イエス・キリストをわが主であると感じ、主よと呼びて彼に頼ることは必ずしも難しくない。自己衷心の要求に忠実なる者にして少しく彼の性格について学び得し者に取っては、かく感じかく呼ぶことはむしろ自然である。現に今日多数の人々が自らイエスの弟子なりと称して生活しているのである。慕うべき彼の聖名を口にして彼に信頼するの心を表わすは決して悪しきことではない。かくのごとくして我等もまた彼の足跡を踏まんと欲するのである。しかしながら彼に従うことは彼を主と呼ぶことのごとく容易ではない。彼の人格に讃美の心を傾倒する者も、彼に従わんとしてしばしば躊躇うのである。「もし我に従わんと欲う者は己を棄て、その十字架を負うて我に従え」と、これ彼の提出したもう要求である。実に難問である、人生最大の難問である。我等はイエスの生涯殊にその死を憶うときは、自らもまた十字架を負うて彼に従うの、すなわち彼に酬ゆるの所以であることを知り、彼の要求の決して過当ならざるを思う。しかして又幾度かこれを実行せんと試むるのである。しかしながら事は実に容易ではない。十字架!これを彼方に置いて仰ぎ見れば栄光かがやくを覚ゆる。これを自ら手にせんとすれば我手戦くのである。何ぞ主の十字架の貴くして己が十字架の厭わしきや。その罪標に「ユダヤ人の王イエス」と記されしを見ては実に感激に堪えない。しかるに見よそこに我が姓名を記されては我は慄然たらざるをえない。我は満身の勇気を鼓してこれを負わんとするも力足りない。強いてこれを肩にせんとすれば、我眼眩みてもはや主の十字架の栄光をさえも見ることが出来なくなる。その時我が内心もまた我を裏切って言うのである、「汝、田地を買いたれば往きて視ざるをえざるにあらずや、汝五くびきの牛を買いたればこれを試むるために往かずや、汝妻を娶りたるにあらずや」と(ルカ十四章十八―二十節)。かくして我は遂に十字架を負うことが出来ないのである。自ら主よと呼びながらその跡に随て往くことが出来ない。自分の要求は何事でも彼の名に託って祈りながら、ただ一つの彼の要求を受け容るることが出来ない。これ信者の苦衷である。これを憶うて心痛まざるものは、偽善者にあらずんば白痴である。
実に十字架を負うことは人生の最大問題である。かかる重大にして困難なる問題が自分の力で解決しえようはずはないのである。信者が事をなすに一々祈りを要するならば、ましてこの難問をや。これは祈るに最もふさわしき問題である。祈ってそのままに聴かるべき事柄である。如何なる祈りが聴かれずとも、この祈りだけは聴かれない心配がない。何となればこれ主の欲したもう処である。神御自身の要求である。かかる祈りこそ安んじて主の名に託って捧ぐべきである。今日未だその時機でないならば願わくは明日これを成らせたまえと、かくのごとくして我は日に日にわが神に迫るのである、朝より夕まで刻々に主の招きを待つのである。その時が何時到来するかは知らない、ただ祈りつつ今か今かと待つのである。
かくする内に主と我との交わりはいよいよ親しみを加える。従来襖を隔てて聞きしようなる彼の声は次第に耳元に近くなる、帷の陰に蔽われてありし彼の姿は著しく明瞭に見うるようになる。殊にその十字架上の姿はいよいよ深き印象をわが心に刻んで最早暫らくも忘れがたくなる。我等のため、特に我がため、かかる死を味わいたまいしと思へば、その限りなき愛の心はわが全心を潤して我を囚えてしまうのである。「キリストの愛我を勉ませり」、かくまで彼に愛せられて我心は酔わざるをえない。今や彼は深くわが衷心の髄にまで喰い入っている。彼を振り放さんとするもあたわない。彼を脱れんがため出でて野に往けば、すなわち彼もまた我と共に野に往くのである。入りて雑踏の巷に隠れんとするも、彼はなお来たりて我が眼前に立つのである。眼を閉づれば彼の姿いよいよ鮮やかに浮かび、耳を蔽えば彼の声益々冴かに聞こゆる。睡りて彼を忘れんとすれば、すなわち夢に彼を見るのである。ああ、神の子イエス・キリストは今やわが恋である。何人も彼に奪われしわが熱情を割くことは出来ない。我自身といえどもまた奈何ともすることが出来ない。彼が招くのである、彼が我名を呼びつつあるのである。聞かざらんと欲するも聞こゆる。彼の呼ぶのが明瞭に聞こゆる。ああ呼ぶ、呼ぶ。我は往かざるをえない、誰が往かずとも我だけは往かざるをえない。よしその道は何であろうとも我は往かざるをえない。彼に呼ばれて我が時は来たのである。今や十字架より外に我が負うべきものはないのである。美田も新妻も五くびきの牛も我を止むることは出来ない。我自身の無力もまた何の妨げにならない。キリストの愛我を余儀なくするのである。彼の手に助けられて十字架は遂にわが肩に上るのである。
かつてこれに触れんとして我手戦きし十字架は素より苦痛である、悲哀である。そのことは今といえども少しも変わらない。死はその影である。これを負うて死の苦き杯を飲まざらんと欲するもあたわない。これを持つ手は血と涙とに塗れざるをえない。別離の悲哀はどうしても渡らなければならぬ谷である。骨肉の親しみより離れ、生活の保証より離れ、この世の人の幸福と称するすべての条件より離れて、孤独貧窮迫害の衣を着なければならない。これを外側より見て何の美しき姿があろうか。何の温かき装いがあろうか。十字架は何処までも十字架である。これは白金や大理石にて作りし床の間の飾物ではない。これはかつて棘の冠を戴きたる人が、その上に両手を展べて血を流したる木の架である。これに良き薫りのするはずはない。死が恐るべきものである以上十字架は恐るべきものである、これを負うは苦痛である、悲哀である。
ああ、しかしながら十字架に絶大の歓びがある。これを負う者の胸にこの世ならぬ歓びがある。外なる人は迫害に悩むとも内なる人はいいがたき歓喜に充ちて、ただ感謝を繰り返すの外ないのである。彼の外貌の零落すると均しく、否それよりも遥か以上に彼の胸裏の光景は一変するのである。彼の狭き胸の中に新しきエルサレムが描かれるのである。天国天国といいて遠き彼方墓の向こう側に想像しいたるその神の国が、今や歴然とわが胸裏わが周囲に実現するのである。「我等此処に在りて恒に存つべき城邑なし、ただ来たらんとする城邑を求む」。しかしながら我等の希望は空しき想像ではない。この世に在りて少しも実験するあたわざる空しき想像のみに希望を置くは我等の耐うるあたわざる処である。我等は信頼すべき確実なる商人と取り引きをするにもなお見本を取り寄するのである。すなわち彼が見本通りの商品を提供することにおいて信頼して疑わないのである。これ弱いといえば弱いのであろう。しかしながら人生の事実である。これあるがゆえに神を見るにもキリストを要したのである。天国の希望もまたそうである。我等此処に在りて恒に存つべき城邑はない。しかし来たらんとする城邑の質はこれを有つことが出来る。天国の模型はこれを実見することが出来るのである。これを実見して我等の心は安んずるのである。多年ただ想像の裡にありし新しきエルサレムを今わが身辺に実見して、我はいい知れぬ歓喜に溢れざるをえないのである。ハレルヤ!わが故国はこれである。わが行先はこれである。この世の労働を終えて暮鐘の音に送られつつ、わが帰り行く楽しき家はこれである。かかる家が墓の彼方に待つならば、死は実に感謝すべき旅路である。かかる天国の質を握ること、それが十字架を負うの歓びである。しかして十字架を負うにあらざればこの歓びは味わうことが出来ないのである。
天国とは多分父なる神及主イエス・キリストの愛のほか、何の法則も束縛もなき自由にして平安なる国であろう。今十字架を負いたる我が心はすなわちそれである。主イエスに身を委ねながらなお腐れ縁の切れざる彼の主此の主に時々は秋波を送らざるを得ざりし昔の辛さを、今や奇麗に洗い流したのである。今や主の愛のほかに我を縛る縄はない。盗賊の来たるがごとく密かに我心に忍び込むこの世の主を迎うるの苦心は要らない。ただ慕わしき主イエスのみのために安んじてわが全生を捧げまつるのである。彼が右せよと命じたまわんか、何の顧慮する処もなく右するのである。彼が左せよと命じたまわんか、唯々として左するのである。かくして今日彼の国に召したまわんか、我は何の後髪引かるる思いなくして喜び勇んで出立するのである。実に人心を解放するものにして十字架のごときはない。これを負うてあたかも静かなる大洋に漕ぎ出でたるの感がある。その洋々としてしかも安らかなる光景は、これを実見せざるものに説明することが出来ない。その見渡すかぎり隅から隅まで暉々たる日光の照らすに委せたる壮快なる景色は確かに現世的ではない。此処に彼国の面影を認むることが出来る。この自由と平安とは多分天国の生活の反映であろうと思う。
天国とは多分純なる無私の愛をもって兄弟姉妹の相交わる処であろう。先んじて其処に在る者は後れて来たりし者を迎うるに、相抱いて喜び祝する処であろう。十字架を負える者の小さき社会はまたそれである。彼の家庭は今や一点の緩みなき、触るれば凛々と鳴り響くようなる純金の愛をもって堅めらるるのである。彼の先達は彼を迎えんがために、「遠くより走り往き……いとも善き服をこれに衣せその指に環をはめ、その足に履を穿せ、又肥えたる犢を宰りて共に楽しむ」のである(ルカ十五章)。もしこれをしも天国の質でないというならば、天国とは望むに足らぬ処であると思う。世の人々が悔みの詞をもって見送りつつある間に、同志の者はすでに「所を備えて」彼を歓迎するの準備をなしているのである。人生の失敗者のごとくして送り出された時に、彼の恵まれたる新生活が初まるのである。墓の彼方の復活もまたかかる者にあらずして何ぞや。我は復活の状態を理論によって断定することは出来ない。しかしその心持はこれを味わうことが出来る。天国における兄弟の交わりはこれを此世において経験することが出来る。永生の歓びはすでに今よりこれを感ずる事が出来る。
けだし神はキリストを信ずる者に約束するに永生をもってしたもうた。しかし我等の神は何処までも思いやり深き神である。彼はただ約束のみに止めたまわない。彼は我等の希望を堅く繋がんがために約束に添えて質を賜うたのである。
我等を汝等と共にキリストに堅固しかつわれらに膏を沃ぎしものは神なり、彼また我等に印しかつ質として霊を我等の心に賜えり(後コリント一章二十一、二十二節)
それこの事(復活)に応う者と我等をなしたもう者は神なり、彼れ霊をその質となして我等に賜えり。(同五章五節)
万事をその意のままに行う者おのれの旨に循いて予め我等を定め、キリストに在りて嗣子となることを得しむ……汝等もキリストを信じ我等が業を嗣ぐの質なる約束の聖霊をもって印せらる(エペソ一章十三節)
げに如何にも神らしき質である。この貴き質を与えられて、我等は来たらんとする城邑にすべての望みをかけるのである。しからばこれを受くるがために我もまた何か献げ物をなすべきではないか。わが全心を彼に捧ぐるの印として何かふさわしき贈物がないか。あたかもよしキリスト自らその選定をなしたもう。曰く十字架を負えと。これあるかな。聖霊に応うるに十字架をもってして、神と人との約束は成立するのである。この十字架を負うにあらずんば聖霊は確実に我がものとはならない。神の約束の質を受くるには、この一つの条件だけは履まなければならない。しかしてこれを履みさえすれば我は確実に印せらるるのである。わが行先は面上に記されて、我は紛う方なき嗣子となるのである。すなわち此世に在りてすでに天国を実験し、なおその上に最も確実なる来世の希望を抱くことを得る。これ十字架を負うの歓びである。
およそ神の国のために家あるいは父母あるいは兄弟あるいは妻あるいは児女を離るる者は、今世にて幾倍を受け来世には永生を受けざる者なし(ルカ十八章二十九、三十節)
およそ人の歓びとしてこれよりも大いなるものを想像することは出来ない。十字架の黒き影は死の苦痛である。しかしこれを負う者の胸の中はかかる歓喜もて輝くのである。彼は慕いまつる主の呼びたもうがままに余儀なくして立ったのであるが、今はその歓喜の絶大なるに驚嘆せざるをえない。かくて彼の残生はただ感謝感謝の連続である。しかして遂に最後の感謝を遺して窮なき栄光に入るのである。