる種類の力を送って体と魂を助けてくださる。神はそれらの力を個人的な賜物として授けてくださる。無数の形で、神の力は私たちを取り巻いており、私たちと同行している。神の力は多様性に富んでいるのである。


神は私たちに大きな優しさを示してくださる!神が私たちのために施してくださる親切を一日でも数え上げるなら、私たちは驚くだろう。しかし、私たちはその大部分を見ておらず、気づいてもいないのである。神に対する私たちの意識が、その日の不快な出来事を飲み込むほどのものであればよかったのに!しかし、大抵はその逆である。不快な出来事が良いものをなんでも飲み尽くして、背後に押しやってしまいがちなのである。自分に対する神の愛を受け入れることを学んでさえいれば、陽気な心境に達するのは難しくなかっただろう。そして、不愉快な生活環境を無視できただろう。不愉快な生活環境は――神の親切さという光に照らして見るなら――存在しないも同然なのである。


私たちは死の時代に、死に瀕している時代に生きている――私たちはこの事実に直面しなければならない――時がたつにつれて、私たちの力は減少せざるをえない。然り、最大の体力――きわめて活発な知性や心――さえも弱くならざるをえない。私たちの行動や思いや感覚を、ことごとく死の法則が取り囲んでいる。しかし、この死の中に入り込む命の法則も存在している。それは主イエスご自身である。主イエスは永遠に生きておられる御方である。彼は死者の中から復活して、別世界から私たちのもとに来てくださる。彼は私たちに御霊を伝達し、私たちの死のさなかで、恵みをもって、また来臨の約束をもって、私たちを新たにして生かしてくださるのである。


言葉や行いを尽くしたところで、最悪なのは信仰があって信仰がないことである。信じていても、実際には信じていないことである。救い主に願い事をしても、彼からなにも期待しないことである。その御前ですべての膝がかがまなければならない神について述べていても、悪魔の方が神よりも強いのではないかと心配することである――そしてそのせいで、自分たちに約束されているものを求める勇気や確信に欠けていることである。もし私たちが真に救い主に信頼していれば、もし私たちが「神の右手におられる私たちの兄弟であるイエスには、神の子供である私たちを救う力がある」と本当に確信していれば、私たちの助けはすぐ近くにあって、たちまち私たちに臨んでいただろう。


私たちは天にいる者たちと競争しなければならない。私たちの任務は、地的弱さの中で、地上で光を与えることである。天にいる者たちの任務は、永遠の明るさの中で、天で光を与えることである。どちらが多く働くだろう?いつの日か恥じ入ることがないように、用心しようではないか。私たちの持ち場は違っていても、競争は同じであり、目標も同じである。共に進もうではないか。天にいる者たちは天で自分たちの義務を果たしている。私たちは下界でそうしているのである。


神の善は悪よりも強い。たとえ、「地上では後者の方が前者よりも強い」と人々が主張していたとしても。善には決定的力があり、無敵である。この自覚と希望のうちに、私たちは生きるのである。


私たちは世界を征服しなければならない。なぜなら、神の王国はこの世界の中に到来しなければならないからである。


神を賛美せよ――天にいる者たちと天に向かって奮闘している者たちとが一つになることは、不可能ではない。なぜなら、私たちには救い主があり、この方にあってすべてが一つになるからである。この方にあって、先だって行った者たちと後に残された者たちは一つにされる。実は、これは分離ではない。然り、救い主にあって、私たちはすでに一つなのである。今日、私たちは互いに迎え合うことができるのである。


信じよ。天は開かれており、もはや閉ざされていない。私たちは思い浮かべることができる。自分が天で神の栄光の中に、愛する御父の御心の中にあることを――邪悪な勢力から全く解放されて、真に自由であることを。私たちはすべてを望むことができる。その成就はもはや私たちから遠くないからである。たとえ天に昇ることはまだできなくても、そのような昇天を依然として垣間見ることはできる。なぜなら、私たちの主が復活して昇天されたように、私たちもそうなるからである。これが主の御旨である。


もし神が死者を目覚めさせる神でないなら、もし神が人類の歴史をこのまま耐え忍ばなければならない神なら、もし過去の歴史を消し去ってやり直すことが不可能なら――神を信じる私たちの信仰には目的がなくなってしまうだろう。今すぐ、私たちは諦めてしまった方がいいだろう。しかし、神は新しい命の創造者である。神は大いに偉大であり力強いので、世界は破滅と死に向かっているにもかかわらず、なおも世界を反対の方向に、命に向かわせてくださるのである。


十字架上で私たちの主は戦い抜いて完全な勝利を獲得された。主にはもはや墓はなく、死もない。最悪の敵さえも征服された。だから今から後、すべての者が――まだ生きている者も、すでに死んでいる者も――主に属しているのである。彼は生者の主であるだけでなく、死者の主でもある。


身近な人が死ぬ時、「今、この人は何をしているのだろう?」と私はしばしば疑問に思う。すると、「今、この人は学校に通うことになります」という答えが与えられる。なぜなら、私はこう思いたいからである。キリストは私たちを裁いた後、私たちをご自分の学校に入れてくださるのであり、私たちは死んでいても自分が神の子供であることがわかるのである、と。


死はまさに生の一部である。私たちは死をそう見なさなければならない。死の間際でも、救い主が多くの人のもとに来てくださった様子を、これまで私たちは見てきたのではないだろうか?救い主が来てくださったおかげで、いまわの際に目を輝かせた人々がどれほど多くいたことか!それゆえ、喜びと希望に満ちよ。そして、死の時に救い主が再び来てくださると、何度も何度も心せよ。


私たちは決して孤独ではない。私たちにイエスがあるかぎり、彼の天使たちが私たちの周りにいるのである。


あなたにもっと信仰がありさえすれば。あなたの悲しみにもかかわらず、主はあなたのために偉大なものを用意しておられることを、あなたが理解しさえすれば!それはあなたの望むものではないかもしれないが、間違いなく遥かに素晴らしいものである。あなたが損失を被る時はいつでも――愛する者がいなくなったり、別の悲しみがあなたの道に舞い込むときはいつでも――信頼して信じよ。もしあなたの悲しみが続くなら、祈れ。主はあなたのために働いておられる。もしあなたが主の愛に少しでも気づくなら、たとえ悲しみの中にあっても、喜びが湧き起こるだろう。


私たちは確信をもって言うことができる。主にあって死ぬ者たちに対して、死が力を振るうのはこの世だけであり、次の世界ではもはやそうではないと。彼らのために、死は不朽の命をもたらす。なぜなら、地的な命の光が消え去る時、新しい天の光がともるからである。キリストについて、「体においては死に渡され、霊においては生かされた」と述べられている。主にあって死ぬ者たちも同じである。


あなたは信じなければならない。救い主にあって死ぬ人は、失われることはないと。嘆いてはならない。キリストの勝利の御霊の中で、十字架のしるしの下に生きよ。一度あなたが自分の命を主に委ねるなら、死はもはや垣根である必要はない。そのとばりは貫かれた。確かに、あなたは以前亡くなった人々を見ることはできない――あなたはまだ地的であり、彼らは天的である。しかし、証人たちの雲に囲まれているのを、あなたは感じることができる。天にいる者たちと、あなたは交流を持てるのである。


苦しみに遭い、恐れを耐え忍ぶこと、これがまさに私たち人間の定めである。苦難と苦しみよ、来たれ、誘惑と迫害よ、来たれ!こうしたものは、私たちに対する神の大いなる愛と比べれば、ささいなことである。そして、私たちが神の愛を高らかに賛美すればするほど、神はますます力強く私たちの傍らに立ってくださる。実に、私たちは全世界に挑むことができる。なぜなら、私たちはキリストが主であることを知っているので安心だからである。キリストは悪をすべて贖うことができる。キリストによって、すべての権威たちや主権者たちは、神の御前にかがまなければならないのである。


聖霊ご自身を説明することはできないが、その働きを説明することはできる。聖霊の働きは神の現実を示す。ひとたびこの現実が私たちに触れる時、私たちは神に気づき、神がそこにおられることを感知する。私たちがこの現実を常に意識してさえいれば!なぜなら、実際のところ、この現実をひとたび経験するとき、御霊の中を歩むこと、この神の現実を生活のごくありふれた諸々の面にもたらすことが、私たちの義務になるからである。神の現実という光芒の中にすべてをもたらすこと、これが私たちの義務である。


主なる神よ、あなたの世界を私たちに開いてくださったことのゆえに、そして、あなたの御子イエスを通して私たちに天の王国に入る権利を与えてくださったことのゆえに、あなたを賛美します。あなたにお願いします。束の間のものと永遠のものとの違いを見分ける識別力と、被造物の中にも永遠の栄光を見る澄んだ目とを与えてください。それは、あなたの御手から来るすべてのもののゆえに、あなたに感謝できるようになるためです。アーメン。