イエスは祈祷の人であった。彼はしばしば寂しき処に退き又は山に上りてただひとり祈った。一夜を祈り明かすがごときは彼にとりて珍しき経験ではなかった。
彼の生涯の際だちたる出来事の蔭には必ず祈祷があった。福音書記者中特にルカは注意してその消息を伝えている。例えばヨルダン川に浸りてバプテスマを受けたときにイエスは祈っていた。そのとき天ひらけ聖霊くだりかつ天より「なんじはわが愛しむ子云々」の声が聞こえたのは、彼の祈祷に対する応答であった(ルカ三の二二)。十二人の使徒を選ぶ前夜、彼は山上に祈りつつ明かした。使徒らが彼に与えられたのは彼の祈祷の結果であった(ルカ六の一二)。ピリポ・カイザリヤの地方にて、弟子たちに彼の誰であるかを問い、「なんじはキリスト、活ける神の子なり」との告白をペテロより引きいだしたのも、彼が「人々を離れて祈」っていた時であった(ルカ九の一八)。山上に彼の貌かわりその衣白く輝きて、モーセ、エリヤの二人栄光のうちに現われ彼と共に語ったのも、同じく祈祷の時であった(ルカ九の二九)。ラザロを復活させるに当りても彼は祈った(ヨハネ一一の四一)。その他かの最後の説教の後のいのり(ヨハネ一七)、ゲッセマネの園のいのり、また十字架上のいのりのごときは何人もこれを知っている。
ただにこれら重大なる危機においてのみではない、事ある毎にイエスは祈った。最寄の村にゆきて教えを宣べんとするとき、彼は「朝まだき暗きほどに起き出でて寂しき処にゆき、そこにて祈」った(マルコ一の三五)。ある町にて一人のらい病人を癒したのち「慎しみて誰にも語るな」と厳しくこれを戒めたにも拘わらず、癒されし者出でてあまねく吹聴し始めたために、大いなる群衆あつまり来たとき、彼はこれを避けて町の「外の寂しき処に留まりたもう」とマルコは記しているが(マルコ一の四五)、それもまた祈りのためであった事はルカ伝に明白である(ルカ五の一六)。無知なる漁夫ら七十人の弟子たちが最初の伝道を終えて帰ったとき彼は喜びにあふれ、意味ふかき感謝のいのりを献げた(ルカ一〇の二一)。バプテスマのヨハネの死が彼に伝えられたとき、彼は直ちに「人を避け、そこより舟にのりて寂しき処に往」こうとした。しかしたまたま大いなる群衆、町より徒歩にて彼に従い来たるを見てこれを憫み、先ず彼らの病をいやしその飢えを満たし、しかるのち「直ちに弟子たちを強いて舟に乗らせて彼方の岸に先に往かしめ」、彼みずから群衆を去らせ、しかして漸く「祈らんとて窃かに山にのぼり、夕になりて独りそこに」いた。その夜の祈りは「夜明けの四時ごろ」まで続いたと覚ぼしい(マタイ一四の一三~二五)。最後も近づきしころ、数人のギリシャ人が彼に謁えんことを願うたとき、彼は深き感慨にうたれ、ゲッセマネの祈りに似たる祈りをなした(ヨハネ一二の二七、二八)。
「イエスある処にて祈りいたまいしが、その終りしとき、弟子の一人いう『主よ……祈ることを我らに教えたまえ』」(ルカ一一の一)。祈りはイエスの習慣であったのである。しかして彼の祈る毎に弟子たちは言いがたき厳粛味とゆかしさとを感じたのである。しかして自らもその恩恵に与かりたくおもうたのである。ゆえにあるとき遂に彼の祈り終るを待ちて、右のごとき願いを彼に持ち出したのである。
イエスはおのが業について次のごとく言うた、「まことに誠に汝らに告ぐ、子は父のなしたもうことを見て行うほかは自ら何事をもなし得ず」(ヨハネ五の一九)。また「我ら見しことを証す」と(ヨハネ三の一一)。彼はいかにして父のなしたもうことを見たか。祈祷によってである。ゆえに祈祷によらずしてはイエスは何事をもなさなかったのである。
イエスの祈祷には、彼のあらゆる行動におけると同じように、定まりたる形式なるものは全然なかった。彼は大抵、目を挙げ天を仰いで祈ったらしい(ヨハネ一七の一、一一の四一参照)。それは天にいます父と語る霊魂の自然の姿勢であって、素より形式と見るべきでない。祈祷というほどならぬ嘆息のときにも彼はこの姿勢を取った(マルコ七の三四)。彼はまた「父よ」あるいは「アバ父よ」「わが父よ」あるいは「天地の主なる父よ」というて口を開いた(ヨハネ一七の一、マルコ一四の三六、マタイ二六の三九、マタイ一一の二五)。それもまた父なる神に対する自然の呼び掛けであること言うまでもない。この呼び掛けに導かれて出でし彼の発言は、すべてその時の彼の心そのままであって、何の飾るところも憚るところもない。暗黒が彼を蔽うてあたかも地獄の底に投げ入れられたかのように感じたときには、古きダビデの狂乱の言葉さながらに「わが神わが神なんぞ我を棄てたもうや」とさえ彼は叫んだ。ギリシャ人が彼に謁えんことを願いしときの彼の祈祷のごときは、その人らしさを遺憾なく現わしている。始めに彼は心騒ぎて、いかに祈るべきかをさえ知らなかった。ゆえにそのままに、半ば独白の態に彼は口をひらいた、
今わが心さわぐ、われなにを言うべきか。(ヨハネ一二の二七)
これパウロが「我らはいかに祈るべきかを知らざれども」と言いし経験に類するものである。イエスにさえそれがあったのである。しかして彼は包まずその心を表白したのである。しかし直ちに彼は祈りの言葉を見いだして言うた、
父よ、この時より我を救いたまえ。(ヨハネ一二の二七)
それは確かに祈祷である。けれどもそれはなお人らしき自然の願いに過ぎなかった。彼は自ら進んで死の途をえらびながら、なお死より救われたき願いが胸の中の何処かにあるを否むことが出来なかった。彼は正直にそれを表わした。しかしながらもちろんこの自然の欲求が彼の最後のおもいではない。たちまち霊性は自然性を抑えて起った。しかして彼の祈祷はその最後の階梯にまで進んだ。
されど我このためにこの時に到れり。父よ、聖名の栄光をあらわしたまえ。(ヨハネ一二の二七、二八)
「なんじの栄光の現われんがためならば、いかようになりとも聖旨のままになしたまえ」との心である。これがイエスの祈祷の根本精神であった。彼はいつもその人らしさを隠さずありのままに表わしたとはいえ、最後には必ずこの絶対信頼に落ちついたのである。ゲッセマネの園の祈りにおいても同じ事を明らかに我らは見る。
(わが心いたく憂いて死ぬるばかりなり。)
アバ父よ、父にはあたわぬ事なし、この酒杯を我より取り去りたまえ。
されどわが意のままを成さんとにあらず、聖意のままを成したまえ。(マルコ一四の三四~三六)
この最後の一句は恐らくイエスの祈祷のすべてに通うものであろう。神の聖意の成らんことを願うにまさる祈祷はない。我ら自身の意は成らずともよいのである。聖意が成るときに我らのためにも最善の事が成るのである。イエスは常にこの心をもって祈った。彼の生涯はまことに絶対信頼の生涯であった。