キリストの十字架~七重の解放の基礎

アレン・クーパー

新約聖書にはカルバリに関する二つの独特な観点がある。福音書では外面が示される――キリストの敵どもの計略、キリストの逮捕、彼らの偽りの証し、裁判での嘲り、死の判決、群衆、憎しみ、兵士たちの卑しい行為、鞭打ち、唾棄、呪い、イエス・キリストをローマの十字架に釘付ける行為、流血、これはみな「磔殺」という言葉で要約できる。これは第一に人類の罪の行為である。

しかし書簡では、われわれは異なる観点に導かれる。すなわち、十字架の内的理由に導かれる。パウロは一度も磔殺について記さない。彼は十字架について記す。カルバリにおける罪の外面的表われは、彼にとってアナテマだった。しかし、神が彼に十字架の根底にある深い理由を示された時、彼の心はそれに応答し、それ以降、彼は自分の人生を輝かしい喜びのうちに過ごした。なぜなら、そのような啓示を受けて、そのような大義を宣べ伝えるのにふさわしい、と彼は見なされたからである。十字架は彼の唯一のメッセージであり(一コリ二・二)、唯一の栄光(ガラ六・十四)だった。「十字架」という言葉でわれわれが言わんとしているのは、キリストにあってなされた神のあの御業である。それは彼の磔殺と同時の出来事であり、それによって、神はこの世をご自身と和解させ、諸々の罪を終わらせ、罪人が罪の咎・刑罰・力・存在・創始者から完全に解放されて、命の新しさの中に入れるようにしてくださった。その命の新しさは、人の観念とは全くかけ離れている。それは神に受け入れられるものであり、永遠に存続する。

この基本的御業は一つの行為だが、その効果は多様である。十字架によってキリストはわれわれのために七重の解放を確保してくださったのである――

一.罪のため生じた良心の呵責からの解放 ヘブ九・十四

新約聖書からの一つの絵図によって、おそらく、これを最もよく描写できるだろう。ペテロは自分の主を否み、主は彼に一瞥を与えた。その強烈さは彼しかわからなかった。これによりペテロの良心は自分の罪の大きさに目覚め、彼は外に出て行って激しく泣いた。キリストは死んで、その罪を十字架へともたらし、復活・昇天して、ペンテコステの日に聖霊を遣わし、カルバリによって可能になったものを現実化された。この解放をペテロが理解したことは、使徒行伝三・十四にある事実からわかる。この箇所で、彼は自分自身もかつて有罪だったのとまさに同じ罪についてユダヤ人を責めているが、全く良心の呵責なしにそうしている。キリストが血を流して、聖霊がそれを適用されたことにより、彼は完全に清められたのである。それ以外の何物もそうできなかっただろう。そして、彼を罪人たち――かつての彼のような者たち――の間で奉仕するのにふさわしくしたのである。

二.内住する罪の支配力からの解放 ロマ六・六

十字架は人を修復するのではない。人を終わらせるのである。キリストが死なれたのは私のためだけでなく、私としてでもある。彼が死なれたのは私からなにかを取り除くためだけではないし、罪によってその中に陥ったなんらかの状態から私を贖うためだけでもない。代表者として、完全かつ決定的に、私を十字架に連れて行くためでもあったのである。

それゆえ、神の見方によると、私はキリストと共に十字架につけられている。そして、もはや私が生きているのではないかのようである。私は生まれが高貴かもしれないし、あるいは卑しいかもしれない。富んでいるかもしれないし、あるいは貧しいかもしれない。教養があるかもしれないし、あるいは粗野かもしれない。宗教的かもしれないし、あるいは世俗的かもしれない。しかし、私がどんな状態でも、私に関する神の見方は変わらない。信者として、私はキリストと共に十字架につけられている。私が持っているものそれ自体は、神にとって全く考慮に値しない。それはみな、アダムから受け継いだ堕落した性質の一部として、十字架に行かなければならなかった。これは事実――神の事実――である。それゆえ、事あるごとに私を悩ませて、私の思い・言葉・行いを支配することを要求する罪もまた、キリストと共に十字架につけられているのであり、もはや私に対する権威を持たないのである。その支配はカルバリで終わったと見なされているのである。カルバリで新しい王朝――主の王朝――が始まったのである。主はそれを終わらせて、ご自身の統治をそこで開始されたのであり、それを担って復活の力の中にもたらされたのである。

それゆえ、私は神の側につく――彼が見なしておられるように、私も見なす。キリストは罪に対して死なれた――だから、自分は確かにそれに対して死んでいると私は見なす。私は彼と共に復活したと神は見なしておられる。だから私もそうする。そして、命の新しさの中を生きる、信者としての私の権利を彼に要求する――この命は、罪の力や支配を超越した復活の命であり、罪を犯さずに歩むことができる。「もし私たちに罪は無いと言うなら、私たちは自分を欺いています」――決して他人事ではない!日々の生活がこれをわれわれに示す。もし「私たちが罪を犯すのは不可能です」と言うなら、われわれは嘘つきになる。しかし、死と復活におけるキリストとのこの生ける合一の中で、「私たちが罪を犯す必要はもはやありません。その支配は除かれました。そして、新しい支配が内なる新創造の中に確立されました」と言うことは可能である

三.罪に誘う外側の誘惑に対する、われわれの肢体の反応からの解放 ロマ八・十三、コロ三・五

この「肢体」は、われわれの外側の世界と接触する器官である。絡みつく罪はこれらの特定の肢体への攻撃である。これらの肢体は、弱さのゆえに、あるいはそれに屈する長きにわたる習慣のゆえに、いとも容易に罪に応答してしまう。神の考えによると、私は彼と共に死んでいる以上、私の肢体も死んでいる。

したがって、私の肢体のどれか一つが、自分を喜ばせたり自分を満足させたりする要求を押し付けるのを、私が見い出す時、私はそれを御霊に手渡して対処してもらわなければならない。それは、その肢体がもはや罪に応答しなくなって、私を罪の奴隷としなくなるためである。神抜きで計画を立てる思い、祝福と呪いの両方を告げる口、心では蔑んでいるのに歓迎する手、奇妙な小道にさ迷い込む足、見てはいけないものを見る目、ちょっとした醜聞に喜んで傾聴することを願う耳、神の支配に服するよりも物事に関する自分の理解を好む知性、高ぶった心、これらの肢体や、ここで述べなかった他の肢体はみな、神と十字架に渡されなければならない。神の聖なる光によって見つかった時、その場で死に渡されなければならない。これは必ずしも、神はすべての才能をわれわれから取り去られる、ということではない――むしろ神は、明け渡された生活の中にあるご自身の栄光に寄与しないものを取り除き、最大限用いることのできるものを活気づけられるのである。そしてわれわれは、われわれにおける彼のすべての活動について、彼に完全に合意するのである。ただしそれは、われわれが彼の交わりの中に生きている場合の話である。

四.この世の誘惑からの解放 ガラ六・十四

この世に関する正しい見解を持つとき、この世には神の御子のために飼い葉おけ、十字架、墓しかなかったことがわかる。この世は、今日彼の側に立つすべての者を、同じように扱う。「私はそこに行くべきでしょうか?このことやあのことをするべきでしょうか?」とクリスチャンは問う必要はない――ただ、罪に対して死んでおり神に対して生きている者として生きよ。そうするなら、この世がそのような問いに決着をつけてくれる。次に、十字架を通してこの世を見るなら、一つの体系が見えるだろう。その体系の中に彼はなんの立場も持っておられなかった。また、彼がその中にやって来られた時、それは彼の降誕に憤って、それからの彼の退去を早めたのである

われわれはこの世からのものではない(この世に属していない)。十字架の死がわれわれをそれから分離した。それゆえ、それは決していかなる要求もわれわれに課すことはできない。われわれはその中に生きなければならない一方で、それでも、彼の命と力により、その中を通過するたんなる巡礼者として生きることができる。その中に戻ろうと思う者はだれでも、キリストの十字架と墓を通り越さなければならず、そうすることでそれらを踏みにじるのである。依然としてこの世に魅力を感じていて、心の中で地位を求めている若い読者全員に、私はこの事実を力説しよう。

五.悪魔の支配からの解放 ヘブ二・十四

キリストの地上生涯全体を通して、悪魔は十字架に至る道から彼を逸らそうとした。誘惑、脅し、狡猾さにより、待ち構えつつ――考えうるあらゆる手段によって、彼は自分の人類支配を保ち、キリストに対する支配を獲得しようとした。しかし、努力はみな失敗に終わり、十字架でキリストは勝利を達成された。その勝利により、地獄の全軍勢は完全に根こそぎにされた。彼はわれわれのためにこの勝利を勝ち取ってくださった。そして、われわれが信仰により死・復活における彼との合一の中に入る時、彼は必要に応じてそれをわれわれに分け与えてくださる。

悪魔の諸々の策略が神の御言葉の中に明確に啓示されている。それをここに列挙する必要はないだろう。われわれが今強調したいのは、十字架においてその各々あるいはすべてから解放されるということである。旧約聖書のこの型の幾つかに注意せよ――例えば、ダゴンの宮から勝利のうちに出て来た契約の箱、海の深淵と大魚の腹から出て来たヨナ、炎の中から無傷で出て来た子供たち等である。

六.悪魔の諸々の働きからの解放 一ヨハ三・八

これらは人と神との間の、人と人との間の間違った関係と定義できる。体の渇望、魂の反逆、霊の盲目さ、それらから生じる人生の恐るべき混乱はみな、十字架の和解によって無に帰される。「この目的のために神の御子が現されました。それは悪魔の諸々の働きを無に帰す(ギリシャ語)ためです」。もしわれわれが自分たちに影響を及ぼすものをそのまま彼のところに持って行き、自分が混乱させる働きの中にいることを告白するなら、彼はすべてを真っすぐにしてご自身の栄光に導いてくださる。そしてあらゆる点でわれわれを解放して、われわれの混乱した生活を彼の完全な生活に正してくださる。罪はわれわれを不意打ちにしてきたが、そのように彼を不意打ちにしたことは一度もない。十字架がそれらをみな効果的に対処した。それゆえ、彼にそれらを対処してもらおうではないか。

七.利己的な奉仕から無私の奉仕への解放 二コリ五・十五

十字架と、その根底に横たわる愛の偉大さと卓越した無私の心についての一つのビジョンが、パウロを宗教的頑固者から自己犠牲の宣教士へと変えた。このビジョンの効果の頂点が、「私は、私の兄弟たちのためなら、自分自身が呪われて、キリストから離されてもかまいません」(ロマ九・三)という言葉で表現されている。十字架の深い意義を見た者はみな、主イエスの生涯に現わされた聖なる情熱を分与されて一変するため、もはや自分自身のためではなく、「私たちのために死んでよみがえった方」のために生きるようになるのである。