「神の信仰」

世界最強のもの

J.エリソン

勝利者誌 一九三二年 一三巻 四月号 掲載。一九三二年一月七日に、私たちのロンドン集会で、J.エリソン氏によって与えられた二つのメッセージの概要です。

二種類の信仰があります。両方とも聖書の中で、特に新約聖書の中で私たちに示されています。第一は、単純に、「救いの信仰」と呼べるでしょう。第二は、真理的に、「力ある信仰」――「神の信仰(faith of God)」――と呼べるでしょう。これは、私たちの主が弟子たちに持つことを要求して、「神の信仰を持ちなさい」(マルコ十一・二二、欄外)と言われたものです。ここの「持ちなさい」という言葉は所有格であり、とても重要な点です。私たちは神を信じる信仰(faith in God)を持つだけでなく、原文にあるように、「神の信仰God's faith)」を持たなければなりません。

1.救いの信仰

「救いの信仰」とは何でしょう、どうやってそれを得るのでしょう?信仰は人間と神との間の関係の法則です。それは罪人を救い主と結合します。それを行える他の精神的特質は、聖書中にありません。私たちの救いの条件は、ヨハネ三・十六にもかかわらず、決して愛の条件にはよりません。「あなたはイエスを愛しますか?」と問われることは決してありません――それは問題ではなく、「あなたは彼に信頼しますか?」と問われるのです。信頼していなければ、どうやって愛せるでしょう?新約聖書の第一の主要点は、罪人は救い主に信頼しなければならない、ということです。主イエス・キリストを信じる信仰は、新生と同義語になっています。

これが関係の法則であり、それは罪人を救い主と、人の子を神の御子と関係付けます。この関係により、罪人から聖徒へのこの素晴らしい移行が神の奇跡によってなされます。(ヨハネ一・十二~十三、三・五、一ヨハネ五・一、他の御言葉を見よ。)人の魂の神との究極的関係は、ここで私たちが救いの信仰と称しているものであり、この法則に例外はありません。

これは関係の法則であるだけでなく、所有の法則でもあります。それによって、私たちは神の祝福をすべて所有します。これらの祝福は、この信仰の法則による所有として、私たちに臨みます。私たちの手は、所有するために、取るために、握るために造られていますが、私たちの魂の中にもこの精神的特質があります。取り、握り、所有する力があります。「すべて彼を受け入れた者、すなわち御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられました」(ヨハネ一・十二)。このランバノ(lambano)という言葉は素晴らしいです。それは新約聖書で百二十六回「受け入れること」、百三回「取ること」「取った」と訳されており、それらがほとんど同義語であることを示しています。神の子供たちはキリストご自身から、霊・魂・体のためにすべてを得なければなりません。キリストが盲人に「視力を得よ」と言われると、彼はそれを受けました。復活の夜、主は二階の部屋に来て、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」――「わたしはわたしの霊をあなたに息吹き込みます。それを得なさい、それはあなたのものです」と言われました。

信仰の法則を扱う時、力を得る法則についても扱うことになります。私たちは利用可能なものを得ます。神たる方のすべての資源を、祈りの場所に立ってそれを得るすべを知っている人は利用することができます。ですから、救われるのはとても容易です。救われる方法を人々に告げるのはとても容易です。目に見えるものと同じくらい容易です。この机の上に水があります。のどが渇いているなら、それを取って所有することができます。救いも同じです。

この信仰をどのように得るのでしょう?「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉によります」。この信仰は証拠を得て検証することから生じます。そして、聖書には神の証拠がすべて含まれています。神の存在、キリストとその子たる身分、彼が罪のための供え物であること、聖霊、クリスチャン生活に関する真理などについての証拠が、すべて含まれています。神の御言葉を聞いて理解した結果として、私たちは証拠から自分の信仰を形成します。つまり、キリストが私の諸々の罪のために死なれた以上、この基礎に基づいて私は彼に信頼し、それを受け入れ、信じ、それらの証拠が意味するところに自分自身を委ねるのです。疑いなく、真理の霊が真理の御言葉の中に宿っておられます。人は弱く、助けが必要です。人はこの助けを御言葉を理解することによって受けます。しかし、これは全くそうなのですが、それは結局のところ人の信仰です。

何の根拠に基づいて、私はこう述べるのでしょう?受け入れる人に課せられる、証拠が与えられたらそれを認めなければならない、という要求のためです。証拠を与えてもらわなければなりません。「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」が、神の民に対する命令です。私たちの仕事は、イエス・キリストに関する証拠をすべての人に与えることです。それは命令であり、命令が与えられるのは、それについて祈るためではなく、それに従うためです。私たちが従順に行動する時はいつでも、神の霊は私たちと共にいてくださいます。彼は神の御言葉の至る箇所に現存しておられます。そして、この証拠を聞いて、それを信じることを拒否する人は、罪に定められます。罪定めは法的過程の最後です。このように、信仰に対する責任が人にあるので、それは人の信仰にちがいありません。人に「救いの信仰」を与える責任がもし神にあったとするなら、それを与えなかった責任は神にあることになり、失われた魂はそのことで神を責めることができたでしょう。しかし、そのようなことで決して神を責めてはなりません。私たちの主は、「彼の中へと信じる者は、罪に定められません。信じない者はすでに罪に定められています。なぜなら、信じなかったからです……」(ヨハネ三・十八)と述べておられます。「真理の霊が来る時、彼は罪について(中略)世の人に確信させます。彼らがわたしを信じないからです……」(ヨハネ十六・九)。自分は罪人であるということで、私たちは容易に罪に定められるかもしれません。しかし、強調点は罪の現実ではなく、信仰不在の現実です。この信仰はこの御方を信じる信仰であり、罪人が救われる手段です。信仰不在が罪定めなのです。

多くの点をこれに追加できるかもしれません。ヘブル十二・二についてはどうでしょう?救いの信仰のためにイエスに拠り頼んではいけないのでしょうか?その答えは、いいえであり、はいです。これは逆説かもしれませんが、矛盾した言葉ではありません。私たちの主は、人の胸中の信仰の創始者ではありませんが、救いの創始者です。この救いを信じる私たちの信仰に応えて、この救いは私たち一人一人に対して効力を及ぼすようになります。そこから私たちの信仰は始まらなければなりません。また、それは彼を中心としなければなりません。彼はまた信仰の「完成者」でもあります。なぜなら、信仰はキリストと共に始まり、彼にあって完成されるからです。しかし、私たちがキリストのことを「信仰の創始者また完成者」として述べる時、私たちが述べているのは人の心における信仰の起源のことではありません。(ギリシャ語の逐語訳は、「信仰の指揮者・導き手また完成者であるイエスを仰ぎ見なさい」となります。「私たちの」という言葉はありません。)

ですから、救いを受けるのは人の信仰です。ペンテコステで、三千人が救い主にもたらされました。どのようにしてでしょう?神の御言葉を聞くことによってです。神の霊がそこに同在して、人々の宣べ伝えを助け、人々の理解を助けておられました。しかし、「彼らが御言葉を聞いて、それを喜んで受け入れた時」、彼らは救われました。それは人の信仰であって、聞くことによって彼らに臨んだのです。ピリポがエチオピヤ人に神の御言葉を説明したところ、エチオピヤ人は信じて、バプテスマされることを求めました。唯一の条件は、「もしあなたが心を尽くして信じるなら、かまいません」でした。彼がこのように心を尽くして信じた時、彼はイエス・キリストとの関係の中に入れられて、永遠の命を持つようになりました。ベレヤ人は、「これらのことがそうかどうか見るために」聖書を調べました。そして、それゆえ、彼らの多くが信じた、と述べられています。

この信仰によって私たちは何を受けるのでしょう?(1)私たちはキリストを受けます。そして、キリストは私たちに神の「小さな子供たち」になる力を与えてくださいます。神の子たる身分という後天的権利を与えてくださいます。それにより、私たちは「神の性質にあずかる者たち」とされます。というのは、「私たちはみな、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子供たちである」からです――これは他のなにものにもよりません。(2)命と共に、私たちは命の諸々の特質を受けます。神はご自身の諸々の特質で私たちを富ませてくださいます。神の主要な特質は義です――私たちは義を得るだけでなく、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ三・二二)を得ます。(3)次に私たちは救いを得ます。「恵みにより、信仰を通して、あなたたちは救われたのです」。そして、この信仰はあなたたちの信仰です。恵みは過程です――神の側は恵みですが、救いの人の側は信仰です。「この方を神は、彼の血を信じる信仰による宥めとして示されました」。この信仰は、それを通して救い主を握るものであるだけでなく、彼の血を中心とするものでもあります。キリストの血は救うのに十分であり、この十全性は信仰を通して効力を発揮します。その可能性は実際化し、約束は経験になります。それは信仰を通してです。

私たちはみな、多かれ少なかれ、世の中の教化する有用な勢力をよく知っています。しかし、人類を内側から変革するよう企てている人はだれもいません。教育を通して人の性質を制御・管理しようと多くの努力がなされていますが、教育者らは人の倫理的性質に全く影響を及ぼせていません。大部分、世の人は、合理的な御しやすい範囲内で、人の性質を制御しようと努力していますが、人は全く同じままです。ですから、私たちの主イエス・キリストを信じる信仰は世界最強のものである、と言うのは正しいと私は感じます。なぜなら、それは全く圧倒的な、変容・変換させる法則だからです。これにより人は、一つの命から別の命の中へと、全く反転できるのです。

2.力ある信仰

すでに述べたように、二種類の信仰があります。その一つを私たちは「救いの信仰」と呼びました。これに加えて、新約聖書にはもう一つの信仰があります。時々、それは「信仰の賜物」と呼ばれることがあります。しかし、救いの信仰を補うものとするために、それを「力ある信仰」と呼ぶことにします。それには、罪人を聖徒に造り変える力がありますが、それだけではありません。一コリント十二章に向かって、この章に示されている、救いの信仰と賜物である信仰との間の著しい違いに注目することにしましょう。

三節は救いの信仰を示しています。聖霊、真理の霊は、真理の御言葉の中に臨在して、御言葉がイエス・キリストについて述べていることを罪人が信じるのを助けてくださいます。しかし、この九節で信仰についてさらに述べられています。「ある者には、同じ御霊によって信仰が与えられています」。何事においても、人のものと神のものとの間には大きな違いがあります。これらの御霊の賜物においてもです。思慮深さを意味する人間的知恵なるものがあります。そして、人間的知恵は聖められた知恵にしてもらえます。しかし、これに加えて、ここに知恵の賜物について記されています――「ある者には、御霊によって、知恵の言葉が与えられています」(八節)。通常の方法で得られる人間的知恵がありますし、それを聖められた知識にしてもらうこともできます。しかし、知識の賜物もあるのです。「ある者には同じ御霊によって知識の言葉が与えられています」。

さて、これが知恵と知識について言える以上、人の信仰と神の信仰がある、と言っても見当違いではないでしょう。なぜなら、次の句は神の信仰を私たちの前に示しているからです――「ある者には、同じ御霊によって、信仰が与えられています」。同じように、同じ御霊による癒しの賜物もあります。医者などによる人の癒しがあります。しかし、この箇所で「癒しの賜物」(複数形)と称されている神の癒しもあります。複数形なのは、同様の癒しは二つとなく、癒しに至る同様の方法は二つとないからです。主は機械的に癒しをお与えにはなりません。どの症例も彼は別々の症例として取り上げて、別々に取り扱わなければなりません。人の預言もありますが、神の預言もあります。人々は神の霊から離れて預言することもできます。世の中には多くの偽預言者や、多くの欺く霊どもがいますが、それによって私たちの立場を奪われてはなりません。その立場とは、神の霊は現実であって、神のみこころと御旨を知る真の知識を私たちのだれにでも与えられるし、解き明かすこともできる、という立場です。

ですから、救いに必要な信仰は人の信仰ですが、それがすべてではない、と私たちははばからずに言います。神の賜物である信仰があるのであり、それは救いの信仰ではなく、力ある信仰です――山を移す信仰です。しかし、もちろん、強大な力はみな、きちんと中心に配置されなければなりません。力のてこは、それが乗る支点にかかっています。「信仰がなければ、神を喜ばすことはできません」。そして、神からその豊かな備えを得たいなら、あなたは神を喜ばせなければなりません。ですから、あなたは、塩を食物に混ぜるように、信仰をあらゆるものに混ぜなければなりません。しかし、その時、私たちが神に信仰を与えるだけでなく、神も私たちに信仰を与えてくださいます。というのは、ここに「賜物」という素晴らしい言葉が記されているからです。

この信仰の賜物はどうすれば得られるのでしょう?この信仰は私たちをただのクリスチャンではなく、力あるクリスチャン――「要塞を破壊するほど、神によって力ある」クリスチャン――にします。そのような特質が私たち全員に必要です。なぜなら、「勝利する」「勝利」という言葉を使う時、私たちはなにか優勢なものを取り扱っているからです。私たちは迫害され、火あぶりにされ、翻弄されるかもしれません!しかし、諺に出て来るコルクのように、私たちは常に浮かび上がります。私たちは不沈であり、打ち勝ち、勝ち誇る、勝利の民です。私たちの心には、絶えず浮力が働いているのです。

力と全能とは互いに密接に関係しあっています。私たちが自分の心に得るこの力は、神の全能と対をなすものです。彼を信じる私たちの信仰を通して、彼は私たちをご自身の子供という関係にしてくださいます――これはキリストにおける血縁関係です。彼は私たちをご自身の命にあずかる者、共有する者としてくださいます。それは、ご自身の神聖な性質を私たちの内側に据えて、それにご自身の諸々の特性をまとわせることによってです――私たちは「神の義」を持ちます。「心の中に注がれる神の愛」を持ちます。また、神の力――勝利する力――をも、この信仰の賜物を通して持ちます

再び言いましょう、この信仰はどうすれば得られるのでしょう?私たちはみな、それを同じように持っている、と当たり前のように見なすのは大間違いです。そうではないのです。私たちはキリストを信じる信仰を通して、一般的な方法で救いを得ることができます。一般的な方法で聖霊を受けることができます――信者はみな、ある程度、聖霊を持っています。というのは、「キリストの霊を持っていない人がだれかいるなら、その人はキリストのものではない」からです。しかし、それは聖霊の盈満ではないかもしれません。たんなる一般的な方法で神の信仰は得られません。それは、ですから、特別な個人的なものにちがいありません。使徒行伝における使徒たちの例が、この賜物の標準です。ある事柄が初めて聖書の中に登場する時はいつも、必ず、その事柄、教理や名称の意味が説明されて、その後ずっと、聖書中で同じ意味を帯び続けます。弟子たる身分、交わり、従順、奉仕に備えて聖霊を受けること――これらが、私たちが従うべき使徒的標準を形成しています。私たちは第一に弟子でなければなりません。キリストとの交わりがそれに続きます。私たちはキリストに従順でなければなりません、彼の中に完全な和解と宥めを見いだして、個人的な特別な方法で聖霊を受けなければなりません。フラフラとこれに入り込むことは決してありません。与え主とこの賜物を得るには、自分の人生に対する神の御旨とみこころを果たすには、特別な個人的方法で聖霊が必要である、という必要性をあなたの心は深く感じていなければなりません。

信仰の賜物

さて、マルコ十一・二二~二三に向かうことにしましょう。「そしてイエスは彼らに言われた、『神の信仰を持ちなさい。まことに、わたしはあなたたちに言います、だれでもこの山に向かって、「取り去られて海に投げ込まれよ」と言い、心の中で疑わず、自分の言うことは成ると信じるなら、そのとおりになります』」。

弟子たちが世界最大のこの移す力に直面して少し恐れるのを、主は予期されたように思われます。そこで、彼は彼らをこう励まされました、「こういうわけで、わたしはあなたたちに言います。あなたたちが祈って求めるものはすべて、受けると信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(二四節)。これと比較しつつ、いちじくの木に関するマタイ二一・十九~二二を見てください。再び主は彼らに言われます、「あなたたちが祈りの中で求めるものはなんでも、受けると信じなさい」。これらの節により、ある人々が「山を移す信仰」と称しているものに直面することになります――これは救いの信仰ではなく、今日、私が力ある信仰と称しているものです。重たい山を、それがどれほど巨大であっても、移す力のあるものが、ここに示されています。主はこの山の大きさについてなにも述べていませんが、信仰の大きさについては何事かを述べておられます!「もしあなたたちにからし種一粒ほどの信仰があるなら」――見事なまでに小さくて取るに足りませんが、それを持つとき、あなたはこの移す力を持ちます。これは世界最強のものではないでしょうか?

この信仰を行使した多くの例が旧約聖書の中にあります。バアルの預言者たちは、真昼時、太陽神に祭壇の火を起こしてもらうことに失敗しました。それに対して、エリヤは太陽が沈むのを待って、ほの明かりの夕方に、祭壇を築きました。しかも、契約の場ではなかったにもかかわらず、契約と関連づけて祭壇を築いたのです。次に彼は、契約を立てて契約を守られる神に向かって、ご自身を立証してくださるよう叫びました。そして、エホバはそうされました。ここで、この移す強力な力が一人の人の魂の中に働いているのがわかります。エリヤは神の信仰を持っている人でした。そして、彼はそれを異教という大きな山の傍らに置いて、それを移してしまったのです。彼は自然が百万年かけてもなしえないことをなしました。しかも、二、三分で行ったのです。

エリシャは長子の分け前、御霊の「二倍の分」を願いました。エリヤは、「それは難しいことですが、もし私が携え上げられる時にあなたが私を見るなら、そのとおりになります」と言いました。そこで、エリシャは自分の主人を見続けて、その行動をすべて仔細にわたって見ました。そして、彼がエリヤの衣を手に持ってヨルダン川に戻った時――つまり、彼が最初の困難に遭った時――聖霊の力の中で彼が外套で水を打つと、水は彼のためにも分かれたのです。こうして彼は、その所で、自分が力の賦与を受けていることを証明したのです。

私たちの中のだれも、これをそこまで持ってはいません。しかし、私たち全員の中に、この同じ原則が働いています。力を賦与する神の信仰を扱おうとする時、私たちが受ける最初の困難が、その証拠を現わすきっかけになるかもしれません。困難に遭わないかぎり、あなたがこの証拠を得ることはまずないでしょう。それは、あなたの意志に反してあなたの上にのしかかる圧力や緊張によります。その時、あなたにはなにもできませんし、どうにもなりません――そこであなたは苦悶しますが、神はご自身を立証されます。安楽椅子に座っていては、それは決して得られません。あなたはそこで、必要な条件である聖めを受けることができます。あなたの必要に関する視力を受けることができます。そこで、贖いの血の清めに信頼することができます――これが神の信仰のためにあなたを資格付けます。しかし、ただ困難によってのみ、その力は現れることができます。私たちがこの世界にあるのは神のみこころを行うためであり、山は私たちがこのみこころを行うのを妨げるすべてのものを意味します。山はある人かもしれませんし、あなたの教会のある役員、あなたの家族の一員かもしれません。それは環境かもしれません。この環境の法則は私たちをなんと混乱させることか!神のみこころを行う道に立ちふさがる、この貧困という環境を、私はどうすればいいのでしょう?私が心に感じる最初の衝動は、「主よ、私を助けてください」と叫ぶことです。しかし、それがすべてではありません。子供はだれでも、「主よ、私を助けてください」と叫ぶことができますが、子供の祈りはここでは不十分です。神は確実にあなたを助けてくださいますが、神はあなたの口に言葉を授けてくださいます、「この山に向かって、取り去られよ、と言いなさい!」。あなたは神がそうしてくださるのを望んでいますが、神は、「あなたがそれをしなさい――あなたが言いなさい!」と言われます。私は私の主の御前にとどまって、この特別な事のために新たに力を賦与してもらわなければなりません。それを私の内に新しくしてもらわなけれなりません。ついには、神の命令が私の霊の中に臨む時、私は「主の御名の中で、お前は去らなければならない」と言えるようになります。その時、主ご自身がその事柄を対処してくださいます。

これは大いに実際的な力です。しかし、この原則を毎週、毎月、働かせて、神の信仰を証明・実証しなければなりません。神の御言葉の中で私たちに与えられている原則はみな、最終的に人の経験によって試されなければなりません――さもないと、あなたにはなんの証しもなく、客観的真理しかないことになります。しかし、何の根拠に基づいて、「神は信実である」と言うことができるのでしょう?根拠はあなたの証しです。神の真理が経験的に試されるにつれて、その真理は私たちにとって決定的なものになっていき、私たちは証しを得ます。

なぜこれは「神の信仰」と呼ばれているのでしょう?スコフィールドの注解は、「神が賜る信仰を持ちなさい」と述べています。私はアーメンと言います。しかし、それがすべてではありません。それは確かに神の賜物なのですが、「神の信仰God's Faith)」でもあるのです。彼ご自身以外のあらゆるものについて、神の信仰を持てというのでしょうか?いいえ。しかし、彼はご自身の十全性を信じる途方もない信仰を持っておられます。彼はご自身の全能性を信じておられます。「光あれ」と言うと、光が生じることを、彼はご存じでした。女の裔が蛇の頭を打ち砕く、と言われた時、ご自分の祝された御子が十字架に行って、私たちの救いを成就することを、彼はご存じでした。神はご自身を絶対的に信じておられます。ご自身がしくじることは決してありえないことを、彼はご存じです。

「イエス・キリストの信仰」

主イエスが地上に来られた時、彼はこの信仰にあずかる者となられました。そして、それは「イエス・キリストの信仰」と呼ばれています。イエス・キリストの信仰とは何を意味したのでしょう?御父の信仰が意味したものにほかなりません。つまり、もし自分が十字架に行くなら、さもなければ罪に定めざるをえない人々を義とする力を御父は受けることになる、という信仰です。この確信に主イエスはあずかられたのです。十字架を成し遂げるにあたって、神の信仰がイエス・キリストの信仰になりました。キリストの信仰は、私がそれを同じように信じる時、私の信仰になります。ですから、神がご自身を信頼しておられるのと同じように、私は神に信頼することを学びます。

さて、私は証拠という根拠に基づいて神に信頼することができますが、それはここでの論点ではありません。ここの要点はこうです。すなわち、私は神との交わりによってキリストを知ることができるのであり、この交わりにより、私は彼の命と義、愛、力にあずかるだけでなく、彼の確信――彼がご自身に対して抱いておられる確信――にもあずかるのです。これが神の信仰です。私たちは彼との協力関係にありますが、この協力関係にあずかればあずかるほど、ますます私たちは受け、ますます彼に信頼できるようになります――これは(今の場合)彼がそう言われたからではなく、彼は信頼に値するからです!

もしあなたに神の信仰があるなら、あなたは世にある悪しき事柄――飲酒運転や、あなたが出会うあらゆる悪――を打ち倒す力をも持つことになります。しかし、この優位性はうぬぼれではありません。その中にはあなたにとって屈辱的な点もありますが、それでも、その屈辱と並んで、優勢な力が臨みます。それはただ神の信仰のおかげであり、この信仰は人を高く上げるので、人は不沈・不敗となります。イスラエルに対する次の約束は、神の信仰を持つ人に対して成就されます、「あなたは頭となって尾とはならない。あなたはただ上になって、下にはならない」。

信仰の機能

あなたはこの世界最強のものを持ちたいでしょうか?私たちはみな、それを持てます。あなたがそれ以下のもので満足しないよう、私は希望します。信仰は世界で最強のものです。なぜなら、それは人の弱さを神の全能と結び付けるからです。もしあなたに信仰があるなら、あなたは常に自分の弱さを彼の全能に結び付けることができます。困難に遭うたびにこれを試しなさい――ひたすら、自分の弱さは神の全能と結ばれることになる、と自ら主張しなさい。信仰の機能は全能者の御手を握ることなのです

「あなたたちがわたしの名の中で求めることはなんでも、わたしは行いましょう」。ここにあなたの権威があります。それは実際のところ、神の全能性を握って、「これがあなたに行っていただきたいことです」と述べる信仰の手です。これは大いなる特権ですが、思い込みではありません。なぜなら、神はキリストにあって、御許に行って、なんでも望むものを求める力を、私たちに与えてくださったからです。「もしあなたたちがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたたちの中に住んでいるなら、あなたたちの望むものを求めなさい。そうすれば、それはあなたたちにかなえられます」(ヨハネ十五・七)。

「あなたの信仰のとおりに、あなたになるように。」