誘われることはそのままに罪ではない。人は誘わるべきものに造られてあるのである。彼がもし神のように悪の可能性を絶対に超越しているならば、彼はもちろん誘われないであろう。またもし動物のように真実なる意味においての善の可能性を全く欠如しているならば、同様に彼は誘われないであろう。しかし人は二者の中間に位する。彼は善に対するとひとしくまた悪に対する可能性を帯びている。彼にはすべて快楽を愛しすべて苦痛を憎むところの感受性がある。しかしてその感受性のはたらきの中より、彼は自由の意思をもって善か悪かを選択せねばならぬ。このゆえに人が世にありて遭遇するほどの事物は必ず彼の感受性に訴えて善悪いずれかの方向に彼を誘う。その悪の方向に誘うものを呼んで普通に誘惑というのである。神は誘惑の世界の上にあり、動物はその下にあり、しかして人はその中にある。
誘惑は外より来る。外より何かが来たりて我らの心にある印象を刻むときに誘惑は始まるのである。ゆえに悪についてのある印象を我らの心に刻まれることその事が直ちに罪であると言うことは出来ない。外来の刺戟に応じおのずから理性において悪を考え感情において悪を感ずることその事が直ちに罪ではない。
罪は必ず意思において成り立つ。理性または感情の上に刻まれたる悪の印象が次第に深まりゆきて、遂に意思を捉えるに及び、ここに始めて罪は発生するのである。意思は理性のように冷たきものではなくまた感情のように縛られたるものではない。意思には生命があり自由がある。ゆえに意思は理性のごとき無関心をもって悪の印象を受けず、また感情のごとく強制せられてこれを受けない。悪の印象が意思にやどるは、必ずその同意を得たときである。自ら同意せずして意思は何ものをも受けないのである。しかして悪の同意はすなわち罪である。何となれば悪はそれによって我ら自身のものと成るからである。理性が悪を思うとき悪は未だ必ずしも我らのものではない。感情がこれを懐うときまた同様である。しかし一たび意思が悪を欲うに至っては、悪はすでに決定的の印象を我らの心に刻んだのであって、その悪は今や確かに我ら自身に属する。誘惑と罪との境界線は意思の入口にある。
かくのごとく観念上においては誘惑と罪との境界線は明瞭である。しかしながら事実はさほどに簡単ではない。人の心は深き迷宮である。理性といい感情といい意思といい、その働きは交互に錯綜して分かちがたい。悪の印象が果たして理性および感情の域にのみありて、未だ意思の境を犯さないか否か、これを見定むるは容易の事でない。原則として誘惑は悪の暗示よりその喜悦に、しかして遂にその同意にまで進むとはいえ、しばしばまたその喜悦はすでに同意の結果である事がある。かつまた我らの品性には罪の習性が根ぶかく固着しているため、外よりの誘惑によらずして内より罪の慾求を起こすことも決して稀でない。この場合においてはたとえ自分の意識は誘惑の経験に似ているとも、それは誘惑ではなくして最初よりすでに罪である。しかしてかく内より発したる罪がさらに外来の刺戟と結合して新しき誘惑を形づくる等、その作用の複雑微妙なる、到 底一片の杓子定規をもって律すべき限りでない。
バンヤンの『天路歴程』のなかに、クリスチャンが死の蔭の谷を辿るとき、何ゆえともなく神を褻さんとする思いの湧き来たりて甚だしく悩まされる所がある。彼はこの思いを自分の心より起こりしもののごとく感じたのである。何ぞ知らん、それは悪鬼のひとりがひそかに彼の後ろに忍び寄りてその耳にささやきし声であった。
我らは人間である以上、誘惑を感ずるを免れることは出来ない。イエスさえこれを免れなかった。誘惑を感ずるとそれに応ずるとは全然別の事である。ルーテルは sentire tentationem 及び consentire tentationi の語をもってこれを区別した。「暗示するは悪魔の分、同意を拒むは我らの分」とアウガスチンもいう。二者の間に超ゆべからざる境界線がある。誘惑の大水にむかうてもまた「ここまでは来たるべし、ここを越ゆべからず、汝の高浪ここに止まるべし」と神の定めたまいし関門がある(ヨブ三八の一一)。それを明らかに見定むるは容易でない。殊に一度にても誘惑に敗れし経験が重なれば重なるほど我らの判別力は鈍る。しかし我らは失望すまい。我らに鋭き剣がある。理性と感情と意思とを透してこれを分かち、何が罪であるかを截然と分かち得る剣がある。すなわち神の言である。我らはこれを執って立つであろう。言の言なるキリストの力によって闘うであろう。しかして彼にありて勝ちまた勝つであろう。