一粒の麦

藤井武

一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし、その生命いのちを惜しむ者はこれを失い、その生命いのちを惜しまざる者はこれを保ちて永生えいせいに至るべし(ヨハネ十二章二十四節以下)

すべて植物の種子は自らその身を保護するの力をたもち、堅き皮をかぶりてひとりその生命せいめいを維持せんとしておる。しかし種子がかくいつまで生命せいめいを自己のうちに取り込んで守っておる間は決してさらに大いなる新生命しんせいめいを得る事が出来ないのみならず、遂には枯死こししてしまうであろう。しかるに一粒の麦もし地に落つるならば、たちまちその今までの自己本位をてて全身を地に明け渡してしまう。堅き皮は破れ地の養分がその中に入り込んで遂に新しき生命せいめい発芽はつがして来る。この事実は到るところにおいて年毎としごとに繰り返されているので、我等は別に怪しみもしない。しかしよく考えれば奇蹟である。なぜ自ら生命せいめいたもたんとする間は新しき生命せいめい出来できかえっ枯死こしの恐れがあるにはんし、地に落ちて自己を全く地に委ぬる時は驚くべき新生命しんせいめいが出て来るのであるか。じつに種を蒔いてその発芽を見るときに、造化ぞうかの奇蹟を感じないものはあるまい。しかしこれ動かすべからざる事実である、天然のこの原則は少しの例外もなく古来こらい今に至るまで繰り返されている、まことにその生命いのちを惜しむ者はこれを失い、その生命いのちを惜しまざる者はこれを保つべしである。

この事はこれ天然の法則である。しかして天然の法則とは多く神の摂理の一面にぎない。神の摂理なるがゆえに真理である。ただに物質界の真理であるのみならず、精神界においてもまた真理である。これは新生命しんせいめい発展の法則である。しかして生命せいめいはただに肉又は物質においてあるのみならず、霊においてもまたある。いな霊の生命せいめいこそはほんとう生命せいめいの源であって、我等は物質の生命せいめいの発展に関するこの法則はむしろ霊の生命せいめいの発展に模象もぞうされたものであろうと思う。

物質に新生命しんせいめいがある、霊にももちろん新生命しんせいめいがある。物質の新生命しんせいめいはやがて物質と共に又消えてしまわねばならぬ、これにはんし聖霊によりて生まれし霊の新生命しんせいめいは永久に朽つる事なき永生えいせいである。しからば我等は如何いかにして霊の新生命しんせいめいる事が出来るか、朽つべき人間が朽ちざる永生えいせいを取得するの原理は何処いずこにあるか。汚れたる罪人の心に聖霊の宿り込むという法則は何であるか。

イエスはこの問いに答うるに様々のたとえをもってしたもうた。なかんずくヨハネ伝十二章に掲げられたるこの一粒の麦のたとえは最も適切通俗つうぞくなるものであろうと思う。イエスはこの驚くべき大原理を説明するに難しき哲理てつりをもってはしたまわなかった。彼のには宇宙の大真理も通俗つうぞくならぬものはない。何となれば木の葉の散るも星の飛ぶもひとしく大能の摂理であれば、これを説明するに彼をもってするの容易なるは当然の事であるからである。イエスは聖霊獲得の方法如何いかんとの大問題に答えて、一粒の麦のごとしと言いたもうた。我等はじつにこの一見全然没交渉ぼつこうしょうなるらしき二個の事実の間に、適切正確なる大類似だいるいじを発見するのである。

我等は自己の生命せいめいを救い永生えいせいさいわいらんと欲して、自らいかほど善行を積み努力修養を重ぬるといえども事は絶対に不可能である。やがて恐るべき死は容赦なく襲い来たりて、我等はすべての所有物もちものをここにのこし、すべての望みを失い、寂寥せきりょうもだえ暗黒に恐れおののきつつかねばならぬ。悲惨なるものにして絶望の死のごときはない。しかも我等はこれをまぬがれんとするもそのみちを知らないのである。いわゆるちからやまおおうの英傑えいけつといえども、自己に頼りて永生えいせいを獲得せんとするはあたかも木にりてうおを求むるの痴愚ちぐを学ぶのである。

ここにおいて一粒の麦は我等にはんるるのである。落ちよ、死せよ、死して全身を地に明け渡せよと。地はその抱有ほうゆうする豊かなる生命の材料を提供して麦の落つるをちつつあるのである。しからばすなわち我等の生命せいめいを引き渡すべきその大地は果たして何であるか。

思えばこの謎そのものは必ずしも新しきものではなかった。古来こらい人生を悩ましたる最大問題は実に此処ここにあったのである。弱きたねなる我等を発芽はつがせしむべき地を尋ねて人は長らくさまようた。その発見に苦しみし時代は長かった。イエスはいま又この解くべからざる謎をもって我等を苦しめたもうのであるか。かく思うて彼の顔を見上げた時にこの千年の謎語めいご忽然こつねんとして解けたのである。彼である、彼である、れ神の独子ひとりごイエス・キリストこそすなわち我等の生命せいめいゆだぬべき大地である。謎のこころは今や読むことができた。「人の子さかえを受くべき時至れり」(ヨハネ十二章二十三節)と言いてまさに光栄ある犠牲の死とそれに引き続く復活とを実現せんとしたまえるれイエス・キリストに従うて、我等もまた死なねばならぬのである。一切いっさいをことごとくて去り、ただ十字架を負うてたねばならぬのである。この罪に汚れし自己を投げ出して全く彼に明け渡さねばならぬのである。その時ふるき小さき我は死して新しく大いなる我が生まるるのである。自ら保たんとしたる霊を砕いてしまった時に初めてイエスの霊を吸い取ることができるのである。うべなり、神の求めたもうものは砕けたる霊なりと(詩篇五十一篇十七節)。彼は善行を要求したまわない、もちろん祭物さいもつを要求したまわない。彼はその独子ひとりごイエス・キリストを我等に渡して、ただ信ぜよしからば救われんと促したもう。まことに我等の救わるべきみちれイエスである、自己に死して彼に生くる時に我等は何の功績いさおしもなくしてただちに義とせらるるのである。

誠にまことに汝に告げん、人もし新たに生まれずば神の国を見ることあたわじ……人は水と霊とによって生まれざれば神の国にることあたわざるなり(ヨハネ三章三、五節)

新生とは旧生命きゅうせいめいの死滅と新生命しんせいめいの創造である。水によりて旧生命きゅうせいめいを洗いて、霊によって新生命しんせいめいを享受せずんば、永生えいせいは我等にのぞまない。しかしてふるき我を棄て去ってただイエスを主と仰ぐときに、聖霊は必ず我等の胸に宿りとこしえに朽ちざる新しき大生命だいせいめいが我等に賦与ふよせらるるのである。何故なにゆえにそうであるかと問うか。我等は知らない。これ神のなしたもうところにして我等の眼にはいとあやしとするところである。しかし大いなる真理はみなそうである。我等はその事実たることを知れば足りると思う、しかしてその事実であることは疑いない、一粒の麦の発芽は我等の心霊的実験とあいちてこれを証明するのである。

一粒の麦もし地に落ちて死なば多くの実を結ぶべしと、これはまことに狭き門である。しかしながら生命せいめいに至るの門はこれをいて他に無いのである。