2.宗教を超えて

クリストフ・ブルームハルト

御霊の動きは宗教からは決して生じない――特に、教会の教区司祭館や牧師館から生じることは決してない。制度的教会は、いわゆる知恵とやらにより、自分たちの権威を用いて、御霊の自由な動きをことごとく損なっており、そうでない場合でも、せいぜい無視を決め込んでいる。御霊の動きはあまり広まっていない。御霊の動きがある所には、人を敬う福音の喜びがある。人々を打ち砕くメッセージではなく、性格を建て上げる神の愛から発するメッセージがある。

神の王国を心に留めよ。そうするなら、実を結ぶだろう。外国でのあなたの経験により、神の王国の種は発芽・成長する自由をますます得るだろう。人なるイエス・キリスト、神と人類の間の唯一の仲介者と共に、私たちは真実な人でなければならない。その間に割り込む仲介人を排除しようではないか。それは、私たちが牧師や司祭としてではなく、キリストの弟子や僕として、万民に接触できるようになるためである。なにかを説かなければならない時は、神の支配権を説け。この世の騒ぎや猛威にもかかわらず、そうせよ。

教会やその外国宣教への取り組みが私たちに課している恐るべき制約から逃れることは、たいへんな戦いである。私たちを自由にしてくださいと神に祈れ。神の恵みにより、貧しく踏みにじられている人々があなたに群がるとき、自然に事が運ぶだろう。労働者階級の間の使徒的任務には力があることがわかるだろう――神に対するこのような飢え渇きを、私は他所で決して見たことがない。彼らは生き抜こうとして神を脇にやってしまうこともしばしばあるが、それにもかかわらず、彼らは神に導かれており、その心の中には世界の贖いを願う願いがある。

なんとしても、同胞であるドイツ人のクリスチャンたちに気兼ねなく奉仕せよ。しかし、中国人を締め出してはならない!「父がわたしに与えてくださった者はみな、わたしのもとに来ます。来る人をわたしは決して退けません」(ヨハネ六・三七)。これは生ける救い主の御言葉である。無価値な人、軽蔑されている人、踏みにじられている人が、あなたのもとに来るだろう。その人が自分と共にいることを、あなたが許しさえするなら。

キリスト教に対するドイツ人の典型的見解は、「復讐」や「正義」の名の下に戦って、福音のための道を切り開かなければならないというものである。十字軍の時代、人々は剣を突き付けられて「回心」させられたが、今日のキリスト教の教会の矛盾は、その頃と同じくらい酷いものである。

これから信じる人々を、彼らを罪に定める敬虔ぶった人々から守れ。左も右も見てはならない。万民の救い主であるキリストに従え。

殺人がこれほど多いことに、私の心は痛む。ヨーロッパのクリスチャンたちは、中国人を殺すことで、自分自身の頭上に呪いを招いてしまった。クリスチャンたちは中国の人々を癒す代わりに、彼らがヨーロッパ人ではないからという理由で、彼らを罰している。キリスト教の上に裁きが臨んでいる。敵を愛する力に欠けているからである。塩は味を失い、なんの役にも立たなくなった。

こうしたことはみな、「文明人」はキリストを理解できないことを示している。悲しいことに、宣教協会も同様である。実業家、宣教士、兵士――彼らはみな、自分なりの方法で、人々を神の御手に委ねる代わりに、自分たちのポケットに入れることを欲している。さらに、全く異なる信条や観念を持つ無数の宗派が、最大の妨げの一つとしてキリストを妨げている。これらの宗派は、キリストにあって神は全世界を和解させてくださったことを(二コリント五・十九~二一)理解していないのである。

あなたが中国の隣人たちの友になっていることを、私はとても嬉しく思う。しかし、あなたが彼らの心を勝ち取ることを、私は大いに願う。また、あなたが病める極貧の人々と共に働いていることも、私は嬉しく思う。たとえ多くの人々の行いが邪悪だったとしても、神の父なる御手は再び良きものを生じさせられるだろう。しかし、何人も私たちの決まり切った方法でクリスチャンになってはならない。どうか神が、私たちの意志にかなうバプテスマではなく、神の御旨にかなうバプテスマを与えてくださいますように。それは、人々が真に自由な解放された者となるためである。人々がクリスチャンと呼ばれるかどうかは重要ではない――たとえ多くの教会が、それを重要だと考えていたとしても。

諸々の教会や分派は、会衆やバプテスマを案配することによって、つまずきの石や不調和にほかならないものを造り出している。神の王国が前進しつつあるこの終末の時代、このようなことは全くの場違いである。最初の頃、大集団が幾つもバプテスマされたが、そもそもその時からなにか誤解があったのではないかと、実際のところ私は疑問に思っている。おそらく、コルネリオが御霊のバプテスマを受けた後、「一体誰がこの人々に水のバプテスマを差し控えさせられるでしょう?」(使徒十・四七)とペテロが言ったのは、「御霊が臨在しておられるのに、どうしてわざわざ水にこだわるのでしょう?」ということを単純に意味していたにちがいない。同じように、「行って、すべての諸国民をわたしの弟子にしなさい。至る所で彼らをバプテスマしなさい」(マタイ二八・十九)と言われた時、イエスは人々を水に浸すことではなく、御霊のバプテスマを強調しておられたのであることは、私には自明に思われる。

イエスが意図されたような形で、あなたが中国人と交わりを持つなら、その結果、人々はあなたに信頼するようになり、あなたは彼らを教えられるようになるだろう。それにより、この真のバプテスマ――御霊のバプテスマ――が与えられるだろう。おそらく、後に、さらなるバプテスマがこれに続くだろう。しかし、それが教会式のバプテスマ、水による人のバプテスマである必要はあるのだろうか?私はあなたにお願いする。あなたを信頼してあなたのもとに来る人々を、あなたの羊、あるいはむしろキリストの羊と見なしてほしい。そして、水のバプテスマに基づいてなんの区別もしないで欲しい。要するに、バプテスマする人を選ぶことを避けてほしい。彼らをみな引き受けよ。そうするなら、神は広大な領域に対する権威を増し加えて深めることができるようになり、数百万の人々が自分たちに与えられた御霊にしたがって天の父を見いだせるようになるだろう。その時、彼らの諸々の偶像は自然に倒れるだろう。

バプテスマを受けることを願う人々だけでなく、人々全体に手を差し伸べることを、あなたは目指さなければならない。不幸なことに、今日の宣教団は、人々に福音をもたらす代わりに、地方教会を確立するという馬鹿げた考え――それは確かに人にとっては栄光なことであるが、神に対する侮辱である――を追い求めることを欲している。全世界を救う福音ではなく、個人の救いに神を制限する偽りの福音を、彼らは好んでいる。私は勧める。数々の原則について述べたり、議論したりせず、ゆっくりと進め。

あなたは神の歴史の決定的岐路に立っている。それゆえ、教会奉仕や宣教の前哨地を「組織」する組織的方法に陥ってはならない。私を信じてほしい。あなたがバプテスマし始めるやいなや、おべっか使いや甘い汁を求める人々をあなたは引き寄せるだろう。そして、神はご自分の羊を引き上げてしまうだろう。中国人には中国人のようになるよう努めよ。たとえその結果、教会の方針に沿っていると思っている人々から分離することになったとしても。私の言っていることがわかるだろうか?神は新たな扉を開き、新たな器を備えてくださる。御霊は古い器にとどまられないからである。

秘蹟に頼ることがどれほど間違いであるのかを、キリスト教の歴史全体が示している。人々は洗礼、堅信礼、祝福を受け、祭壇で聖別されるが、それが済むとまるで何事も無かったかのように駆け去って行き、すぐ傍のおしゃべりや詐欺師の仲間に加わってしまう。秘蹟は団体を一つに保つ糊ではない。それどころか、神の介入から遠ざかれば遠ざかるほど、秘蹟がますます強力に推進されるようになるのである。

私が見るところ、水のバプテスマは必要悪である。人々がキリストのからだに加われるようになるなにか別の方法を、私は個人的に望んでいる。どんな外面的形式もそれを生み出せない。それは御霊によって与えられなければならない。バプテスマという外面的象徴を重んじる人々は、自分はバプテスマされていない人よりも優れていると思っている。しかし御霊の人々は、バプテスマされることを滅多に認めない。あなたは、イエスが理解されたように、これを理解しなければならない。イエスは弟子たちに向かって(彼らはみなバプテスマを受けていた)、「あなたたちもわたしから去って行きたいのか?」(ヨハネ六・六七)と尋ねることさえされたのである。この一つの外面的行動を強調することが大切であるとあなたが考えるなら、きっと人々が駆け寄ってきてあなたに組みするだろう――しかし、彼らはすぐにまた駆け去って行ってしまうだろう。

いっそう広い視野を得る唯一の道は信仰によることを、あなたも私も知っている。これまで見てきた諸々の方法で人々を集めることに神を制限するなら、その時、神の王国は失われる。イエスは命なき偶像ではない!イエスは命であり、古いものから新しいものへと、絶えず前進しておられる。危機的な時が何度も訪れるだろうし、真のイエスから去ってしまう危険にだれもが陥るだろう。たとえ百回バプテスマされたとしても、これを防ぐことはできない。イエスと同じ精神でなければならないのである。

未熟な諸教会のために使徒たちがどう戦ったのかを思い出せ。一日に三千人バプテスマしても、それは少しも使徒たちの助けにはならなかった。この初期の頃、あまりにも多くの者が忠信であり続けることに失敗した。そのため、ヘブル人への手紙のように、厳しいことを書かなければならなかったのである(ヘブル六章を見よ)。アナニヤとサッピラの後(使徒五・一~十一)、悪いのはバプテスマを施す私たちであって、まちがってバプテスマを受けた人々ではないことは、もはや明らかである。

「神は世を愛された……」(ヨハネ三・十六)ことを忘れてはならない。バプテスマせずに、イエスの御名の中で未信者たちと交際できることは、実際のところ奇跡である。結局のところ、諸教会が施すバプテスマは、クリスチャンたちとそれ以外の人類との間に憎しみを引き起こしている。神の御霊は、敬虔ぶった人々の助けなしに、天から地に流れ下らなければならない。御霊は必要なことをなすよう人々に強いる――それゆえ、人々は「主よ、いつ私たちはあなたにお仕えしたのでしょう?」(マタイ二五・三七)とついには言うだろう。確かに、今日も、神の王国のために、教会の外で、多くの働きが進んでいるが、人々はそれに気づいていない。

バプテスマの問題に関しては、私が述べた精神を持て――それを決して原則の問題にしてはならない――そして、個々の事例に関して自由に行動せよ。あなたの状況は使徒パウロの状況に似ているように私には思われる。使徒パウロにとって、バプテスマは重要ではなかった(一コリント一・十四~十七)。パウロはバプテスマを他の人々に任せたのである。あなたが同じ事をしているのを、私は嬉しく思う。イエスがいけにえの慣習を軽蔑されなかったのとまさに同じように、諸教会の慣習的実行を軽蔑してはならない。しかし、私たちの目標は、古い世界から退いて、新しい世界に踏み出すことである。神のバプテスマが御霊のバプテスマのみになる時が来るだろう。

それまでの間、あなたが個々の人を祝福して、それでバプテスマを施したと考えてもかまわない。ただしそれは、その祝福を受けた人々が「自分はこれを他の人々に押しつける権利を受けた」と考えない場合に限る。これが私が言わんとしている要点である。有害なのは外面的実行それ自体ではなく、それがしばしば引き起こす傲慢、高ぶり、他者からの分離である。それに対して、神の御霊のバプテスマは、私たちを万民の兄弟とする。機会が訪れたなら、必ずこれをあなたの聴衆に話すようにせよ。そうするなら、人々は神により、神の御名の中にバプテスマしてもらえるのである。

回心した中国人があなたのところにやって来て、バプテスマを求めることがあるかもしれない。もしその人がこれを自ら純粋な動機で行うなら、その時はイエスの弟子たちの模範に従って、その人をバプテスマせよ。私たちが出かけて行って人々をバプテスマすることと、キリストに対する忠誠を公にすることを願って個々の人が私たちのもとに来ることとは、別のことである。それでも、私たちの任務は宗教的実行を推進することではなく、教え、愛することである。私たちがキリストの霊の中で労していること、私たちは決して他のグループに加わる邪魔をしないことを、人々は知るようにならなければならない。

もう一度言う。なにをするにせよ、バプテスマのせいで区別――「聖」なる者と「神なき」者との区別――を設けさせてはならない。むしろ、静かに祈る時とせよ。大いに自由に導かれるのに任せよ。あなたはどんな時も重要なものを見抜ける唯一の人である。あなたが神の使者であり続けて、失われている人のために神の愛を宣べ伝えるよう、私は祈る。神の愛はクリスチャンのものであるのと同じくらい、未信者のものでもあるのである。

人々の間に――教会や国の外側で、これらの強制的機関とは独立して――拠点を確立しないかぎり、キリストの王国は決して前進しないだろう。悲しいことに、私たちが今持っているのは、神の助けを伴わない巨大な人造組織である。教会も国も、ぽっかりと大きな口を開けている幾つもの落とし穴に難儀しており、人々はその穴に落ち込んでいる。彼らを助けるものはなにもない。

ヨーロッパのキリスト教は酷い有様である。教会が西洋で容認されているのは、それが国家の支えだからである。教会は国家と共に「この世の君」になってしまい、神は支配者たちにとってただの飾り物になってしまった。真剣に抗議する者はだれもいない。人々はこの古い、破滅した世界に懸命にしがみついており、他方、支配的勢力は新しい世界を脅威と見なしている。個人の自由は脇にやられ、練り粉のように型にはめられることをよしとする人々だけが自分の地位を保つことができる。

それゆえ、要点は御霊のための突破口を見いだすことである。神学や教会の代表者になってはならない。真理の霊の中で、人々に近づくことだけが必要である。神はあなたを賢く導かれるので、あなたはキリスト教の迷信に敬意を払う必要は全くない。未来の出来事に私たちは関知しない――未来は神の御手の中にあり、神の時に進歩があるのである。それゆえ、勇気を出せ。平和の君が、中国、ヨーロッパ、至る所で、勝利されるのである!

私たちは遠く隔たっているにもかかわらず、あなたと私はこの同じ戦いを戦っている。なぜなら、私たちは二人とも、真の福音の精神を押さえ込む、キリスト教の悪鬼的勢力や圧倒的形式の束縛を受けているからである。王国のキリストは依然として十字架につけられている。諸教会(「人の手が建てた宮」)の「キリスト」に、大衆を支配下に置く自分の助けをさせることを、この世の君は喜んでいる。忍耐と信仰によって御言葉を宣べ伝えることにより、私たちはこの嘘を征服しなければならない。この戦いにおいて、時が私たちの味方なのは良いことである。私たちのなすべきことは、持ちこたえて、自分の神理解に忠実であり続けることだけである。

しかし、制度的キリスト教に反対する私たちの立場に反する諸々の方法を擁護する者たちに、驚いてはならない。私たちのイエス理解は従来のキリスト教の反対であり、これは私たちを戦いの中にもたらす。それゆえ、私たちは蛇のようにさとく、鳩のように純真でなければならない。

教会の門をくぐらずに神の御許に行くことは可能であると思うことが、どうして人々には難しいのか?今は、自由を求める人々の心を通して、神の正義が示される時である。神の歴史のこの段階にいることを、私たちが悟りさえすれば。そうするなら、人の法律や権利は終わりを迎え、何が正しくて何が間違っているのかを人々は自分の心で知るだろう。神はこれを実現することを願っておられる。神のかたちを帯びている私たちは、真の男女として自分に何が要求されているのかを学ばなければならない。宗教は決してこれを与えたことはないし、将来もないだろう。

それでは、教会の性格とは何か?確かに、宗教的儀式によって一つに縛られることではない。科学者たちは知識を愛して興味を共有するがゆえに一緒にまとまるが、それと同じように、神の御霊の人々は一緒にならなければならない。一人一人が自分独自の経験や展望を持ち寄り、自分独自の方法で働いたり、学んだりする一方で、すべての人の努力を常に心に留めるのである。このような方法で私たちも機能しなければならない。私たちの目標は一つに結ばれた交わりであり、この交わりに属する人は互いに愛し合い、イエスを他のすべてのものの上に置くのである。

「自分はなぜクリスチャンなのだろう?」と多くのクリスチャンは実際に考えたことがないのではないかと、私は疑っている。真の福音以外の多くのものが宣べ伝えられている。真の福音とは、神は人類を造り直して――天だけでなく――地をご自分の栄光で満たすことを願っておられるということである。しかし、私たちのあまりにも多くの者は、宗教のキリストに満足している。異教徒のように、死後の幸福を私たちは求めている。私たちは地を諦め、自分自身や他の人々を諦めている。私たちの唯一の関心は幸いな死であり、地上における神の王国ではない。

「人々が人生の最後の時に安らぎを受けるには、自分たちのようにならなければならない」とクリスチャンたちが考えるなら、私たちは「否!」と反対しなければならない。キリスト来臨の前に、安らかに死んだ多くの人々がいたのである。キリストがこの世に来られたのは、そのためではない。キリストが来られたのは、真の男女を創造するためである。まさにこの地上で、ご自分の真理、正義、愛があがめられるようになることを、神は欲しておられる。これが実現する時はじめて、私たちは自分が完全な人であることを立証するのである。

神は人類を贖おうとしておられる。しかし、この贖いは人の業績とは大違いである。人々がいるところでは必ず、偉大な働きがなされるだろう。確かに、今日、多くのことが達成されているが、その原動力は自分の利益以上のものではない。

最近、私はサモアの宣教団について聞いた。彼らが直面したことは、真に注目に値する。そこの人々はその日暮らしで、ほとんどなにも考えていないが、喜びに満ちており、幸福なのである。土地や木は共有で、だれにも心配事がない。彼らは互いに満足している。しかし今、この宣教団は私有財産制を導入したいのだという。このクリスチャンたちが望んでいるのは、土地を売ることであり、物質的利益のために競って野心的になるすべを教えることである。そして、こうして彼らを目覚めさせて、そこにヨーロッパ文化をもっと容易に確立できるようにすることである。人の業績が導入されている。まるで、大切な唯一のことは自分たちのヨーロッパ文化であるとでも言いたげに。

私は言う、この人々をそっとしておきなさい!彼らが単純なまま栄えるようにせよ。彼らがヨーロッパ人になる必要は無い。私たちのように不真実な者になってはならない。なぜなら、今の暮らしの素晴らしさにもかかわらず、果てしない嘘が社会中を駆け巡っており、私たちを完全に抑圧しているからである。

確かに、人々には助けが必要である――しかし、彼らの内にある神の愛は、私たちヨーロッパ人の嘘をすべて結集したものよりも、すでに遥かに強いのである!私たちの任務は「新しい人を着る」(コロサイ三・九~十一)ことである。もしこれを行うことができるなら、そして、もし私たちの神学やキリスト教がまだ私たちを殺してしまっていないなら、私たちはイエスのために熱心な民になれるだろう。キリストだけが私たちの光であり命である以上、私たちは少しの助けにもならない。宗教的談話は無用である。皆が一緒に角に座って祈り、聖書を読む宗教団体の類のものを造ることは、だれの助けにもならないだろう。そうではなく、世の中の嘘を取り除くために働け。真実な心をもって神の真理の力の中に生きるよう努めることによって、助けよ。

宣教の働きは、それがどうなされるかには関係なく、余計である。私はこれをさらに強調しよう。現在の宣教の働きは危険である。なぜなら、日常生活の中に押し入って、未信者の道徳や習慣を独善的に攻撃しているからである。私たち西洋のクリスチャンたちは、究極の倫理学者になってしまった。しかし、「失われている人たち」が真に望んでいるのは何か?善良な人々は至る所で、「どうやってこの地上で生きていけばいいのか?」という疑問を抱いている。宗教からの答えを彼らがなにも望まないのも無理はない。彼らは宗教を恐れてさえいる。なぜなら、宗教は生きる力を与える代わりに、やる気をそぐからである。解放する代わりに、縛るからである。

キリスト教も同様である。クリスチャンたちは真理の力に対する生ける証し人ではない。神の支配権がクリスチャンたちに影響を及ぼしていたなら、儒教やイスラム教の尊敬すべき道徳家たちを真理は征服していただろう。

今日の諸教会は、あまりにも多くの神なき慣習でいっぱいなため、神の目から見て異教徒に優るものではない。「神の御前で持つべき栄光に彼らは達していません」(ローマ三・二三)。私たちの密かな望みは、未信者がいつまでも不信仰の中にとどまらないことであり、クリスチャンがいつまでもキリスト教の中にとどまらないことである。私たちはなにか新しいもの――キリストの霊による、神にある命――を求めているのである。

現在の宣教団の実行の背後には、強力な組織がある。この組織の中では、厳しい独善的な形ではあるが、神への礼拝もいくらかなされている。この宗教組織には外面的な諸々の形式があり、異文化に対する敬意に欠けている。このような宗教組織は、入居の用意のできた新品の家のようである。その家では良心は平穏であり、そこに住む住人は大いに満足する――しかしそれでも、彼らは神の裁きを招くのである。

しかし、あなたは喜ぶべきである。あなたにはそのような組織がなにもないからである。あなたの心の中にあるのはただ福音だけである。この福音は教会間の些細な議論から逃れている。「あなたは私たちの教会に属さなければなりません」と言ってはならない。「自分には天の父がおり、この父はキリストを知る知識を通して永遠の命の真理に導いてくださる」と人々が感じるようになることが、私の願いである。あなたは中国でこの福音と共にあり、初代クリスチャンの一人にほぼなぞらえることができる。それはまさに、あなたが国家公認教会の中に組み込まれてこなかったからである。再び言うが、喜べ!初代のクリスチャンたちは、ユダヤ人やギリシャ人のままではいなかった。彼らは教会の慣習や伝統に信頼しなかった(ガラテヤ三・二六~二八)。彼らは無法者と見なされた。私たちもこれに倣おうではないか!

御霊から生まれたものはみな、生き続けるために、目に見える形を持たなければならない。しかし、私たちは神に嘆願しようではないか。私たちの現在の働き――自由で規則に縛られない働き――に、れっきとした目に見える形が与えられますように、と。私たちの信仰は献身と責任を要求する。神の民や私たちの子供たちは、ただ現在のためだけに生きてはならない。なにか持ち続けるものや、なにか忠実であり続けられるものを、持たなければならない。しかし、私たちは人間だから、これは計画できるものではない。

団体を始めることを検討する時は、これを心に留めよ。そのような団体は、神が中国人の心の中に働かれる、ささやかな突破口になりうる。しかしこれは、その団体が緊密に結ばれていて、神の支配を証しする機会をあなたに与える場合に限る。あなたが最も願うべき事は、神の王国を望む望みが多くの人の心の中に呼び覚まされることである。キリストの特徴が活き活きと表現されているこのような団体が、実は教会なのである。それは神の家である。さらに、集会や集いが自然に生じて、それにより、神の御霊が建造を続けるための基礎が据えられるだろう。どうか神があなたに御霊をこのように豊かに与えて、あなたの周囲の人々がキリストとその真の性質に捕らえられますように。