二人祈らんとて殿に登りしがその一人はパリサイ人、一人は税吏なりき(ルカ十八章十節)
一は宗教家である、他は俗吏である。祈祷と断食とによって神に親しむは前者の得意とする処である、誅求と苛斂との中に自家の懐を肥やさんとするは後者に有りがちの罪悪である。いま二人の者ともに祈らんとて殿に登る、彼等は果たして如何に何を祈るか。
パリサイの人立ちて自らかく祈れり、神よ、我は他の人のごとく強索、不義、姦淫せず、またこの税吏のごとくにも有らざるを謝す、我れ七日間に二次断食し又すべて獲るものの十分の一を献げたり(同章十一、十二節)
彼は流石に宗教家であった。彼は神の前に立ちて己が日頃の行いを回想し、その正しきを感謝せずにはおられなかった。彼はこの時道徳上の勝利を感じて一般人に対し殊にその側に立てる俗吏に対して深き誇りを抑えあえなかった。我が徳行を見よ、わが信仰の力を見よと、恐らく彼は心の中に囁き、しかして自ら満足したであろう。彼は又神に対する義務をも欠かざるを知った。一週二回の断食と十分一の献物とはわが怠る処にあらず、我は神に対しても何の疚しきことあるなし、俯仰天地に愧じざる者は我なり、とかくのごとくに思い廻らして、彼は畢竟自己讃美の裡にその祈祷を終った。
これに反し憐むべきは税吏であった。素養の深きものあるなく、徳行の誇るべきものあるなく、宗教的義務の励行あるなく、却て平常の生活を顧みれば顧みる程慚愧の念に堪えざるものが多かった。彼はかつて貧しき村人を責むるに荒らかなる言語と不親切なる態度とをもってしたることを思い起こしたであろう。金銭勘定に淡泊ならずして不義の財を手にしたることをも思い起こしたであろう。怠慢、冷酷、利己その他あらゆる罪悪の追想にそぞろ胸痛み足の歩みもとかく渋りがちであった。しかのみならず彼は神に対して何の尽くすべきをも尽くさない。彼は自己の胸中を探りて何の確信をも発見することが出来ない。祈りに往くという、しかし余に果たして信仰なるものがあるのであろうか。否、徳なく智なく愛なきはもちろん、わが信仰と称すべきものさえ有たない。余は正に無一物である。何をもって神に見ゆることを得ようか、とかくのごとく彼は感じたであろう。されば彼に取っては神殿に近よる事さえ何となく心苦しかった、
税吏は遥かに立ちて天をも仰ぎ見ずその胸を打ちて、「神よ、罪人なる我を憐みたまえ」と曰えり(同章十三節)
彼は今自己の心の貧寒なるを思うて悲しみに堪えない、何と祈るべきかをも知らない、神に向かって自己をいい表わすに他に言葉はない。ただ「罪人」である、しかり実に罪人なる我である。何の誇るべきものもない。ただ「憐みたまえ」である。「神よ罪人なる我を憐みたまえ」と、これより他に彼の祈るべき言葉はなかった。神は我に何一つ善き物のなきをことごとく知りたもう。願わくはかかる我を憐みたまえと言いて、我なるものを神の前に投げ出すの他はなかった。憐むべき税吏!共に祈りしパリサイの人に対しても如何に心愧しく感じたことであろう。
しかしながらイエスはなお附け加えて言いたもう、「我汝等に告げん、此人は彼人よりは義とせられて家に帰りたり」と(同章十四節)。この憐むべき税吏の方がかの尊敬すべきパリサイの人よりも、神の前に義とせられたのであると、神は信仰と道徳との優れたる宗教家よりも、罪の思い出のみ多くして力無く心貧しき一俗吏を愛でたもうのであると。ここに人の眼と異なりたる観察がある。ここにこの世の判断と正反対なる評価がある。税吏は何故に義とせられ、パリサイの人は何故に義とせられなかったのであるか。
イエスに按られんがため人々幼児を携れ来たりしに弟子たち見てこれを責めたり、イエス幼児を呼び弟子に曰いけるは、幼児を我に来たらせよ、彼等を禁むるなかれ、神の国におる者はかくのごとき者なり、誠に汝等に告げん、およそ幼児のごとくに神の国を承けざる者はこれに入ることをえざるなり(同章十五―十七節)
イエスが幼児を近づけたまいしは無邪気なるがゆえではない、純潔なるがゆえではない。その母を承くる態度の何処までも信頼一方であるからである。幼児の母に対するやただ絶対の信頼のほか何もない。愛せらるるも縋るのである、叱らるるも縋るのである。「たとえ彼れ我れを殺すとも彼に頼り恃まん」と(ヨブ十三章十五節)、これ幼児の本心である。しかしてそのかくのごとくなるは何のゆえであるか。問う迄もなく自身何の力をも有しないからである。自ら何の恃むべき処なきがゆえに、心をうち開いてただ母よと頼り縋るの他を知らないのである。幼児に自ら恃む処の生ずる時は、すなわち母に対する信頼のややに薄らぐ時である。至極の無力、ゆえに絶対の信頼。しかしてイエスは曰いたもう、「およそ幼児のごとくに神の国を承けざる者はこれに入ることをえざるなり」と。幼児が母を承くるごとくに神の国を承くる者のみが、これに入ることをうるのであると。すなわち知る、無力無一物はこれ神の国に入るの条件ではないか。自ら顧みて罪のほか何の善き物なく、心貧しくしてただ愧づるのみなりしかの税吏の義とせられしは実に故あるかな。彼は多分わが信仰と称すべきものすらなきを悲しんだであろう。いわんや確信というがごとき力は一つも有たなかった。それにもかかわらず神の前に義とせられたのである。否それの故に義とせらるることをえたのである。母に縋る幼児に何の確信あらんや。彼にしてもし自ら語りうるならば言うであろう、「我にわが信仰なるものあるなし」と。しかりわがものと称しうる何一つも無ければこそ、そのままにただ母を仰ぐのである。税吏彼れ何故神に縋ることをえたるか。彼に徳なく智なく愛なく、実に彼の信仰と称すべき力さえも無かったからである。罪人なる我をと言いて、その身そのまま神の前に投げ出すことをえたるは、すなわち彼にパリサイの人のごとき自ら誇るべき何物も有たなかったからである。我等はどうかすると自己の信仰の弱きを歎きて、はなはだしきはもはや神に縋るの力も我にはなしとさえ思うことがないではない。しかしながら神に縋るの力とは果たして何の謂であるか。幼児が母に縋るに何の力を要するか。力無くてこそ勿怪の福である。我に何の誇るべく恃むべきものなく、わが信仰と称すべきものも無くなった時に、初めてイエス・キリストを我が主と仰ぐことができる。言うをやめよ、我が信仰我が確信と。信仰がわがものとなり、わが家又はわが金というがごとく自己の所有物財産の一つに数えらるる時、信仰はもはや信仰ではなくなったのである。信仰は信頼である、依頼である。税吏は幼児の母に依頼するごとくに神に信頼するをえたから、義とせられたのである。
ある宰問うて曰いけるは、善き師よ永生を嗣ぐために我れ何をなすべきか、イエス彼に曰いけるは……戒めは汝が知る処なり、姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、妄証を立つるなかれ、汝の父と母とを敬え、答えけるは、これみな我が幼きより守れる者なり、イエスこれを聞きて曰いけるは汝なお一つを欠く、その所有をことごとく売りて貧しき者に施せ、さらば天において財あらん、しかして来たり我に従え、彼れ大いに富める者なりしかばこれ聞きて甚く憂えたり(同章十八―二十三節)
宰とあればいずれ高き身分の人であった。従って相当の素養を有し又社会より尊敬せられていたる人であろう。果たして彼は永生を嗣ぐべき途を問うて、戒めをもって答えられし時、直ちに「これ皆わが幼きより守れるものなり」と言うている。彼はここに自己の誇りを感ずると共に、イエスの答の余りに平凡なるを怪しんだであろう。彼は思うた、もし永生を嗣ぐの条件が普通道徳に在るならば余はすでに十分その資格を有っている者である、又もしその上に何か高尚なる行為を要するならば余のごときは完全なる徳性を本として必ずこれを成就するに適するならんと。かくして彼はイエスの口より宗教の奥義を聞かんことを俟ったのである。しかるにイエスの答は又しても意想外であった。汝なお一つを欠く、すなわちその所有を売りて貧者に施し、しかして我に従えと。条件は又も卑近なる事であった、しかしながら難しきことであった。彼は遂にいたく憂えて実行しえなかったとある。しかして福音書記者はここに自己の意見をさし加えて、「彼大いに富める者なりしかば云々」と言うている。彼れのいたく憂えし理由は、単に彼が財産上の富者なりしがゆえであろうか。そうではあるまい。彼にしてもし先の税吏のごとき心貧しき人であったならば如何。彼れのイエスに従うをえざりしは、財産の富者たりしがゆえよりもむしろ心霊の富者たりしがゆえである。彼をしてイエスの答に対し豪然と「これみな我が幼きより守れる者なり」と言わしめたる、その彼の高ぶりの心が彼を妨げて、所有を貧者に施すを肯ぜしめなかったのである。彼は恐らく心の中につぶやいたであろう、余の所有は決して不義の財にあらず、余の正当なる道徳と努力との結果に外ならない、これをゆえなく貧者に施すにあらずば永生を嗣ぐあたわずとは解し難き言であると。かくて彼は遂に蹟いた。彼の徳性彼をして蹟かしめたのである。神殿にて自己の徳行を数え立てて祈りしパリサイの人の義とせられざりしごとく、この宰もまたイエスに義とせらるることが出来なかったのである。
イエスその甚く憂えしを見ていいけるは、富める者の神の国に入るは如何に難いかな、富める者の神の国に入るより駱駝の針の孔を通るは却て易し(同章二十四、二十五節)
我等はここに彼の他の言葉を連想せざるをえない、曰く、
汝等富める者は禍なるかな、すでに安楽を受くればなり(ルカ六章二十四節)
汝等貧しき者は福なり、神の国はすなわち汝等の所有なればなり(同章二十節)
富める者といい貧しき者といい、これを財産上の貧富の意味に解して意味が通じないではない。しかし宰の話はその前後の関係より見るも、心霊において殊に徳行において富める者の却てそのために妨げられ、幼児のごとき信頼を神に投げかくるをえざることの教訓であると見るがふさわしい。しかのみならず右に掲げしと同じ言葉が、マタイ伝に在りては有名なる山上の垂訓の冒頭語として左のごとく記されているのである、
心の貧しき者は福なり、天国はすなわちその人の有なればなり(マタイ五章三節)
と。
我等は最早や信仰の弱きを歎かない。却て「わが信仰」なるもののない事を喜ぶのである。我に人を心服せしむるだけの徳がない、善を行うの勇気がない、誘惑を斥くるの力がない、人を愛するの愛がない。我心に平和がない、歓喜がない、希望がない、我心に善き物とては一つもなきを発見する毎に、我は昔のごとくに失望しない。その時我は悲しみをかえて直ちに喜びとなすのである。その時我は罪人なる税吏のごとくにひたすら胸を打ちて神よ我を憐みたまえと祈りうることを喜ぶのである。その時十字架上のイエスの姿が最も鮮やかに我心に映ずることを感謝するのである。かくのごとくにしてもはや我は失望するの時がない。実に「福なるかな心の貧しき者は」である、彼は心の貧しきがゆえに神の国を承け継ぐことをうるのである。