活ける水

藤井武

イエスはいまガリラヤして旅したもう途上である。みちは日頃ユダヤ人と互いに蔑視べっしして交際をなさざるサマリアにかかった。とある小邑しょうゆうのほとりに辿り着きたまいし頃はや日も高く昼の十二時頃であった。路傍ろぼうに見ゆるは由緒ゆいしょも深きヤコブのいどである。水に不自由なるユダヤの曠野あれのを歩みたもうことすでに半日、身は相応に疲倦つかれもよおのどは少なからず渇いている。イエスは座したもうた。簡単なる昼食ちうじきを備えんとて弟子たちはむらに立ち去った。引きかえに現われ来たりしは水瓶みずがめ小脇こわきかかえしサマリアのおんなである。いどそば見識みしらぬユダヤ人の蹲居そんきょせるを見てうるさしとや思いけん、されど何気無なにげな素振そぶりにて汲器つるべを下げた。その時イエスはおもむろに口を開きて「我に飲ませよ」ともとめたもう。おんなは意外なる面持おももちである。「汝はユダヤ人にして何ぞサマリアのおんななる我に飲むことを求むるや」、彼女は怪しまざるをえなかった。しかしイエスは答えたもうた、

汝もし神のたまものと我に飲ませよという者のたれなるを知らばなんじわれに求めん、さらばける水を汝に与うべし、

ユダヤ人なりとて怪しむなかれ、汝もしかく言う者の何人なんびとなりやを知らば我いま汝に水を求むるごとく汝もまた我に求めん、しからばいどの水ならぬける水を与うべしと。おんな怪訝かいが一入ひとしばつのった。汲器つるべなくいどもまた深きにける水とは何処いずこよりみしものなるべき、そもそもかかる不思議を語るこの人は果たしてたれぞやと。しかしイエスはなおも続けたもう、

「すべてこの水を飲む者はまた渇かん、されど
我が与うる水を飲む者は永遠に渇く事なし、かつわが与うる水はそのうちにて泉となり湧きでて永生かぎりなきいのちに至るべし」

いどかたわらにて水の話である、ユダヤ人がサマリアのおんなに言うとはとの怪訝かいがに対して、「我のたれなるを知らば」といいたもうのである。話題は極めて自然的である。ここに一杯の水を求むるのついでに深遠なる真理を語りたもうと気付きつかざるは、ひとりサマリアのおんなのみではあるまい。しかし我等は見落としてはならない。日常平凡の事例をもって神の真理を説明したもうはイエスの常の筆法ひっぽうである。彼は今人類の救済について語りたもうのである。神の愛と信仰とについて語りたもうのである、パウロの言葉にて義と聖としょくとについて語りたもうのである。しかりこの簡単なる井端いどばた立話たちばなしうちに限りなく深き真理がある、キリスト教の奥義がそこにもっておるのである。

「汝もし神のたまものと我のたれなるとを知らば」

神のたまものとは何であるか、き境遇か、幸福なる家庭か、知識か、徳義とくぎか、あるいは又親しき友人であるか、いな神はかかるものを我等にたまう前に驚くべくとうとたまものをたもうたのである。しかし我等はただ神のたまものの何であるかを胸に思い浮かべて見るだけでは遂にこれを発見することができない、我等はでて捜さなければならない、遠くパレスチナの一角いっかく髑髏どくろ山上に辿たどりてそこに立ちたる十字架を仰ぎ見なければわからない。これを仰ぎ見るときに我等はあたかも畑にかくれたる宝を発見したるがごとくに驚きとよろこびとに打たるるのである。その十字架の上にけられたる罪なき囚人めしうど、終わりまで世を愛し、愛したるがためにかえって死をもってむくいられ、しかもなおかつ世のために祈りたもう、彼は神の独子ひとりごでなくてはならない。果たしてしからば神は我等にその愛を知らしめんがために独子ひとりごをさえもたもうたのである。これはこれ驚くべきたまものではないか、十字架にけられたる神の独子ひとりご、彼を仰ぎ見て我等は叫ばざるをえない、これである、これである、神の心づくしのたまものはこれであると。

彼のこうべはうなれておる、そのかしらにはいばらの冠がある。しかし彼を熟視じゅくしして我等は知る、この神の独子ひとりごこそは二年の昔サマリアの野なるヤコブのいどかたわらにて水汲みに来たれるおんなと語りたまいしかのユダヤの旅人なることを、「我に飲ませよ」と求めたまいしイエスその人なることを。さては神のとうとたまものはすなわち彼自身にてありしか、世を救わんために来たりたまいし神の独子ひとりごは彼にてありしか。うべなり、「汝もし神のたまものと我に飲ませよという者のたれなるを知らばなんじわれに求めん」と。しかり彼が神の独子ひとりごにていましたもうならば我等は彼を信じ彼に求めざるをえない、願わくは罪と死より救いたまえと、かくして我等は弱き自己をこのまま彼に引き渡すのである。

「さらばける水を汝に与うべし」

ける水とは不思議なる言葉である。かかることばを初めて聞きしサマリアのおんなが汝何処いずこより汲みてそのける水をてるかと怪しみたるも無理ではない。しかしこれは汲器つるべにて汲み取る物質の水でないことは明らかである、何となればこれを飲む者は永遠に渇くことなしとあるからである。しからばあるいは愛とか正義とか真理とかいう精神上の徳性又は知識のるいであろうか、あるいは幸福とか安心とかいう境遇又は感情のるいであろうか。神の独子ひとりごの我等にたまうものと聞いて、神のたまものについていだきしと同じようなる疑問を再び繰り返すのである。しかしこれまた脳裏の想像をいかほど巡らしたればとて解することはできない。ける水の何たるかは十字架上のイエスに自己を引き渡したる者にして初めてこれを実験することができる。これは口もって説くあたわず眼もって見るあたわず、ただ霊をもってのみこれを解しうる。しかりイエスの前にささげられたる砕けたる霊のみがよくこれを解するのである。

ける水はもちろん物質ではない。さりながら又単に徳性や知識ではない、境遇でも感情でもない。ける水はすなわちける者である、人格者である。彼は常に我等と共にありて我等を導きかつ慰むる友である(ヨハネ十四章十六、二十六節、十五章二十六節、十六章七節)、すべての事につき信頼すべき唯一の伴侶である。彼を友として我等は内なる罪にうち勝ち又外なる世にうち勝つのである。しかし彼は人ではない、彼に肉体はない、彼は霊である(七章三十九節、十四章二十六節)、真理の霊である。父よりでたる真理の霊であって、イエスのために証しをなし、又すべての真理を我等に知らしむるものである(十四章十七節、十五章二十六節、十六章十三節)。彼に導かれて我等はイエスの兄弟となり、神を父と呼ぶことができるのである(ロマ八章十四、十五節)。すなわち彼は子たる者の霊であって、彼を受けたる者のみが神の子と呼ばるるのである。しかり彼は子たる者の霊である、神の独子ひとりごたるイエス・キリストの霊である。キリスト今はこの霊によりて働きたもう、ゆえにまた彼を信ずる者の霊の内に来たりて自ら宿りたもうのである。かくして我等は彼と共に神の子たるの地位を獲得する。神の独子ひとりごたるイエスを信じ彼を主と仰ぐときに彼の霊が我にのぞみてここに全く新たなる生活が始まるのである。ける水を受くるとはすなわちそのことにほかならない。

「わが与うる水を飲む者は永遠に渇くことなし」

この霊一度ひとたび我等にのぞむやかぎりなく我等と共にあるのである(ヨハネ十四章十六節)。我等はもはやしばらくも孤独であることはできない、しばらくも彼の導きと慰めとより離るることはできない。もしあやまって彼を離るるときは彼はただちに来たりて我を取り戻すのである。ゆえに彼を受けたる者はたとえあやまって罪を犯すとも又ただちに彼に立ち帰るのである。かくして我等は再び罪のくびきを負いてその奴隷となることはない。罪はなお我等を離れ切らざるも最早もはや我等の主人ではない、主人はける水なる聖霊である。彼はすなわち真理の霊であるから彼と共にありて真理に渇くのうれいはない。彼は又慰むる者であるから彼を伴侶として同情に渇くのおそれはない。彼の慰籍いしゃと指導との下に我等は日々に平康やすき聖潔きよめとをて行くのである。

「かつわが与うる水はそのうちにて泉となり湧き出でて永生えいせいに至るべし」

それのみではない、この与えられたる水がいつまでも我等のうちにあるのみならず、それが一つの泉となりて更に新たなる水が湧きづるというのである。我等のうちに宿りし霊が常に我等と共にあるのみならず、そのうちよりさらに新たなる生命せいめいが生まれづるというのである。まことに彼を胸にいだきてより従来いままでらざりしとうとき力が限りなくあふれ来たりて、我等の地上における生活が益々ますます豊贍ほうせんなるものとなり行くはもちろんあるが、最後にこの朽つべき肉体が朽ちてしまう時に永久に朽ちざる完全なる生命せいめいが新たに彼より賦与ふよせらるるのである。この生命は全くきずなくしみなきものであって、キリストのさかえに似たる栄光の生命せいめいである。その時罪は最早もはや痕跡こんせきをもとどめずなり、ただきよき愛をもって充実するのである。我等はもちろん生まれながらにしてかかるとうと生命せいめいを獲得すべき資格も能力もたない。我等は自己にのみ頼るときは遂に死して朽ち果つるのほかはない。しかしながらただイエスの何人なんびとなるかを知り、彼に頼りて彼よりける水すなわち聖霊を受くるときは、聖霊そのものが泉となりてこのとうと永世えいせいを我等の内に湧きでしむるのである。すなわちこれは全然彼のたまものである、我等に与えらるる最大にして最後の恩寵おんちょうである。

かくのごときがいわゆるける水である。疲れたる身をしばし路傍に休ませて一杯の水にのどうるおさんとするにあたりはしなくもこの深遠なる福音を初見しょけんの一サマリア婦人に伝えたもう。驚くべきはイエスなるかな。おんな初めはなおその意味をみ取りねしも遂に水瓶みずがめのこしてむらに行き人々に来たりてキリストをよと言い触れしといえば、恐らく神のたまものと我に飲ませよと言いし人の誰なるを少しくかいしえたのであろう。先にはユダヤ人のつかさにてパリサイの学者なるニコデモ彼に来たりねんごろに教えらるるも遂にさとらず、いかでこの事あらんやと言いて去りしに、今は名も無きサマリアの一婦人、しかもかつて五人の夫をげんに夫ならざる者と共にあるの罪人、井端いどばたに立ちてかわすこと三ことことにして遂にイエスの神の子なるを知り驚きとよろこびとのあまりこれを人々に伝えんとて蒼皇そうこう走り去る、まことさいわいなるは智者達者ちしゃたっしゃにあらずして赤子の心をもてる罪人である。神のたまものとイエスの何人なるとはかかる人にあらわれて驚くべきける水が与えらるるのである。かくて二千年前サマリアの野における一じょうの水問答もんどうは我等のために限り無き福音をのこしたのであった。(ヨハネ四章)