1.神の王国

クリストフ・ブルームハルト

神の王国は、この世の諸宗教とは少しも同じではない。神がご自分をひとりの聖なる神として啓示されるのは、ただ御霊の働きによってであり、敬虔さや学識がいくらあろうと、それに代わることはない。神の御子、イエス・キリストは、天にではなく、この地上に生きておられる。たとえ、目立っていなくてもそうである。ここに私たちの希望がある。

復活した方は、人々をご自分に引き寄せることを願っておられる。それゆえ、ある特定の信仰告白の宣伝活動には、全く関心がない。あなたは立ち上がって、この福音を示さなければならない。人々が何者だろうと、福音は万民を照らす。

イエスの出身は卑しかったこと、彼は卑しい者のために来られたことを、決して忘れてはならない。見晴らしの良い彼らの立場から、イエスは世界を照らされる。贖いに対する期待、社会や国々の癒しに対する期待、神が地上に天の王国をもたらしてくれるよう望む願い、資本家たちが大衆を奴隷のように扱うのをやめるよう望む希望――これにより、私たちはみな、つつましい踏みにじられた人々の心と一つになるのである。

彼らは、たとえこれまで神を求めてこなかったとしても、神の王国という言葉の意味を理解するだろう。

私の見るところ、神の怒りがキリスト教圏に押し寄せている。これはまさに、驕り高ぶったヨーロッパ文化や敬虔ぶったキリスト教がこの人々に押しつけられてきたためであり、それと同時に、彼らがさげすまれてきたためである。私たちはみな――人々が私たちのことを異教徒と呼ぼうが、クリスチャンと呼ぼうが――神に属している。これを忘れることは、頭が硬くて暗愚であることにほかならない。これは嘘つきの霊から発している。ローマ人が皇帝によって損なわれたのと同じくらい、ヨーロッパ文明全体が損なわれている。ヨーロッパ文明は、世界の他の部分を汚れたもの、搾取の対象と見なしているのである。

どうしてこんなことが立ち行くだろう?神は介入して私たちの目を開かなければならない。私が知る助けは唯一これだけである。この世の君がこれ以上勝利するのを許してはならない。この世の君は、勃興する人類を、すでに何度も踏みにじって汚泥の中に突き落としてきた。このようなことをこれ以上許してはならない。

人の力に基づいて、神の王国のために何かを成し遂げることはできない。「私たちはつまらない僕です。自分のなすべきことをしたにすぎません」(ルカ十七・十)としか私たちには言えない。イエスはご自分のぶどう園で働く働き人たちを力づけて、この世を征服させられる。それをなすのは私たちではなく、御霊である。御霊は私たちの中で、私たちを通して働かれる。御霊の前に、他のすべての霊はかがまなければならない。人々の心があなたに向かう時、これがあなたの経験することである。だから、神だけが働かれるようにせよ。太陽は至る所を照らし、最も薄汚れた所さえも照らす。神はこの太陽のような御方である。

あなたが何をするにしても、宗教や政治組織の貪欲な手に、神の働きを渡してはならない。既存の「キリスト教」に勝利する唯一の道は、命の運動と大衆の切望である。神は私たちに人々の心を与えてくださる。その時、偽りのキリスト教の諸々の偶像は倒れるだろう。

今まで、宗教的指導者たちは知的な方法や霊的な方法で努力してきたが、人々の実際生活を無力さと罪という暗夜の中に置き去りにしてきた。この世はのろのろと引き回されてきた。知力に欠けていたわけではないが、道徳的退廃の度がそれに匹敵していたのである。しかし、今は新しい時である!真理の御霊と王国の義が、実際生活、政界、社会生活、産業界の中に入り込もうとしている。神はまことの知識のために基礎を据えようとしておられる。政治やそれにまつわるものはみな、神の御旨に服従しなければならない。

神の王国が地上を制するのである。神の方法は、まず、生活の実際的な物質面を確立することである。その後、霊の命が効力を表すようになるのである。この方法は権力を私たちの足の下に服従させる。これがなされないかぎり、霊的働きにおける私たちの努力は何の効果もなく、私たちは風の吹くままに翻弄されるだけだろう。霊的枠組みが生じなければならないが、それは人々の自然な生活から生じなければならない。その時、神の支配というこの良い知らせを、それを実現させる力をもって宣べ伝えられるようになるのである。

中国人が正しい道――教会や教義の道ではなく、自由で敬虔な道――に導かれるよう、私は祈る。そうなるなら、中国人は自分たち自身の文化や言語のまま、将来、神の王国と一つになるだろう。それゆえ、経済や政治の問題に関して、今生きているこの時勢にしたがって、中国人が自分たちのペースで成長するようにさせよ。必要なものは何であれ、私たちがおせっかいをやかなくても、自然に神から与えられるだろう。

牧師としてのあなたの身分は、少しずつ無関係になっていくだろう。預言者や、預言的活動をしている人はみな、「政治的」になるものである。神の王国を求めることは、人々の世に導くからである。神が人々の心をあなたに与えて、人々があなたに信頼するようになる時、人々はたとえクリスチャンとは呼ばれていなくても、神の王国の中に入るだろう。事実、罪や不信仰という野蛮さから人々を導き出すことよりも、キリスト教の教会という泥沼から人々を導き出すことの方が難しいのである。結局のところ、多くのクリスチャンは自己欺瞞の中に生きる洗練された野蛮人にすぎなくなってしまった。それゆえ、あなたが神の御霊と調和して生きているかぎり、異邦人の中の異邦人と呼ばれることを恐れてはならない。

あなたの話では、ヨーロッパの多くの国々に存在するのと同じ混乱や無力さが中国にも存在するとのことである。大衆は抑圧に反対して叫んでいるが、政府が大衆の上に不動の墓石のようにのしかかっている。至る所で人が専制政治をしいており、少しでも譲歩するくらいなら、人民全員を虐殺するだろう。

この世の君が、あらゆる政府の背後で支配している。それらの政府が「自分たちはキリスト教に基づいている」と主張している時は、さらに悲惨である。人の計画が絶対的支配を続けているので、イエスとその御霊は支配できずにいる。

この世の政府の背後にいる悪鬼的勢力を考えると、中国政府に政治的に影響を及ぼそうとしても、大した成果はあげられないだろう。苦しむ人々を救おうと真に願っている人はみな、既存の勢力によって必ず沈黙させられてしまうだろう。それでも、政府と交渉して何らかの抵抗活動をするよう、あなたが見識のある人々を励ますことに、私は反対しない。しかし、その人々は、少なくとも経済面で、信頼のおける人々でなければならないし、人々が自立する自由を手に入れる助けとなる類の権威を持っていなければならない。

あなたの主な任務は、神の助けにより、学校やあなたが関わっている至る所で、人々を訓練することである。神の真理を示して隣人の幸せを何よりも重視する人々を訓練することである。これには、もちろん、神の御霊の力が必要である。それは新しいバプテスマ――人々からではない、神からのバプテスマ――のようでなければならない。この力を私たちは忍耐して待たなければならない。私たちにできるのは、目の前にあることを日々こなすことだけである。溜め息をつきながらこなすことも、よくある。それはみな空しく思われるからである。それでも、私は信じているが、静かに進歩しているのであり、新たな時が用意されつつあるのである。

神の王国とその義を求めるとき、霊的基盤の上にだけでなく、経済的基盤の上にも建てるようにせよ。なぜなら、イエスが地上で勝利されるのは、物質面においてだからである。私たちの宗教的集いや観念のすべてを、悪魔はあざ笑っている。日常生活や実際の働きを正すことに失敗している宗教団体は、仏教徒であれ、カトリックであれ、敬虔主義者であれ、すぐに大失敗に終わるだろう。どんなに宗教的に見えたとしても、宗教が人々から真の生活を奪い取っていることに対して、決してキリスト教的弁解をしてはならない。人々は武器や宗教の力によってではなく、実際の働きによって適切に導かれなければならない。

ある日、神の王国が地を征服する時、真の敬虔さにより、実際的な活動や働きが満ちるだろう。なぜなら、人々が真に一つになれる唯一の基盤は、共同生活の益だからである。これについて、さらに深く考えよ。神の王国に関するかぎり、キリスト教の諸教会はもうおしまいである。なぜなら、個人的関心や利益に注意を払う利己的な社会にすぎず、そのせいで人を遠ざけているからである。大衆の悲惨さを和らげる唯一の方法は、同じ霊によって生活する、互いに実際に助け合う人々の群れを形成することである。最終的に、これが権力者たちに影響を及ぼす最も確実な道である。実際面で物事を成し遂げる人々の群れが、尊敬と権威を得るのである。

これにあなたは衝撃を受けるかもしれない。しかし、私たちの宣べ伝えは、「宗教知識自体には――少なくとも神の王国に関するかぎり――何の価値もない」と人々が感じるようになるものでなければならない。特に隣人に対して真に活動的になる方法と、充実した生活を送るのに必要なものを万人が持つよう配慮する方法を、人々は学ばなければならない。教育を受けた人ならだれでも、神学者以上にあなたの助けになるだろう。これは神学の問題ではなく、実際的知識の問題である。私たちは真の目標――人々の益――を心に留め続けられるようにならなければならない。これがキリストの心であり、精神である。これが、まず神の王国を求めることの意味である。

キリストの力があなたの周囲の万物に――そして万民に――浸透しなければならない。キリストの御霊の働きは、一人の個人の努力にかかっているのではなく、むしろ人々や場所を神の聖所として整えることにかかっている。もし中国という国の中に――人々自身の中に――足がかりを見いだせないでいるなら、あなたは自分の家を砂の上に建てることになるだろう。あなたはこの人々の一員でなければならない。それは最終的に、あなたが支援者なしでもやっていけるようになるためである。政府の役人や成功した実業家から敬われるよりは、むしろ低い立場にとどまれ。

唯一の真の純粋な働きは、隠されている。それは神秘である。私たちのしていることをたとえだれも理解できなくても、私たちは多くの努力と汗をもって働かなければならない。人々は外面的成功しか重んじないが、これは致命的である。彼らは何事も自分自身の考えにしたがってやりたがる。神の統治の到来のために戦うより、この世を攻撃して征服しようとするのである。しかも、キリストの御名によって。これは霊的傲慢にほかならない。

あなたの忠実な働きが外面的成功を収める時、それはまさに神の祝福のしるしかもしれないが、それによって逸らされてはならない。私たちはさらに偉大なもののために努力しているのである。何か新しいものを直ちに用意して、完成させなければならない。私たちはその手助けをすることができる。ただしそれは、神が働いておられる場所に私たちが忠実に留まるならばの話である。私たちは無である。私たちに耳を傾ける人は、最終的に、身分の高い力ある者ではなく、貧しい惨めな者になるだろう。それでも、私は地上の偉人にくみして場所を変えたりはしない。それゆえ、ただ岩の上にのみ建てるようにせよ。権力や影響力を求めるすべての輩から逃れるためである。

神の王国では、後戻りはできない。それゆえ、心血を振り絞って、神の王国のために奮闘せよ。あなたや私の働きは二次的である。私たちは、神の未来を待望する霊の器にすぎない。これについて考えよ。あなたの内にある――忠実な人々の内にある――神の王国が出発点であり、そこから救い主はご自分の御旨を勝利に導かれる。あなたの働き全体にわたって、神の王国は進展中であるという思想を堅く握りしめなければならない。この希望は、どんな働きをする時も、私たちにやる気を与えてくれる。この希望により、私たちは前進するのである。

これは、私たちの主要な関心が自分の実際の働きであってはならないことを意味する。この世にあるものは何でも――諸宗教も含めて――力強く、成功を収めているように見える。他方、私たちは弱く、たやすく隅にやられてしまう。しかし、より堅固な立場の上に立っているのはどちらだろうか?

神の王国は、奇妙な数々の形で働く。今日、神の王国を現している教会、会衆、民族、国家はあるだろうか?一人でもいるだろうか?昔、人々は、プロテスタント教会に、モラビアの群れに、敬虔主義に、神の王国を見たと思っていた。今日、神の王国は表面下で活動しており、すべての国々を発展させている。神の王国は数々の新しい形で広がっている。これは私たちの理解を超えている。しかし今、かつてなかったほど、「主は近い!」と私たちは宣言しなければならない。私たちは、静穏かつ積極的に、信仰と期待により、その一部なのである。神がこの世界の生地に御旨を織り込んでおられることを知れば、それで十分である。神は目標に到達されるだろう。この人やあの人に対する目標に到達するだけでなく、万民に対する目標に到達されるのである。

神の王国はどこから来るのだろうか?この世の歴史全体が、この約束の成就ではないだろうか?束縛は解かれ、鎖は断ち切られているのではないだろうか?中国の男性だけでなく、女性に対しても新しい道が開かれるとは、一体誰が三十年前に考えていただろうか?イエスは生きておられ、ますます征服される。イエスがすべての背後におられることに、たとえ私たちが気づいていなかったとしても。もちろん、このような進歩は、人々が神に立ち返りつつあることを示しているわけではない。しかし、この実際的解放のおかげで、神の王国は人々の間に入り込むことができるのである。

神の介入を真に活き活きと望んでいる人は、ほんのわずかしかいない。しかし今、御霊の動きが世界中を駆け巡っている。世界は途方もない変化を経験しており、すべてが揺り動かされている。しかしそれでも、その背後には、静かだが力強い、平和、恵み、友好の思いが人々の間に存在している。神は前に向かって闊歩しておられる。隠れたキリストが働いておられる。あなたが常にこれを眼前に置きますように。私たちは裏方だが、私たちの祈り、信仰、希望は、すべてその一翼を担っている。私たちは減少し、彼が増し加わらなければならない(ヨハネ三・三〇)。私たちの生活はこれをはっきりと示すものでなければならない。