子たる者の自由

藤井武

我キリストと共に十字架にけられたり(ガラテヤ二章二十節)

十字架にけられたものはひとりナザレのイエスのみではない、我もまた彼と共に十字架にけられている。我は如何いかにして十字架にのぼりしか、そのことは知らない。しかしながら十字架上のイエス・キリストを仰ぎ見し時に、彼が何のために十字架にけられたまいしかをはっきりとかいし得た時に、その時我もまた彼と共にすでに十字架の上につけられていることを発見したのである。今やわがふるき野心も感情も財産も勢力も皆かしこにけられている。昔讃美のをもって見しもの、憧憬あこがれの心を注ぎしもの、楽しみしもの、誇りしものは皆無残むざんにもくぎの下に打ちつけられている。今や我は一世いっせいゆうとなって天下を風靡ふうびせんとの野心をたない、今やたくみに社会の風潮と推移しつつその改善をはかるがごとき真似をなすことは出来ない、今や隣人と共に躍り狂うことは出来ない、およそこの世限りのものに興味と尊敬とをつことは出来ない、安楽なる生涯や所謂いわゆる幅のく境遇は我がものではない。それゆえ昔我に対して多少の望みをしょくせしものは皆失望の声を発するのである。彼等はその心中に独語ひとりごとしていう、「実に惜しいことである」と。彼等のあるものは今もなお我を呼び戻さんと試みつつある、ことにじゅんなる愛の心より我に様々の期待をかけし者は今や深き痛みを胸におさえている、どうかして今一度もとの我に帰さんとは彼等の切なる願いである、しかしてその事の遂に不可能なるを知って彼等は失望の余り叫ぶであろう、「彼はすでに死したのである」と。しかり実にそうである。我はすでに死したのである、十字架上にイエス・キリストと共に死したのである、かつて世の人の心にあるものとして認められたる我は今はかしこにけられているのである。我は再び十字架より降りることは出来ない、我はかかる姿のままで世より全く葬り去られんことを欲するのである。

しかしてかくのごとく我を葬り去ることは我を愛する者に取って深き悲しみである、彼等はただ失望の嘆きのみをもって我を送るのである、その愛よりづる涙を見て我もまた心動かざるをえない、我もまたこれがために泣かざるをえない。さりながら我は果たしてただ涙をもって送らるべきであろうか、彼等の愛する者が十字架につけられしことは果たして彼等の心より何かを奪ったのであろうか、ふるき我の死したることは果たして悲しむべきことであるか。

もはや我生けるにあらず、キリスト我にありて生けるなり(同章同節)

ふるき我は死した、ゆえにもはや我生くるのではない。それにもかかわらず我は生きている、新しき我は立派に生きている。これすなわち我ではない。我はキリストと共にすでに十字架上に死した、しかし彼は死さない、彼は復活したもうたのである、しかして彼がまた死したる我を復活せしめたもうたのである。もちろんふるき我を再び生かしたもうたのではない、ここに全く新たなる誕生が行われた、新しき我が造られたのである。新しき我とは何ぞ、我が眼わが口は依然としてもとのままであるかも知れない、しかしながら我が内心に昔見ざりしものがある、我が内心に主人が座っている、彼が今や絶対の権能をもって我を支配している、我が物言うは彼が言うのである、我が事を行うは彼が行うのである、我が生命せいめいのすべては彼よりづるのである。ゆえに新しき我の価値は彼の何人なんびとなるかによって定まるのである、しかして彼はすなわち神の子イエス・キリストである、彼は自己の生命せいめいを中心として新しき我を造りたもうたのである、彼を唯一の主人として又無二むにの親友として心の奥に迎えしものが新しき我である。

ふるき我と新しき我との間にこのほか別に変わりはない。しかし心の奥に彼を迎えたというこの一事は、我なるものを全然別のものにしてしまったのである、天地の間における我の地位を一変してしまったのである、実にその相違は根本的であって何物の変化もこれに比ぶることは出来ない。

汝等すでに子たることをえしがゆえに神その子の霊を汝等の心におくりアバ父と呼ばしむ(同四章六節)

彼すなわち神の子を心の奥に迎えてより、ただ一つ従来になき経験をったのである。「アバ父!」かくいいて神にすがるをえることがそれである。ふるき我にこの事だけは出来なかった。社会に勢力を占むることは出来たかも知れない、有益なる事業をなし遂ぐることは出来たかも知れない、しかしながらただこの一事だけは不可能であった。もちろんふるき我も幾度いくたびかこの事を欲した、父なる神を見んことを欲した、が遂に不可能であった、「父よ」の呼び声を心の底より発することは遂に不可能であった。今は又わが能力も勢力も十字架につけられた、その代わりに見よ、我は満心の渇仰かっこうをもって「父よ」と叫ぶことが出来るのである。歓喜にちた時にもかく呼ぶのである、失望に沈んだ時にもかく呼ぶのである。我はこの声がわが心の那辺どのへんよりづるかを知らない、多分心の奥にいますわが親しき主よりづるのであろう、それに相違ない、何となれば彼を迎えて初めてこの事が出来るようになったからである。彼の霊が我をしてかく叫ばしむるに相違ないのである。しかして彼はすなわち神の子なるがゆえに彼の霊を迎えて我もまた子たるの資格を得しとは、いかにもさもあるべきことではないか。しかりかくして我は現実に子たるの資格を獲得したのである。神に子とせらる(あるいは義とせらる)とは単に子なりとの宣告を受くるのみではない。子たるの実力を与えられずして子とせらるることは出来ない。しかして父よと呼び子よと呼びかわすそのまじりなき愛が現実に成立して、ここに初めて神に子とせられすなわち義とせられたのである。これが出来るまでは我は何でありしとも子ではなかった。これが出来てからは我は何でなかろうとも神の子たることだけは確実である。子と名づけられて子となったのではない、子たるの実力を与えられたるがゆえに子たらざるを得ないのである。

このゆえに汝はもはや僕にあらず子なり…汝等神をらざりし時はそのじつ神にあらざる者につかえて僕たりき(同七、八節)

子となるまでの我は何であったか。その元気はさかんにその野心は強くその勢力はだいであったにもせよ、要するに一個のしもべに過ぎなかった。名利めいりて名利にとらわれ、人を頤使いしして実は人につかえ、罪と死とに翻弄ほんろうせられ、多くの朽つべきもののために我が心は八方よりおさえられていたのである。此方こなたからんとすれば彼方かなたあしく、右に伸びんとすれば左に屈し、矛盾又矛盾、弥縫びぼう弥縫びぼう、内心の空虚みたすによしなくわずかに不徹底なる慰安いあんあさりてはかなきその日ぐらしを続けていたのである。ああ、これじつ現下こんにち世界幾億いくおくの人々の飾らざる内的消息しょうそくではないか。かの自信あるらしき学者政治家事業家の心事しんじ畢竟ひっきょうここを出ないではないか。これはこれ神をらざるものにって当然の途行みちゆきである。いまだイエス・キリストを心に迎えざる者にしてひとりこの事をせんとするは無益である。子たらざる者の身分は僕たるよりほかないのである。ふるき我は実にこの世の奴隷たるをまぬかれなかったのである。

しかるにキリストを迎えて我は釈放せられた、彼は奴隷たる我をあがなうて子たる身分を附与ふよしてくれた、彼はふるき我を十字架につけてすべて我が心を縛りし虚栄や情欲や情実じょうじつ蹂躙じゅうりんしてしまった、しかして自ら代わって新しき我の主人となったのである。我はすなわちこの世の奴隷よりまぬかれてキリストのしもべとなったのである。キリストの僕は奴隷ではない、子である。彼が我等の主たるは世の常の主人のごときではない、限り無き愛の主である、ゆえに又友である、新郎はなむこである、彼のごとき新郎はなむこを得て我はすべて今までの欲望をなげうたざるをえない、彼のごとき友を得て我はあらゆる恐れをてざるを得ない、彼と共にあってこの世の光輝こうきは我が眼をくらませんとするもあたわない、彼の声を耳にして社会の喧騒けんそうは我が注意を奪わんとするもあたわない、彼に手をられて死も我をおびやかすに足りない、彼を主と仰ぐことを得てふるき我を十字架上にさらすことはさらに惜しくないのである、彼を迎えてなおかつ奴隷のくびきつながるることは不可能である。

イエスキリスト我等をきて自由を得させたり、このゆえに汝等堅く立ちてふたたび奴隷のくびきつながるるなかれ(同五章一節)

いなただに奴隷のくびきより我等をき放ちたるばかりではない、彼は今や我が内心に常住じょうじゅうして刻々こくこくに我を導きたもうのである。彼に導かれて我もまた子たる者の霊をつことが出来た。かくて我もまた彼とひとしく神の世嗣よつぎとなったのである、神の国をけ継ぐべき者は我等である。いな彼と結び付いてすでに我等は神の国をいだのである、すでに天国の市民となったのである。もちろんこの国にありて我等はひとり自ら歩みうるのではない、一歩いっぽ彼は我が手をって進む、彼のおもむく所に我はおもむく。かつて幾度いくたびか到達せんことをくわだてて遂に失敗したるいと高きあるいはいと深き所へも、彼に導かれて今はいたり着くことをえるのである。これくのではない、彼がくのである、彼と共に歩みて我が足は自然に前に進む。荊棘けいきょくも我を妨ぐるあたわず、雲霧うんむも我をさえぎるあたわず、彼の足跡そくせきいんする所に我もまた足跡そくせきいんする。しかして彼の道は愛である、ゆえに我もまた愛の道を辿らざるをえない、かくして彼と共にその高峯こうほうによじ登りて美しき峯々みねみね眺望ちょうぼうほしいままにせざるをえない。

みたまの結ぶ所の仁愛じんあい喜楽きらく、平和、忍耐、慈悲、良善りょうぜん、忠信、温柔おんじゅう樽節そんせつ(同二十二節)

と、かかる多くのたまものは求めずしておのずから我がものとなるのである。実に彼を友として以来人生の味は一変するを感じた。罪はおのずから我が心より離れ愛と義とは徐々にわが性格となりつつある、不思議なる手がわが胸のうちの雑草を取り除きてき種を植えつつあるのである。これすなわちきよめである。しかして子たる者の自由とは畢竟ひっきょうこの不思議なるきよめにほかならぬのである。

今より後誰も我をわずらわすなかれ、そはわれ身にイエスの印記しるしびたればなり(同六章十七節)

しかり、我は身にイエス・キリストの印記しるしぶるのである。我は彼と共に十字架につけられ、彼によって義とせられ、彼によってきよめられつつあるのである。すなわち我が全身が彼の印記しるしである。その限り無き光栄をおもうて感謝の涙にむせばざるをえないのである。