おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。
もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴方は栄えを受けることは出来ない。何故ならば一人の悪霊はもっと天のことをも地のことをも全ての人々よりもよく知っているからである。例えある人が主から特別な知慧を授かって物事に通達したとしても又、貴方が他の誰よりも美わしく、より富んでいても、又、貴方が奇蹟を行い悪霊を追い払うことが出来たとしても、それらは寧ろ危険であり何等貴方の所有には属していない。そしてその中において貴方の栄を見出すことは出来ない、ただ、我々の弱いことの中においてのみ又、日毎に我らの主イエス・キリストの潔き十字架を負うことの中にのみ栄を見出すのである。
兄弟達よ、我ら全ては善き牧者が彼の羊を救おうとして十字架の苦しみを忍び給うたことを深く考えよう。主の羊達は迫害と苦難と辱しめと飢え渇きと弱きとその他凡ゆる仕方における誘惑を忍んだ。それでこれ等のことによって主から限りない生命を受けた。それゆえに神の僕である我々がもし聖徒が実践したことを単に我々が口でいい又は読む事によってその誉と栄とを期待するのであるならば、それは非常に恥しいことである。
使徒が我々に「誰も御霊によらなければイエスを主ということが出来ない」と明言し、又、「善を為す者は一人さえもない」といっている。それゆえに誰でも主が彼の中において語り、あるいは為し給うところの善に対しその兄弟を嫉む者は冒瀆に似た罪を犯すことになる。何故なら凡ゆる善はいと高き主御自身が為し給うのであって嫉むことはこの主を嫉むことだからである。
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。
如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られずして満足されてきたことか。然し時が来ると彼を喜ばすべきである者が反って彼に反対する時に彼が現すところの忍耐と謙遜とは彼のもてるだけそれを実際に現すのであって、それ以上のものではない。
「平和を作り出す人達は幸である。彼らは神の子らとよばれるであろう」この世の苦しみの真只中にあってイエス・キリストに対する愛のゆえに魂にも肉体にも平和を保っている者は真に平和を作り出す人々である。
「心の清い人達は幸である。彼らは神をみるであろう」地上のことを卑しんで天のことを常に求め純粋な心と精神をもって活ける主なる神と真理とを崇め且つ瞑想することを続ける者は心の清い人である。
自らのか弱さをもってその隣人の弱さを忍び、自らが忍んで貰いたいように他の人々のために忍ぶ者は幸である。
最も清い会話と主の御業の中にあることの他は喜びも楽しみも感じない信者、これ等によって神の愛の喜びと楽しみとの中へ人々を導く手段とする人は恵まれた幸福な信仰者である。
報酬を望んで語ったり何ごとにもそれを表すことのない僕らは幸である。
軽卒に語ることなく、如何に語り又答うべきかを賢く熟慮する者は幸である。
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。
その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。
その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後から愛をもって語るのを願うに拘らず何事をもいうことが出来ない時であってもその兄弟を愛し又、尊敬しようとするところの者は幸である。
愛と知慧のあるところには恐れと無智とはありえない。忍耐と謙遜のあるところには怒りと焦燥とはありえない。貧しさと喜びのあるところには高慢と放縦とはありえない。静けさと瞑想とがあるところには寂しさと動揺とはありえない。
主への畏れをもって家を守る時に敵は入るところの道を見出すことは出来ない。憐れみと思慮のあるところには浪費と冷淡さとはありえない。
祈り
我らの父よ、我らは聖フランシスのように我らの生涯に対する貴神の御計画を知ることを求めます。御国の来ることについて私共の関心を増し給え。我らの主イエス・キリストにあった御意が我らの衷にもあるように助け給え。思いに言葉に又、行いにおいてもっとキリストに肖た者となるように今日、我らを導き力を与え給え、これらの祈りを我らを愛し我らのために自らを与え給うた我らの主の御名によって願います。アーメン