3.神のすべてを包み込む愛

クリストフ・ブルームハルト

神の愛は昔ながらの諸々の分裂を引き裂く。もはや、宗教が宗教に、クリスチャンが未信者に対して争っている場合ではなく、正義が罪に、命が死に立ち向かう時である。神の愛は万民を包み込んでいる。それゆえ、自分が出会うすべての人を気遣わなければならない。劣ったものに甘んじてはならない。全世界が神の栄光を見なければならない。神が中国人に与えられた賜物に、あなたが自由にあずかる姿を見たいと、私は願っている。これが私たちの希望である。しかし、その成就には戦いが必要である。

神は虐げられている者を守ってくださる。虐げられている者がご自分の祝福を受けるよう、神は配慮される。今日、御霊は「あなたはどんな宗教を信奉していますか」と尋ねることなく、至るところで気高い人々の心を動かしておられる。私たちの任務は、クリスチャンの福音ではなく、キリストの福音を広めることである。キリストは区別を願っておられない。これを心に留めることは、私たちにとって困難である。妥協したり遠ざかろうとする圧力に屈せずに、罪人たちと接触をもつのは容易ではない。しかし、私は望む。私たち――あなたは中国で、私はヨーロッパで――が、すべてを包み込む、キリストの創造的力を経験することを。

これが、私が卑しい労働者階級の側に立つことを選んだ理由である。悲劇的なことに、教会は彼らを暗闇の中に放棄してしまった。しかし、まさにその教会がこの暗闇と共に生きており、そうすることにより、この世を支配しているのと全く同じ諸々の原則を吸収しているのである。クリスチャンは支配するのではなく、仕えるべきである。彼らは暴力的行為のせいで、いわゆる異教徒よりも悪い。

最も大事なのは、イエス・キリストの使徒となることであって、ヨーロッパのクリスチャン世界の使徒となることではない。忍耐せよ。そして、なにをするにしても、党派を組むことから遠ざかれ。あなたの働きは万民を包み込むものでなければならない。そうするなら、あなたの誠実さにより、あなたは万民の信頼を勝ち取るだろう。

しばらく前、私はあなたから、中国人の恐るべき歴史を記した冊子を受け取った。死と滅びが確かにそこを支配している――「初めから人殺しだった者」の働きが支配している。あなたが正しい道を見いだすのに難儀するのも無理はない。それでも依然として、この死から完全に逃れたいという中国人の切望を、私は感じる。密かにイエスはこの切望に取り組むことができる。そして、イエスはそうされるだろう――イエスが来られたのは罪に定めるためでなく、救うためである(ヨハネ十二・四七)。

聖書のある御言葉が困難を生じさせるのは事実である。しかし、イエスの厳しい警告があてはまるのは敬虔な者に対してであり、未信者や罪人に対してではない。同様に、旧約聖書に記されている神の怒りは、かつて神に近くあったのに神を侮った者たちだけに向けられている。イエスの厳しい言葉は、上流の千人に対するものであって、御言葉を知らない虐げられている大衆に対するものではない(ルカ六・二)。私たちは、今日のパリサイ人やサドカイ人に怒りを向けるべきである――牧師や司教や聖職者階級全体に怒りを向けるべきである。これらの人々に対して神の怒りが向けられているのであって、一般人に対してではない。

何世紀もの間、中国人は搾取、支配、隷属下にあった。そして、自分たちのために戦わなければならなかった。諸々の政府や支配者層が彼らを打ち倒してきた。しかしその背後で、虐げられた者たちは人らしい性格を保ち続けていたのである。彼らのもとにイエスは来られたのであり、高位にある権力者はイエスが集める群衆の前で震えるだろう。それゆえ、キリストにあって堅く立て。そして、可能なかぎり、すべての人と平和を保て。そこにとどまること以外、あなたにできることはない。しかし、あなたがそこにいることで、神の御業が呼び覚まされるだろう。そして、シオンのライオンであるイエスが立ち上がって、純粋な御業により世界は征服されるだろう。

神は常に個人をご自分に召される。人々の一般的な考えや行動は関係ない。神は、ご自分の選ぶどんな場所にも、命を栄えさせることができる。教会の苗床からなおも神聖な命が花開けるのは、そのおかげである。

そうではあるが、私たちはなおもなにか全く新しいものに自分自身をささげる必要がある。すべての人々や国々のために扉を開いて、前進する道を示すもののために、自分自身をささげる必要がある。いったん人々が正しい道に就くとき、彼らは神聖な事柄に関するさらなる理解を得ることができる。個人の回心は一時的方法にすぎない。個人の回心それ自体は、パリサイ主義の罪に陥りかねない。単独でバプテスマされた人はすぐに思い上がり、自分は特別な人間であって、時折だれかに霊的抗議をすることができると思いかねない。

私たちが欲しているのは、すべての人――善人や悪人、義人やそうでない人、貧しい者や富める者、クリスチャンやそうでない人――を一網打尽にすることである。そして、人々を変え、ふるいにかけ、心を導く働きは、一つにする神の御霊に任せることである。これが「人々をバプテスマする」という言葉でイエスが言わんとされたことである。人々は捕虜のように神の王国の中に来るだろう。しかしおそらく、自分に何が起きているのか、人々は気づかないだろう。そして、彼らは命を見いだすだろう。

それゆえ、文化的慣習を全く顧みないクリスチャンたちの横柄さに警戒せよ。このクリスチャンたちは孔子に敬意を払うべきである。なぜなら、尊敬こそ真の礼拝の始まりであることを見たのは、孔子だったからである。私たちは各々、この尊敬の念を抱かなければならない。敵さえも尊敬しなければならない。自己義認の精神に、たとえ遠くからであっても、毒される隙を与えてはならない。教会組織に堅くしがみつくどんな人も、たとえ最善の人でも、私はもはや信頼しない。彼らはみな、あまりにも酷い霊的高ぶりに陥っている。たとえそれをどんなに隠そうとしていても、そうなのである。

あなたの状況は言葉ではなく行動を要するものであることを、私は喜ぶ。一組の規則よりも心理的知識を促す孔子の教えは、モーセの律法のように、キリストとその王国の基礎として適しているように私には思われる。儒教には、モーセの律法より統一がとれていて首尾一貫しているという長所さえある。モーセの律法は、ユダヤ人でない者を冷酷に殺害することを正当化するために用いられてきた。(もちろん、これはモーセの律法の酷い誤解である――預言者たちはユダヤ人だけでなく、すべての諸国民のために熱心だったのである。)

悲しいことに、神が不敬虔な者の上に下すとされている、怒りと滅びに関する観念が、クリスチャンたちの間に広まっている。これは、新約聖書が明らかに教えている神の愛と、真っ向から矛盾する。私たちが反対している事柄に照らして見る時、パウロが(彼の手紙を私は大事にしているが)ローマ人への手紙の中でこの怒りの観念を表明しているのを、私は残念に思う。無数の支配者たちが、パウロの言葉をねじ曲げて、キリスト教宗教を殺害のために剣を振るう根拠としてきた。彼らは楽しんでこれを行うのである。

しかし、神に導かれている人や、敵をも敬うことが性分となっている人(中国人の「異教徒」も含む)を敬い、受け入れるよう、私たちは注意しなければならない。中国のいわゆる「少女殺人」について――その広がりや理由について――もっと聞きたいと私は思っているが、私が素晴らしいと思うのは、中国人が家族を通して道徳観を教え込もうとしているそのやり方である。中国人は人生の諸問題にきわめて現実的に取り組んでいる。道徳的規範が雲をつかむようなものではなく、まさにしっかりと地に足がついている。それゆえ、だれでもそれらを適用できるのである。

「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。わたしが来たのは、それらを廃するためではなく、成就するためである」(マタイ五・十七)とイエスは言われた。イエスの御名の中で異国の地を訪れる時、成就されることを待っている律法がすでに存在していることを、私たちは神に感謝すべきである。それとも私たちは、まず人々をモーセの律法で叩きのめさなければならない、と思っているのだろうか?そのようなことは神を踏みにじることである。神の御霊は、私たちクリスチャンが現れるずっと前から、働いてこられたのである!

中国人の諸々の慣習を支持することに、不安を抱いてはならない。自分たちの歴史の中に働いてこられた神の働きに――たとえ神の御名は述べられていなくても――敬意を払う人々の慣習の場合はなおさらである。明確な行動と神の祝福により、あなたは真理に基づく関係を造り出している。それにより、人々の目は開かれるだろう。法律や正義を、それがどんな形をとったとしても、イエスがまさにそうされたように履行することが、あなたの義務である。あなたが行うこの自由な活動は、あなたが与えうるどんな説教にもまして、遥かに強く人々に訴えかけるだろう。あなたがこれを行えば行うほど、すべての父親たちの父、人々の間に見つかるすべての良きものの創造者に対する敬意が増すだろう。だれも、人々の間にある神から出ているものを敬わずに、神を敬うことはできない。

保守主義はいかなる類のものであれ、すべてを妨げ、麻痺させる。教会に捕らわれているクリスチャン同様、中国人もこれによって束縛されている。中国人は、過度の家族崇敬や迷信的慣習に捕らわれている。そのせいで、彼らは真の変化をなにも経験できずにいる。この意味で、儒教は一種の教会のように私には思われる。儒教は魂の状態をことごとく支配して不安にさせ、真の進歩を妨げている。あなたがますます人々に近づいて、表面的関係を超えて進めば進むほど、あなたは間違いなく、数々の大きな障害に出会うだろう。

「こういうわけだから、キリスト教を用いて中国人の国民的性格を根絶しようと欲するのは正しい」と、多くの宣教士が感じている。しかし、その結果どうなるのか、彼らはすぐにわかるだろう!国粋主義的な精神が台頭するとき、それがどちらの側であれ、異国的要素はすべて一掃されてしまう。そして、クリスチャンたち自身が敵になるだろう。人々に対して正しく行動し、抑圧に直面して人々の益を代表する人たちだけが、キリストの愛の試練に耐えることができる。あなたは気楽な人生を送ることはない。当分の間、あなたの働きは静かな影響を及ぼすだけでなければならない。

あなたは西洋キリスト教の慣習を強要してこなかったので、反対を巻き起こさなかったのである。これはあなたにとって有利に働くだろう。中国人の基礎の上に建て続けよ。そして、宗教的挑発をすべて避けよ。私の望みは、キリストが静かに働いて、慰めてくださることである。そして、あなたや他の人々がしようとしていることの精神の違いを、人々が明らかに感じ取るようになることである。あなたが正しく指摘しているように、宣教における攻撃的企ては、神の愛から発しているのではなく、事業精神から発しているのである。

元気を出せ。どうか神が、あなたが出会うすべての人に、御霊を与えてくださいますように!彼らは「クリスチャン」になる必要がないことを覚えよ。この呼び名は少しもなくてかまわない。神の御旨を行う者はだれでも、その人が指示を孔子から受けていたとしても、あるいは教会教父(ローマ二・十二~十六)から受けていたとしても、天の王国の子供なのである。キリストだけが、人々の生活の中に真理と命をもたらす唯一の方である。すべては彼の御手の中にある。

どの国も神の御前に平等である。神の御前では、未信者もクリスチャンと同じくらい重要である。今日、多くの人々が「黄色い悪魔ども」について話しているが、私たちは決してそんなことはできない。あらゆる種類の人々が神の王国に入りつつある。彼らはキリストのもとに来ているのであって、クリスチャンのもとに来ているのではない。人の子のビジョン――この方は、平和を造り出す働きにより、同情、社会的責任、平等を示しておられる――が、いわゆる無宗教者の間で人気を博している。キリストの御霊はここから入り込んで、全世界を覆われるだろう。

到来しつつある王国のしるしは、真の男女であって、クリスチャンや、イスラム教徒や、仏教徒ではない。宗教的な人々が好き勝手なことを言ったとしても、急速に発展しつつある人々や国々のこの動きを妨げることはできない。この動きは、いっそう高い目標のために奮闘する人間性を目指しているのである。これらの目標は弱くて不完全なものに思われるかもしれないが、それでも神は、新たな未来のために、それらを保護して保たれるだろう。

最近、私はカイロを訪問した。その訪問の間、私は地元の宣教会館で説教をしなければならなかったのだが、イスラム教徒と付き合う時、単純に私たちを通して救い主に語っていただく代わりに、トランプゲームのようにキリスト教をもてあそぶことが、どれほど酷いことかを、私は痛感させられた。神の御霊がそこでは働けないほど、イスラム教徒は全く閉鎖的なわけではない。確かに、この人々がヨーロッパ的クリスチャンになることは決してないだろう――彼らがそうなったとしても、それにより彼らがなにかを得るわけではなかろう。

イスラム信仰におけるアラー崇拝には、とても印象的なものがある。宗教的形式が少ないだけでなく、たとえ不幸のただ中にあっても、また、その厳格な道徳的規範にもかかわらず、人々は心からアラーに身をささげているのである。宗教の一つとして、イスラム教には一種の力があり、その信奉者の行動に影響を及ぼすことができる。確かに、イスラム教ではすべてが厳格であり、そのせいで私たちの天の父に対する、生ける、人間的な、個人的愛をぼかしてしまっている。人の子であるイエスだけが、これを彼らに示すことができる。しかし、イスラム教徒にとって、ヨーロッパのクリスチャンは不道徳で非宗教的に見える――そして、これはある程度正しいのである。

私はまた、「狐運動」がとても興味深いものであることに気づいた。その儀式は奇妙なものではあるが。世界中の多くの場所で、このような諸々の運動が起きているが、これは無数の人々の心の欲求を示している。人々は、日常生活になんの影響も及ぼさない古い形式や疲弊した慣行と手を切りたいと思っているのである。実に、こうした運動に共通する特徴は、人々の物質的状態を改善する実際的手段を求めている点である。たとえこの探求がこの低い水準にとどまっていたとしても、これらの運動や、変化を目指すそれらの試みを通して、神は依然として語っておられるのである。

私たちはある矛盾に直面している。到来しつつある神の王国の福音は、私たちにとって、将来の成就を待つ一つの約束のように思われるが、それは今ここで、生かし出されるべきものである。他では見いだせないものを、私たちは人々に与えられなくてはならない。そして、それは実際的価値を持つものでなければならない。それゆえ、多くの人が次のように言うのも、もっともなことである。「牧師たちが私たちのために行ってくれることに信頼しなければならないのだとすると、私たちはまずいことになるでしょう。説教では生きることができません。私たちにとって大切なのは、実際的改善なのです」。言い換えると、人々の願いや必要は実際的信仰なのである。ああ、宗教と生活が乖離していて望みが無いのである!

いわゆる文化や文明の起源及び進展は、解明されないままだろう。どうして文化や文明は幾つかの国々に起源があって、それ以外の国にはないのか?生命の起源――人の命の起源も含めて――が隠れたままであるのと同じように、より高尚な衝動を持つ先進的文化の起源も隠れたままだろう。

一般的に、こう言えるだろう。活動的な霊的・知的命は神から来るのであり、神の霊が人の進歩をもたらすのである、と。これが世界中で起きている。これがなければ、私たちは動物と同じ水準にとどまっていただろう。文化の進歩は、場所ごとにその現れは異なるが、人はより高い水準に生きるべきものであることを示している。御霊の創造の本質は、神の王国を求める絶え間ない戦いに根ざす、物質的・霊的歴史を形成することである。私は確信しているが、中国の文明もこれに変わりはない。中国の文明も神の霊的種として始まったのであり、秘密裏に発芽して、今や、現実の外界に咲き出ているのである。

例として、バビロニヤ人、ギリシャ人、ローマ人、ユダヤ人を挙げよう。彼らの文明は、彼ら自身の動機や意志から発したのではない。むしろ、彼らの文明は彼らの無意識の領域の中にあったのであり、国家全体の潜在的感情に基づいて行動した個々人を通して現されたのである。その個人的天才のゆえに、彼らが文明の創造者であるかのように見えるかもしれないが、実際には、彼らはもっと深くにある創造物の担い手・代表者にすぎなかったのである。それがなければ、この「偉人」たちは全く無価値だっただろう。

神の計画は、私たちを動物的存在から引き上げて、御霊の生活に移すことである。依然として、多くの真理を示してもらわなければならない――クリスチャンの人々もそうである――それは次のことを示すためである。すなわち、最初から神が望んでおられたのは、機会さえあればどこでも、私たちの偏狭な境界線を越えて、善であり真実であるものを創造することなのである。

いわゆる高度な文明について描写する時、私は「啓示」には言及しないが、これには意図がある。文明の出現は一般的に低い水準にとどまり、発展・成長を辿り、ついには死滅する。しかし、神がご自身を啓示される時、全くちがうことが起きる。人類はその不滅性、その永遠の未来を悟るのである。その真理が輝き渡り、それだけが大事だと思われていた一時的発展はその価値を減じるのである。

様々な出来事の酷く恐ろしい混乱のただ中でも、神の啓示は純粋な理想として何度も何度も出現する。「わたしはこの世の者ではありません。あなたたちはこの世の者です」(ヨハネ八・二三)。神は、もちろん、この世におられる。束の間の滅び行くもの――しばしのあいだ生きているもの――は、神なしでは存在しえない。しかし、これを神が私たちの心の中に置かれる愛と混同してはならない。それゆえ、文化や文明を生み出すこれらの活動的な力と、神の愛の理解に導く神聖な啓示とを区別することを、私たちは学ばなければならない。

過去の歴史について読む時、すぐに気づくのは、主要な出来事が単なる人間的言葉で表現されていて、歴史における神の御手が全く考慮されていないことである。こうした歴史観は神の御霊と矛盾することがしばしばである。それゆえ、神は敵を打ち砕いて復讐する神であるという観念が、聖書の中にすらしばしば現れる。

私たちは生来、御霊のより高い法則を悟るのにとても遅い者である。今日の有利な観点から見るとき、昔の出来事や時代として知られているものの大部分は、邪悪で間違ったもののように見える。これはそうかもしれない。しかし、歴史における人間的要素は偶発的なものにすぎない。それゆえ、過去を回想する時、私たちは裁くことを差し控えなければならない。

通俗史に焦点を当てる代わりに、私たちは明るい点を探さなければならない。人間存在という暗夜を、今も昔も光が貫いてきた。神の霊が、たとえ短い間であっても、また、不完全な僕たちを通してではあっても、燃え上がる。例えば、モーセの場合、贖いの力の中で御名が宣言された。「あわれみと恵みに富み、怒るのに遅い方」(出エジプト記三四・六)。ダビデの場合、赦しが宣言された。「その咎を赦された者は幸いである」(詩篇三二・一)。エリヤの場合、暗闇の勢力に対して恐るべき戦いがなされた。

神の啓示がある所では、社会的、政治的規則や規定は忘れられてしまう。宗教的規則や規定さえも忘れられてしまう。神の啓示が私たちに訪れるのは人々を通してだが、突き詰めると、イエスだけが新しくて純粋なものをもたらせる。政治的・宗教的生活様式や文化的慣習は絶えず変化しており、人間的な束の間のものに属している。キリストの真の従者たちは、そのようなものに従うよう強いられていると感じることは決してない。

この理由により、孔子や仏陀はキリストに並ぶ啓示ではない。中国のような文明は――人類史の他の文明同様――社会秩序しか求めていない。孔子は、私たちの心の底からの渇きを癒すものを、なにも与えてくれない。たんなる道徳哲学は、より高度な永続する価値を持たない。たとえそれがどんなに意義深いものだったとしても、それは私たちを高めて神に導いてはくれないのである。

キリストだけが神の性質を明確に表すことができる。キリストから離れるなら、社会構造を変えようとする人の努力はみな、外側の環境が変わるやいなや、崩れ去るだろう。「私たちは律法の呪いから贖い出されて、神の子供たちの自由の中に入らなければなりません」(ガラテヤ三・十三)。人々をつなぎ止めているのは、ヨーロッパにおける私たちの高度で強力な道徳と同じく、中国人の律法である。私が若かった頃、父が私に書き送ったように、「私たちの長所が私たちの最大の罪になってしまった」のである。それらの長所が、生ける神が新しいことを行う邪魔をしているのである。

神からの啓示が全く無くても、偉大で深遠な変化が生じうるが、内住のキリストほど素晴らしいものはない。キリストがおられる時、生ける水の川が流れ出て、人々に命をもたらす。これは人の善良さを上回るものである。神が導いておられるものは、たとえ国々が滅んだとしても、決して滅ぼされることはない。キリストの愛が支配している所でだけ、人は人としての価値を与えられるのである。そして、他のもの――社会制度や慣習――はみな、二次的地位を占めるようになり、全く重要ではなくなるのである。

イエス・キリストの隠れた教会から、神の歴史が到来する。この教会は存続し続け、決して死に絶えることはない。人の理想の系譜と、キリストの王国の系譜とは、平行して走っている。そして、儒教やキリスト教の外套はボロボロである。新しい外套が必要である。神の純粋な愛からできていて、それを受け入れる容量を持つ外套が必要なのである。